肥沼氏(古田史学の会会員)のブログには古代史の研究上重要な示唆が多く大変参考になります。今回『隋書』の「五絃」について『芸能史研究』という研究書の中に「五絃」について以前考察されました増田修氏の研究に触れながら「九州王朝説」が展開されていたことが紹介されていました。http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2016/08/post-89fc.html
それ自体は重要ですが当然ともいえるもので特に異論はありませんが、『隋書俀国伝』に出てくる「五絃」について「五絃琵琶」を指すという解釈が紹介されていました。この「五絃」については以前(二年ほど前ですが)考察したことがあり、ブログにも書きましたが、改めて考察し、「五弦」=「琵琶」という議論に異論を述べたいと思います。
『隋書』の中では「五絃」とは「五絃琵琶」を指すという指摘がありましたが、『隋書』の中で「五絃」が明確に「琵琶」を指して使用されているというのはただ一箇所です。(以下の部分)
「隋書/列傳第四十四/外戚/蕭巋 子琮 瓛」より
「…蕭巋字仁遠,梁昭明太子統之孫也。父詧,初封岳陽王,鎮襄陽。侯景之亂,其兄河東王譽與其叔父湘東王繹不協,為繹所害。及繹嗣位,詧稱藩于西魏,乞師請討繹。周太祖以詧為梁主,遣柱國于謹等率騎五萬襲繹,滅之。詧遂都江陵,有荊郡、其西平州延袤三百里之地,稱皇帝於其國,車服節文一同王者。仍置江陵總管,以兵戍之。詧薨,巋嗣立,年號天保。巋俊辯,有才學,兼好內典。周武帝平齊之後,巋來賀,帝享之甚歡。親彈琵琶,令巋起舞,巋曰:「陛下親御五絃,臣敢不同百獸!」…」
これを見ると確かに「親彈琵琶」とした直後に「陛下親御五絃」としていますから、この「五絃」が「琵琶」であることは間違いないでしょう。しかしこの例は「周」の場合であり、いわゆる「北朝」の系統に部類します。
そもそも「倭国」が南朝に偏した外交活動であったことや『俀国伝』の風俗記事が半島諸国の記事と比べかなり南朝的な傾向が見て取れること、同じ『隋書』の中の「林邑伝」など南方地域の記事内容が「俀国伝」にかなり類似していることなども併せ、倭国の文化が北朝系統とは異なる事が見て取れます。また「琵琶」は「西域起源」ともいわれる「四絃琵琶」と「印度」(天竺)起源とされる「五絃琵琶」とがあったとされ、後者は「北朝」を通じて東アジアに伝搬したもののようです。これらから考えて「五絃」が「五絃琵琶」を指すとは言いにくいのではないでしょうか。「倭国」がそれほど「北朝」と深い関係があったとは考えにくく、「百済」からの伝来としても「百済」自身が「北朝」よりも「南朝」にやはり偏倚していたことを考え合わせるとこの「五絃」は「琵琶」ではなく「琴」であったと見るべきでしょう。またもし「五絃」と「琴」を区切ったとすると「琴」(この場合「七弦琴」となる)が「五絃」より後に書かれている事となりますが、『隋書』の中で「楽」を記載する順序として(暗黙ではありますが)「琴」が先頭に書かれるという原則がここでは行われていない事となります。「琴」(七弦琴)は「楽」の「統」であるとされ、常に中心的位置に置かれると同時に記載される際も先頭に置かれるという原則があるようです。しかしここでは「五弦」の後に書かれていることとなってしまいます。それを不審とするならこの「琴」はその前の「五絃」と連続して考え「五弦琴」を指すとみるのが相当ではないでしょうか。
またこれを「五弦琴」と連続して考えるとその「五弦琴」が旧「南朝」地域に依存していたとされることと重なります。
『禮記』などに「帝舜」と「五弦琴」についての逸話が書かれています。
「…昔者舜作五弦之琴以歌南風,夔始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有者也。…」(『禮記』「楽記」)
この「五弦之琴」(五弦琴)については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものと言う事もあり、特に中国南方地域に強く遺存していたようです。「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。
