古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「筑紫大宰」としての「天智」

2020年04月19日 | 古代史
ところでこの時点での「唐使」との対応は「津守連吉祥」と「伊岐史博徳」が主に担当しているようですが、この時点での「筑紫大宰」は『書紀』では不明です。
たとえば『続日本紀』の記事からは「阿部比羅夫」が「斉明」の時代に「筑紫大宰帥」であったという記事があります。

(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔…
庚辰。始置授刀舍人寮醫師一人。大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。

 このように「後岡本朝」つまり「斉明」の時に「筑紫大宰帥」であったとされています。しかし 彼は斉明四年段階では「越国守」とされていますし、翌年も「粛慎」との戦闘に出陣しています。ただし「斉明末年」は「筑紫」の「朝倉」に移動しており、この時「筑紫大宰」であったという可能性はありますが、「天智称制」期間には「百済を救う役」に出征しています。このままでは「筑紫大宰」が不在となってしまいます。その後については「栗前王」(これは「栗隈王」と同一人物というのが定評)及び「蘇我赤兄」が「筑紫大宰」であったことが判明していますが、その以前が『書紀』の上では不明となっています。そのように考えてくると「阿倍比羅夫』の出征後に『筑紫大宰』の地位にいたのは「天智」自身ではなかったでしょうか。
 彼が「筑紫大宰」として後事を託され、その後国内に発生した軍事的空白を利用し「日本国天皇」の地位に即いたとすると『善隣国宝記』に「称筑紫太宰辞、実是勅旨」という文章があることも理解できることとなります。
 『善隣国宝記』によれば「天智」「天武」に対して「唐皇帝」の使者として「郭務悰等」が「国書」を持参したとされています。

『善隣国宝記』
鳥羽ノ院ノ元永元年
…、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務悰等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務悰等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)

 上に見るように「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の二つが存在しています。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。
 また『書紀』では「天智十年」に「郭務悰」が「国書」を提出したとは書かれていません。但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に何らかの記事の脱落があるように思います。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事が見あたりません。
 この『善隣国宝記』の記事は「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「式部大輔」の役職にあった「菅原在良」が答えたものですが、彼がこの時の国書の文面について述べているからには確かに国書がもたらされ、それは「天智」が受け取ったことを示しますから、そのような重要な記事が『書紀』にないということは、「脱落」あるいは「隠蔽」が行われたことを示します。
 この「天智十年」の「国書」が「天智」に渡っていたとするとそれは当然「筑紫」においてであることとなります。「天武元年」の際には「郭務悰等」は「大津の館」に「安置」とされていますから、それ以前に彼らがここから「近江」まで移動していたという可能性はほぼないものと思われます。やはり「郭務悰等」の来倭には「天智」自身が「筑紫」に出向く必要があったと考えられることとなります。
 「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における敗北という状況は「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずであり、さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずですから「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことと思われる「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
 この時の「天智」への国書と「天武」への国書持参は同時期の訪問であり、このことは双方への国書は当初から用意していたことを示唆させるものです。
 「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす(あるいは恫喝する)文面ではなかったかと思われるわけです。
 「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同趣旨、同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
 これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。この「天智十年」という年次は「天智」が「近江朝廷」を開き「天皇」を自称し始めたという年次の翌年ですから、それと整合しているようにも見えます。そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志であったということ思われる訳です。
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「鎮将」と「都督」

2020年04月19日 | 古代史
 すでに「新日本王権」に至る経過として当初「倭王権」であったものが「日本国」となった後いったん「倭王権」に戻り、その後再度「日本王権」が復活する形で「新日本王権」となったと推定しました。この流れに深く関係しているのが「唐・新羅」と戦いとなった「百済を救う役」であり「白村江の戦い」です。この戦いでは「倭国側」の全面的敗北となったものですが、それは「高句麗」「新羅」の敗北とつながっています。それに関連して「百済鎮将」という名称が『書紀』に見えます。

「(六六七年)六年…
十一月丁巳朔乙丑。『百濟鎭將』劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この「鎮将」については通常「占領軍司令官」という通称的なとらえ方がされているようですが、「鎮」とは「隋」の高祖の時代に制定された「鎮―防―戍」という辺境防備の軍組織の名称の一つであり、規定によれば「鎮」には「将」が置かれたとされます。また「百済」制圧後は「熊津」に置かれた「都督府」が旧「百済」の地域全体を総管したものであることから考えても「百済鎮将」の「鎮」とは具体的には「都督府」を示す意義であり(「安西四鎮」など他の使用例も同様)、このことから「百済鎮将」とは「熊津都督」を意味する正式な用語であることがわかります。
 この「鎮」「将軍」という語に関して、類似の呼称と思われるのが『善隣国宝記』に見える「郭務悰」に与えたという「日本鎮西筑紫大将軍」という署名です。

