函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

鎌倉殿の13人、25年前の因縁!!

2022-09-19 | 歴史

武士の鑑とまで称された畠山重忠と、権力の妄想に

取りつかれた北条時政との争いが始まろうとしてい

ます 

 

顔を震わせながら「戦など誰がしたいと思うか!!」と

絶叫する重忠

冷静沈着、感情を剥き出しにする事の無い重忠の雄叫

びには、心を揺さぶられてしまいました 

ちょっとしたボタンの掛け違いで戦をする事になった

重忠の無念さが滲み出ていましたね 

 

父・時政の命令には逆らえず、止む無く重忠討伐軍と

して参戦せざる負えなかった義時ですが、三浦義村や

和田義盛はこの機会を待っていた気がしてなりません 

 

 

頼朝が挙兵した当時、畠山重忠の父・重能は京都に居

たので、重忠としては父・重能に従い頼朝軍には参加

しませんでした

そればかりか、平家軍として行動を起こします

石橋山の戦いには間に合わなかった見たいですが、途

中で三浦軍と遭遇。 

三浦、畠山は旧知の仲だったのでお互い兵を引く手筈

でした。

連絡不足なのか?勘違いなのか?和田義盛の弟が畠山

軍を攻撃 

止む無く防戦しますが、劣性となり武蔵へ逃げ延びま

 

面子を潰された重忠は、秩父党の武士を従え三浦氏の

居城・衣笠城へと進軍 

数の上でも劣勢となった三浦軍は安房へ逃れます

衣笠城に一人残って討ち死にしたのが、三浦義明です

この時義明は89歳だったと言われています 

安房に逃げるにしても足手まといになると考え、自ら

の意志で城に残った見たいですね

 

しかし、この25年前の因縁が今回の戦いに繋がった

がしてなりません 

三浦義村の動きが素早過ぎるからです。 

祖父を殺された怨念を25年間持ち続けていたのでしょ

うか? 

何事も冷静に対処してきた義村にしては、感情をむき

出しにしている様にも思えますが…

 

普段、冷静さを装っている畠山重忠、三浦義村、北条

義時の 三人が、感情を剥き出しにしている様は見応え

十分です 

 もし

重忠が武蔵に戻り、秩父党を引き連れ鎌倉に進軍すれ

ば、かなり際どい勝負になったかも知れません 

人望の厚い重忠になら、幕府を見限って寝返る武将も

多かったかも知れません 

しかし、武士による幕府体制そのものが崩壊する恐れ

があります

朝廷による工作で幕府が骨抜きにされたでしょうね。 

そういう意味では、幕府の存続・維持の最大の功労者

は畠山重忠だとも言えますね

死して名を遺した畠山重忠、武士の鑑と言われるに値

する人物なのは誰もが認めるところですね

 

 

 

 

 

コメント
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