古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「日本」という国号の変更時期の推定

2024年11月19日 | 古代史
 「倭国」はそれまでの「宗主国」と「附庸国」という一種封建体制的なものから「倭国王」による「直接統治」体制を築こうとしたように思えます。それを「難波朝廷」という副都から「東方諸国」をその直接統治体制に組み込もうという政治的手法を実行しようとしたものと考えられます。
 それを示すように「改新の詔」と前後して「東国国司詔」が出されますが、その中では「今始めて萬國を治める(修める)」という表現がされています。これはそれ以前には「萬国」を「統治範囲には入れていなかった」ということを意味視しているように見える文言です。

「…隨天神之所奉寄方今始將修萬國…」

 つまり、これはそれまでなかった「中央集権国家」というものを樹立したという宣言と考えるべきでしょう。このときに「日本」という国号へ変更したものと考えます。
 さらに、現地での裁判が、「不正」(賄賂などの受け渡し)の場になることを懸念していたものであり、そのような「不正」に対し強く臨む態度であることを示すのが「六人奉『法』。二人違『令』。」という言葉に表れています。
 ここでは「法」と「令」というものがあることが示され、それに対し「罰則」規定も存在していたことも推定される筆致です。
 ここで、「罪」として問われているのは特に「莫因官勢取公私物。」というものであり、「公私混同」を厳しく諫めていると思われ、「公」というものの重要性を強く知らしめ、理解させようとしているように見えます。このような「力」を背景にした統治行為の一環として「東国国司の詔」やそれに基づく「賞罰の詔」、「品部」などの「接収」の「詔」などかなり「強引」な手法があったものと考えられます。
 それに対し東方諸国からの反撥が予想以上に強く、またそのような中で強行しようとした倭国王に対し、身内とも言える筑紫王権からの支援勢力も離反した結果、難波朝廷に権力の空白が生まれ、近畿勢力に「難波朝廷」がいわば「乗っ取られる」形となったものとおもわれますが、それが『書紀』に書かれた以下の記事です。

「是歳。太子奏請曰。欲冀遷于倭京。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟等。往居于倭飛鳥河邊行宮。于時公卿大夫。百官人等皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位。令造宮於山碕。乃送歌於間人皇后曰。舸娜紀都該。阿我柯賦古麻播。比枳涅世儒。阿我柯賦古麻乎。比騰瀰都羅武箇。」((六五三年)白雉四年条)

 これによれば筑紫からの支援勢力は旧都である筑紫の首都である「倭京」に帰ったと推定され、筑紫において新たな人物を王として選び「筑紫王権」が存続していたものとみられる。ただし「倭国」から「日本国」への「国号変更」は、倭国王が直接統治を実行しようとした時点で「倭国」自ら行っていたものです。
(以下の記事が相当すると思われる。)

(六四五年)大化元年秋七月丁卯朔…
丙子。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟調使兼領任調那使。進任那調。唯百濟大使佐平縁福遇病。留津館而不入於京。巨勢徳大臣。詔於高麗使曰。『明神御宇日本天皇詔旨』。天皇所遣之使。與高麗神子奉遣之使。既往短而將來長。是故可以温和之心相繼往來而已。又詔於百濟使曰。『明神御宇日本天皇詔旨』。始我遠皇祖之世。以百濟國爲内官家。譬如三絞之綱。中間以任那國屬賜百濟。後遣三輪栗隈君東人觀察任那國堺。是故百濟王隨勅悉示其堺。而調有闕。由是却還其調。任那所出物者。天皇之所明覽。夫自今以後。可具題國與所出調。汝佐平等。不易面來。早須明報。今重遣三輪君東入。馬飼造。闕名。又勅。可送遣鬼部率意斯妻子等。

