国分寺の先蹤と思われる「隋」の高祖の詔では「尼寺」には全く触れていません。これに素直に従えば「塔」の創建に主眼があったものであり、倭国王権はこれを受容する段階では「尼寺」という視点はなかったことと推定されることとなります。しかし、「白鳳」改元以降「倭王権」というより「倭姫」は各地に「尼寺」を建設し「国分寺」と同様「尼寺」の全国ネットワークを構築することとなったとみられ、その際にはやはり「元興寺」が「法隆学問寺」となったように「筑紫」の「尼寺」の中心としての寺院も「学問寺」としての性格が強く付与されていたとみるべきこととなるでしょう。その意味では「檀林寺」という名称はまさに似つかわしいものと思われますから、元々の「名称」が「檀林寺」であったことが強く推定できるものであり、「橘嘉智子」が「檀林寺」と命名した理由もそこにあったものと思われるわけです。
ところで「国分尼寺」に関する各種資料を見ると、「筑後」「周防」「長門」「伊豫」さらに「丹後」「摂津」という旧倭国九州王朝の覇権の範囲の地域の国分尼寺だけが「法華寺」という固有の名称を持っているように見えます。
ご承知のように「法華寺」というのは「光明皇后」が父である「藤原不比等」より継承した「自宅」を改造、寄進した寺院であり、聖武天皇の時代以降「国分尼寺」の頂点として存在していたものです。この「法華寺」という名称を先の地域では「国分尼寺」の名称として使用していることとなります。(※)
(以下「法華寺」の記載例)
(一二四一年)(仁治二)〔筑後〕同年六月一日の日付を有する筑後国交替実録帳に「法華寺」の堂舎として口葺金堂一宇、口寶蔵一宇が見え。また勘発文言に「件国分尼寺」や諸定額寺堂塔雑舎資財雑物は無実破損其数繁多とある(宮内庁書陵部所蔵文書、『鎌倉遺文』五八七六号)。
(一二五五年)(建長七年)〔伊予〕伊予国神社仏閣等免田注進状案に寺田として、国分寺十丁二反とともに、「法花寺二丁四反二百四歩」が見える。(『伊予国分寺文書』)
(一三二五年)(正中二年)〔周防〕留守所から周防国衙宛に「国分法花両寺」を興行し、公田下地を奉免すべき旨が命じられる。(『周防国分寺文書』)
(一三二七年)(嘉暦二年)〔長門〕長門国分寺領「法花寺敷地」一所が、国分寺別当寂通から旧の如く「尼衆賢旦房」に宛行われ、先規に任せて仏閣を紹隆し「尼法」を興行すべきことが下知される(塚原周造氏所蔵文書、『鎌倉遺文』二九九七七号)
(一四五九年)(長禄三年)〔丹後〕同年に書写された『丹後国諸庄郷保惣田数目録帳』(原本の日付は正応元年八月日)に「法花寺四町壹反三拾六歩」と見える。一方、国分寺については「拾五町三段拾八歩嘉松富名」とある(『改定史籍集覧』第廿七冊、新加雑類第八十入)
(一五七六年)(天正二年)〔摂津〕山科言経が禁裏御所で、「攝州柴嶋法花寺」の霊宝である聖武天皇御影・経文・綸旨・武家奉書等を見る(『言経卿記』同日条)
「類聚三代格」によれば「太政官符」という形で「天平十三年二月二十四日」という年次に国毎に国分寺と国分尼寺を造るように詔を出していますが、そこには諸国の「僧寺」については「金光明四天王護国之寺」、「尼寺」については「法華滅罪之寺」と命名するよう指示が出されています。しかし、(尼寺の場合)実際にはこれが実行されたのが確認できるのは上にみた例以外には「出雲」地域だけです。(ただし字地名として「法華寺」が存在しているものの「寺院」の名称としては残っていない)
これら以外には「法華(法花)寺」名称は見られず、そのことからこの名称は実際には「本来の名称」であり、以前から一部の尼寺ではこの名称として存在していたものであり、それを「追認」する形で「改名」指示が出されたとみるべきではないかと思われるわけです。
つまりその名称の分布からは地域特定性があるように見られ、倭国九州王朝段階において「国分尼寺」が作られた当初はすべて「法華寺」という名称ではなかったかということが推定されるわけです。その意味では「光明皇后」がその寄進した寺院を「法華寺」と命名したのも、「倭国九州王朝」に対する「畏敬の念」が根底にあったことが原因と思われ、そのため当初の名称をそのまま使用したということが考えられますが、その点については夫である「聖武」と同様のものであったと思われます。
「聖武」は「筑紫」を「大君遠御朝廷」と称してみたり(そこでは「朝廷に「御」という美称が付されているのが注目されます)、「詔」の中で「白鳳」「朱雀」という年号を使用するなど、「倭国九州王朝」に対する畏敬の念が強く表れています。その点については彼の皇后である「光明子」も同様であったとみられるわけです。
(※)牛山佳幸「諸国国分尼寺関係年表稿(中世編)」上田女子短期大学紀要二〇〇一年三月に詳しい。