武士の鑑とまで称された畠山重忠と、権力の妄想に
取りつかれた北条時政との争いが始まろうとしてい
ます
顔を震わせながら「戦など誰がしたいと思うか!!」と
絶叫する重忠
冷静沈着、感情を剥き出しにする事の無い重忠の雄叫
びには、心を揺さぶられてしまいました
ちょっとしたボタンの掛け違いで戦をする事になった
重忠の無念さが滲み出ていましたね
父・時政の命令には逆らえず、止む無く重忠討伐軍と
して参戦せざる負えなかった義時ですが、三浦義村や
和田義盛はこの機会を待っていた気がしてなりません
頼朝が挙兵した当時、畠山重忠の父・重能は京都に居
たので、重忠としては父・重能に従い頼朝軍には参加
しませんでした
そればかりか、平家軍として行動を起こします
石橋山の戦いには間に合わなかった見たいですが、途
中で三浦軍と遭遇。
三浦、畠山は旧知の仲だったのでお互い兵を引く手筈
でした。
連絡不足なのか?勘違いなのか?和田義盛の弟が畠山
軍を攻撃
止む無く防戦しますが、劣性となり武蔵へ逃げ延びま
す
面子を潰された重忠は、秩父党の武士を従え三浦氏の
居城・衣笠城へと進軍
数の上でも劣勢となった三浦軍は安房へ逃れます
衣笠城に一人残って討ち死にしたのが、三浦義明です
この時義明は89歳だったと言われています
安房に逃げるにしても足手まといになると考え、自ら
の意志で城に残った見たいですね
しかし、この25年前の因縁が今回の戦いに繋がった気
がしてなりません
三浦義村の動きが素早過ぎるからです。
祖父を殺された怨念を25年間持ち続けていたのでしょ
うか?
何事も冷静に対処してきた義村にしては、感情をむき
出しにしている様にも思えますが…
普段、冷静さを装っている畠山重忠、三浦義村、北条
義時の 三人が、感情を剥き出しにしている様は見応え
十分です
もし
重忠が武蔵に戻り、秩父党を引き連れ鎌倉に進軍すれ
ば、かなり際どい勝負になったかも知れません
人望の厚い重忠になら、幕府を見限って寝返る武将も
多かったかも知れません
しかし、武士による幕府体制そのものが崩壊する恐れ
があります
朝廷による工作で幕府が骨抜きにされたでしょうね。
そういう意味では、幕府の存続・維持の最大の功労者
は畠山重忠だとも言えますね
死して名を遺した畠山重忠、武士の鑑と言われるに値
する人物なのは誰もが認めるところですね