大徳寺の僧侶であった立花大亀氏の<おのれを生かし人を生かす>という本を読みました。禅のことが、やさしい言葉で解説されているとのことでした。しかし、座禅も組んだことのない私には、理解しにくい表現が多く、難解です。その本の中から、一部分を抜粋します。
ー生と死も、ひっきょう、この水と氷のごとくではないか。そこには、なんらの隔たりもあるものではない。水が氷になったというのは、これは人間の観念である。ひとたびかような人間的観念を放棄し去ったとき、そこにあるのは、もはや生死を超越した仮の姿、つまり仮体のみではないか。
聖徳太子のことばを借りれば、<世間みな虚仮。ただ真実は仏法のみ>ということになります。この世の中にあるものはみな、時間の中で仮につくられたむなしいものであって、本質というものはどこにもない。
あるのはただ仏法のみである。仏法とは、<ああ、そうか、そうだったのか?>と気づくことであります。仏(佛)という字は、もともと人偏に弗(はらう)と書きます。つまり、人間から人間的なものをいっさいとり払うこと、つまり目覚めることであります。・・・ー
また、悟りとはわが執着に気づくこととも、書いています。執着し、自我の強い私とは対極の存在が、禅であるような気がします。ということで、禅僧は人間を見る視点は、私とは全く違いますので、新鮮な発想でもあります。
蛇足ですが、私のとっては、論語の方が理解しやすいような気がします。
ー生と死も、ひっきょう、この水と氷のごとくではないか。そこには、なんらの隔たりもあるものではない。水が氷になったというのは、これは人間の観念である。ひとたびかような人間的観念を放棄し去ったとき、そこにあるのは、もはや生死を超越した仮の姿、つまり仮体のみではないか。
聖徳太子のことばを借りれば、<世間みな虚仮。ただ真実は仏法のみ>ということになります。この世の中にあるものはみな、時間の中で仮につくられたむなしいものであって、本質というものはどこにもない。
あるのはただ仏法のみである。仏法とは、<ああ、そうか、そうだったのか?>と気づくことであります。仏(佛)という字は、もともと人偏に弗(はらう)と書きます。つまり、人間から人間的なものをいっさいとり払うこと、つまり目覚めることであります。・・・ー
また、悟りとはわが執着に気づくこととも、書いています。執着し、自我の強い私とは対極の存在が、禅であるような気がします。ということで、禅僧は人間を見る視点は、私とは全く違いますので、新鮮な発想でもあります。
蛇足ですが、私のとっては、論語の方が理解しやすいような気がします。