函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

麒麟がくる、戦国の家法!!

2020-12-28 | 歴史

三渕藤英が切腹しましたね

追放した義昭と連絡を取っていたのが致命傷… 

時代が大きく変わっていくのを藤英自身もおそらく

分かっていた筈です 

もしかしたら、幕府自体の存続の意味すら無くなっ

ていた事も気付いていたかも知れません 

しかし、藤英には幕府を見限るという選択肢はなか

ったのです 

足利幕府の家臣として仕えてきた三渕家。 

長男として生まれた藤英にとって、将軍家を見捨て

信長に乗り換える事は死んでも出来なかったのでし

ょうね 

義輝を守り切れなかった事にも慚愧の念があった強

かった筈 

時流を見極め、信長へと舵を切った藤孝とは兄と弟

の立場の違いを感じます。 

家督を継いだ長男と、養子に出された弟の違いなの

かも知れませんね 

ところで 

光秀を頼り斎藤利三が登場しましたね 

後に徳川三代将軍・家光の乳母となるお福の父親で

 

斎藤利三の前半生ははっきりした事が分かっていま

せん。 

そこのところも主の明智光秀と似ていますね 

美濃の出身だった様ですが、名前からして美濃・斎

藤家の一族だった可能性が高そうです 

自分から勝手に斎藤氏を名乗った道三とは違います

ねよね 

 

利三は稲葉一鉄の婿だとも言われています 

しかし、何故か?一鉄は利三を重用しなかったらし

いのです。 

嫌気が差した利三は他家への仕官を考えますが… 

定説では、信長が利三を一鉄に返すように言ったと

ころ光秀が反論

激怒した信長は折檻 

その事を根に持っていた光秀は本能寺の変へと…

戦国時代の家法として、新しい主君に使える場合、

旧主の許可がいるのです 

当時の慣習なので信長も無視する訳にはいかなかっ

たのでしょうね 

信長は単に慣習に従っただけだったのです。 

何れにしても、この事が原因で本能寺の変起こした

という説はあまりにも安直過ぎますよね

 

 


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