日韓首脳会談を機会に日本に潜在する朝鮮亡命者の「恨みの歴史」も正しく認識しよう

2005年06月19日 21時55分40秒 | 政治
日韓首脳、20日に会談 靖国・歴史問題など焦点 (朝日新聞) - goo ニュース 

「靖国神社問題」は、世界中の人々に日本という国に「神社」というものがあることを広く知らせるのに大いに役立った。何しろ、靖国神社を見たことも、聞いたこともなかった人々が、マスコミ報道を通じて「靖国神社」の写真を網膜に刻み付けることができたからである。靖国神社にとっては、莫大な宣伝費用をかけることなく日本国民ばかりでなく、世界の人々に知らせることができた。ライブドアの堀江貴文社長が、近鉄買収劇から始まって、ニッポン放送株買収劇に至る間に、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などにさんざん取り上げられて、「タダ」で宣伝してもらったのと、よく似ている。伊勢神宮や宇佐八幡宮、住吉神社、明治神宮などは、おそらく指を加えて見ていただろう。
 この際、折角であるから、全国各地の神社は、「神社神道」というものについて、大々的にPRしたらどうだろうか。そうすれば、お賽銭も増えるのではないか。
 もう一つ、絶好のチャンスがいま訪れている。それは、小泉首相と盧武鉉韓国大統領との日韓首脳会談が20日、ソウルで行われるからである。こんな機会もめったにはない。
 日本の神社と韓国とが、一体、どんな関係にあるというのか。日本が、中国・朝鮮から文化を取り入れた国であることは、だれでも知っている。だが、日本という国が、中国や韓国の「渡来人」あるいは「亡命人」たちの力によって進歩、発展した国であるということは、案外に、意識からは抜け落ちているのではないか。
 その意識を蘇らせてくれるのが、神社である。
 たとえば、中国の渡来人のなかに「秦」という一族がいた。稲作の技術を日本にもたらしたという。その一族が祖先を祀ったのが「住吉神社」といわれる。稲を食い荒らしたのが、「鼠」である。そこで秦一族は、鼠の天敵である「キツネ」を水田に放った。キツネたちは、見事に鼠を捕まえては、食い、また駆逐してくれた。そのご利益に感謝してキツネを祀ったのが、「稲荷神社」である。しかも最も高い位を与えて感謝の意を示した。「正一位」という位である。並みの人間よりも偉い。秦一族は、醸造技術を日本にもたらした。京都の「太秦」がそれである。この一帯は、いまでも酒所として有名である。
 さて、朝鮮半島からの渡来人も、日本各地に定住し、祖先を「神社」として祀った。
 その一つが、宇佐八幡宮である。大分県宇佐市にある。応神天皇、ヒメカミ、神功皇后を祭神としている。この神社ができるころ、朝鮮民族が日本の原住民を征服したという説もある。応神天皇、ヒメカミ、神功皇后の関係は、曖昧だが、神功皇后が朝鮮へ出兵したという伝説もある。
 宇佐八幡宮は、豊前国一宮で、伊勢神宮に次ぎ、九州第一の宗廟として社運は大いに振るい九州、四国、中国、近畿から関東へと八幡信仰が拡大し、岩清水八幡宮、鶴が岡八幡宮などへと発展する。 岩清水八幡宮、鶴が岡八幡宮は、武家の一方の頭領・源氏の守神である。
 古来より宇佐八幡のある豊前地域は、秦氏やその一族である漢民族や新羅系加羅人の秦氏の一族が居住していたともいわれる。八幡の「幡」は「秦」ともいわれ、「八」は「多くの」という意味で、多くの秦氏が住むところという意味を示すとも聞く。もともと宇佐八幡は、新羅の神が祀られていたことになる。
 また新羅は、「新座」「志木」とも変形して、埼玉県の市名にもその名残を止めている。
 狛氏という一族がある。高麗氏、巨万氏とも書く。高句麗からの渡来人である。668年、高句麗滅亡以前に渡来した高句麗人は、多く特殊技能者や生産者で、そのうち部の下級指揮者や伴造となったものは、高麗(こま)、狛、大狛などの氏称を有したが、高句麗滅亡後に日本に亡命してきた王族が高麗氏を称して以後、もっぱら狛の字を用いた。
 これらの系統を引くものに、平安時代に雅楽を世襲し、三方楽人の一つとなった狛宿禰(すくね)の家がある。武蔵国(いまの埼玉県)高麗郡を立てた人々もこの子孫である。高麗川の近くに高麗神社がある。
 柿下人麿も、百済滅亡により日本に亡命してきた渡来人である。中央政界の政争に巻き込まれて「水刑」に処せられている。残した和歌を朝鮮語で読むと「望郷の歌」と言われている。
 百済の王族は、宮崎県の五木の子守歌で知られる山奥に逃げ、いまは、「百済の里」と言われている。
 伊勢神宮は、天皇家の祖神を祀った日本第一位の神社である。新羅、高麗、百済などとの関係も深い。
 日本列島には、その昔、原住民であるアイヌ、隼人、熊襲などが住み、そこへ中国や朝鮮半島から渡来人や亡命人が住み、さらに、南方からも黒潮に乗ってやってきた人々が住みつき、それらが、相争いつつ、朝鮮半島からやってきた人々がつくった大和朝廷により次第に統一されてできた混血国家だったようである。
 十数年前の駐日韓国大使が「日本人は、朝鮮半島に恨みを抱き続けてきた」と述べていたのが思い出される。
 日韓併合時代の35年間の日本統治により韓国の人々が日本に抱く「恨み」よりも、日本人が「朝鮮半島」に抱き続けてきた「恨み」の方がはるかに長いということである。いわば1400年もの「恨み」である。
 日本から送った兵が敗れた白村江の戦い(これは、日本から朝鮮への侵略ではなく、百済から日本に嫁いできた王女である斉明天皇が新羅・唐連合軍に攻められ、滅亡されそうになった実家を救援に行き撃退される)、豊臣秀吉の朝鮮征伐、明治維新初頭の「征韓論」、日韓併合(これは、アメリカのタフト国務長官が日本の桂太郎首相に密約で要請=韓国の高校教科書にも詳述)の歴史が、いわゆる「侵略」というよりは、朝鮮半島からの亡命者たちの「遺恨」を潜在的に含んでいるとも読み取れる。その潜在意識が今日まで続いているとしたら、空恐ろしい感じもする。
 朝鮮半島における「三国」の争いをはじめ、「いつもケンカばかりしている」といわれてきた朝鮮半島の戦争史や、朝鮮半島から日本に持ち込まれた争い、日本の神社の成立ちなどを含めて、双方とも、「歴史認識」を正しくし、現代にまで引き継がれてきた日韓相互のいがみ合いを一刻も早く解消した方がよさそうである。
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