「《湘中記》曰:其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲《漁父吟》。」(『太平御覧』州郡部十七「江南道下」「潭州」)
このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは『隋書』の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。
また現在「琵琶」の伝来は奈良時代とされており、『隋書』にいうような「六世紀末」という時期にすでに「琵琶」があったとは考えにくいものです。一般に「四絃琵琶」の方が中国における歴史が長く「五絃」は「仏教」の伝来と共にインドから流入したものと見られます。特に中国北朝において「五絃琵琶」が発展したものですが(「北魏」の遺跡からは「五絃」の「琵琶」が出ています)、倭国はすでに述べたとおり「北朝」とは関係が希薄であり、国内に早期に「五絃琵琶」が流入していたとは想定しにくいといえます。
中国では「五絃琵琶」が流入する以前に「西域」(ペルシャなど)に起源を持つとされる「四絃琵琶」が存在していました。『隋書』の時代においても「四絃琵琶」の方が主流であったと見るべきと思われるわけであり、確かに上に見るように『隋書』の中には「五絃」が「琵琶」を指す例も存在していますが、普遍的に「五絃」が「琵琶」を指すとは言いきれないと思われるわけです。
この「琵琶」が「四絃琵琶」を指すものとすると、当時の倭国には「四絃琵琶」がなく「五絃琵琶」だけがあるということとなりますが、そのような想定はかなり不自然ではないでしょうか。中国との関係からいうと南朝との関係は以前からあったわけであり、「四絃琵琶」があったとして不自然ではないと思われるわけですが、そうであるなら「琴」も「七弦琴」が存在していて当然ということとなります。
「琴」についていうと「周代」に「七絃」となる以前は「五絃」であったものであり、以降中国では「琴」といえば「七弦琴」を指すものでした。しかし「倭国」においては「五弦」あるいは「四絃」のものしか出土(遺存)せず、「七弦琴」は全く見られません。
この事は「琵琶」においても「五絃琵琶」が伝来する蓋然性より「四絃琵琶」の伝来の可能性の方が高いものと思われることとなり、さらには「七弦琴」が伝来していないならば「四絃琵琶」についても同様であった可能性を強く示唆するものです。つまりこれらのことは『隋書俀国伝』において「五絃」とあるのは「五絃琵琶」でなく、さらには「琴」とは「七弦琴」でもないこととなるわけであり、実際には「五絃」の「琴」を指すとしか考えられないこととなります。
『隋書俀国伝』の「楽」についての記事中には「鼓角」はあるが、国書記事の前に書かれた倭国の風土についての記事(これは「遣隋使」が「隋皇帝」の問いに応じて答えた中にあると思われるもの)では「鼓角」がないこと、国内から全く「七弦琴」の遺物が出土していないこと等々、「七弦琴」と「鼓角」が「隋」以降(というより「遣隋使」あるいは「隋使」による)の伝来と推定される状況があります。このことは「七弦琴」がある意味「一過性」の楽器であったと推定されるものです。それは『源氏物語』において「琴」(七弦琴)について「こと」ではなく「きむ」と「音」で表現していること、それが「至高」の貴人の特権的楽器であったらしいこと、「楽譜」も「南北朝期」のものが伝来していることなどから「七弦琴」が「遣隋使」あるいは初期の「遣唐使」によってもたらされたものと考えることに正当性があることを示しています。
また「隋」の開皇年間に定められた「隋代七部楽」のなかに「倭国」からのものが含まれていることから、「開皇の始め」という時期あるいはそれ以前に「倭国」から「国楽」がもたらされていたことさえ示唆されています。そうであれば大業年間とされる「裴世清」の来倭記事は国交開始時点のものではないことが推定できますが、その場合「鼓角」を鳴らしての歓迎風景も隋使を迎えるものとして隋礼を学んだ後のものとすると整合しているといえます。