(『善隣国宝記』上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物悰看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 ここに現れる「鎮西」という用語を後代のものと見る立場もあるようですが、上のような「隋」「唐」の用語使用法との関連で考えるとこれはこの時点で使用されていたと見るのが実際には相当と思われることとなります。その意味でこの「鎮西筑紫大将軍」という記事は「筑紫都督府」の存在とつながるものとも言えます。つまり「筑紫」に「大鎮」が置かれ、「都督」として「大将軍」が任命されていたとすると整合するとも言えそうだからです。もっともそのようなことは想定できません。もし「大鎮」が「筑紫」に置かれたとすると当然「鎮将」たる「都督」が任命され、その役職として「将軍号」を持った人物が配置されると共に「都督府」に詰めるその他の官人も全て任命したこととなるはずです。しかし「唐側史料」にはそのような記事が一切見当たりません。また国内史料も同様であり、それらは推測の域を出ないというべきでしょう。
 確かに「熊津都督」には帰順した「扶余隆」が任命されており、もし「倭国」にも「都督府」がおかれたとすると帰順した「薩夜麻」が適任であるようには思われます。しかし、私見ではそうとは考えられません。
 「唐」が「都督府」を設置する場合には一定の条件があったものとみられます。それは第一に危急の場合に援軍が容易に増派、救援可能な距離であることです。その意味で「倭国」は「遠絶」の地であって設置するのに適地とは言えません。間に「大海」をはさんであり、この状態では軍を派遣するといっても「万余」という数量は困難でしょう。「熊津」でも「鬼室福信」など旧百済軍が周囲を取り囲んで「劉仁願」は窮地に陥っています。ましてや「大海」をはさんだ遠絶の地で孤立した場合を考えると、そのような地に「鎮」つまり「都督府」を設けることはほぼ考えられないというべきです。
 また通常「都督府」がおかれる場所はそれが戦争により帰順させた地域であり、その後の政治的安定を図るために設置するものですから「百済」や「高句麗」の地への設置は当然と思われるものの、「倭国」は(「倭王」が降伏したとしても)その地が戦場になったわけではなく、その意味で設置する条件を満たしていないと思われます。
 そもそも「唐」は「高句麗」については「隋」以来いつかは制圧するつもりでいたものの、常にその背後にいる「百済」の影がちらついており、そのためまず「百済」を討つのが先決と考えていたわけです。その意味で「百済」と「高句麗」については征討の対象であったわけであり、征討後はいわゆる「羈縻政策」(つまり都護府や都督府を置きそれらにより支配する)を行う予定であったものとみられますが、元々「倭」は討伐の対象ではなかったと思えます。
 彼らと「唐軍」はたまたま戦場で出くわしたというだけであり、戦火を交えたものの「倭国」と正面切った戦争を行ったわけではなかったものです。このように「唐」が「倭」と戦闘することはない、つまり彼らの作戦遂行の支障とならないというように見込んでいたのは、「伊吉博徳」たち遣唐使団を質に取っていたことからもうかがえます。
 この人質を取る作戦が功を奏して当初の戦いでは倭国と唐が直接戦闘を交えることはなかったわけですが、それは「倭国」がその「唐」の意図を察知して作戦を変更し直接「新羅」をたたくこととしたことからでしょう。しかし「新羅」と戦闘になることは、以前に「高宗」から「璽書」を下され「危急の際には「新羅」に助力せよ」と指示されたことに反するものであり、その段階以降「唐」からは「朝敵」とみなされていたこともまた確かと思われます。
 しかしいずれにしても「倭」は当面の敵ではなかったものであり、当初から「倭」を征服しようとは思わず、また征服したとも思っていなかったと思われ、「璽書」に反する行動をとったことは確かではあるものの、そのことで「倭国」と戦争をする、あるいは滅ぼすというようなことを考えていたわけではなかったと思われます。そうであれば「倭国」に「都督府」を設置する意義が認められず(ということは「都督」を任命する意義も認められないということになります)、それが「唐側史料」に「筑紫都督府」関連の記事が見られないという事実に現れていると思われるのです。
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