(六四六年)大化二年…
二月甲午朔戊申。天皇幸宮東門。使蘇我右大臣詔曰。『明神御宇日本倭根子天皇詔』於集侍卿等。臣連。國造。伴造及諸百姓。…。

 この「日本」という名称は上に見るように「詔」つまり天皇の言葉として現れるものであり、書き換え等の造作が考えにくいことがあり、また「根子」がある地域の権力者を指す用語として『書紀』で使用例がありその意味で「倭根子」が「倭国王」の称号であったとみれば、この時点で「日本」が冠せられた意味として「日本」への国号変更が推察できるものです。
 「倭根子」つまり「倭国王」としての立場の拡大あるいは延長として「東国」を直接統治することを明確にすることを意識して「日本」と国号を変更し「倭国王」から「日本国王」へとステージアップしたという宣言とみられるわけです。このことは難波朝廷」が副都として存在していたものが、難波から倭国王以外が一斉に「倭京」へ移動した結果権力の空白が生じ近畿勢力にいわば乗っ取られた結果「難波朝廷」の権力者達が「日本国」を名告る理由とも事情ともなったと考えられます。
 ただし「筑紫朝廷」も「日本」と名乗ったという可能性を示唆するものです。なぜなら「日本」という国号変更は「倭国」つまり「筑紫朝廷」が行ったものであり、「難波」への進出がその契機であったとしても「筑紫」に戻った後においてもその国号変更が有効であった可能性が高く、そのまま「日本国」を名乗っていた可能性が高いと思われます。ただし、これは対国内的なものであり、遣唐使を送っていないため「唐」では「倭国」としての認識が継続していたものみられます。
 結果的に国内には「日本」という国が二つ存在していたことになります。「難波王権」としての「日本」と「筑紫王権」としての「日本」です。
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「倭国」からの遣唐使と「日本国」からの遣唐使

2024年11月19日 | 古代史
日本国からの使者の前年にも使者が送られたことが『書紀』にあります。

「發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒〈駒更名 絲〉・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・弁正・惠照・僧忍・知聡・道昭・定惠〈定惠 内大臣之長子也〉・安達〈安達中臣渠毎連之子〉・道觀〈道觀春日粟田臣百濟之子〉・學生巨?臣藥〈藥豐足臣之子〉・氷連老人〈老人眞玉之子。或本以學問僧知辨・義德・學生坂合部連磐積而増焉〉并一百二十一人倶乘 一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂〈更名八掬脛〉・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」「白雉四年(六五三)五月壬戌条」

「遣大唐押使大錦上高向史玄理〈或本云 夏五月 遣大唐押使大華下高向玄理〉・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿彌陀〈或本云 判官小山下書直麻呂〉・小乙上崗君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老〈老 此云 於唹(おゆ)〉・田邊史鳥等分乘二舩。留連數月取新羅道、泊于莱州。遂到于京、奉覲天子。於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。押使高向玄理卒於大唐」「白雉五年(六五四)二月条」

通常「白雉五年」の遣唐使団は、その前の「白雉四年」の遣唐使船が東シナ海を直接横断しようとして「遭難」したこともあり、より安全と考えられる「新羅道」という「新羅」経由でのルート(北路か)を経由しようとしたため、団の構成をより「親新羅」的にするために必要な人材を選抜したものと考えられていました。そのため「押使」という「高向玄理」を始め、かなりの数の「親新羅系」の人物が遣唐使中にいるなど、当初より「親新羅」的人物が選抜されていると考えられていたわけです。
 実際問題としてこの時の遣唐使団とその前年の遣唐使団については『書紀』の表現と内容が著しく異なります。以下に相違を示します。

1.「白雉四年」の遣唐使を派遣した記録には「日付」が書かれているのに対して、「白雉五年」の記録では「月」しか書かれていません。

2.「白雉四年」の遣唐使は、参加した人数が「百二十一人」「百二十人」と明確に記載されているのに対し、「白雉五年」の方には「概数」さえ記載されていません。

3.共に「二船」に分乗しているわけですが、「白雉四年」の方は各々の乗船者がかなり細かく書いてあるのに対し、「白雉五年」の方はまったく触れておらず、「誰」が「どちら」に乗っていたか、不明となっています。

4.また、この乗船者については、「白雉四年」側には「父親」の名前などの補足の記録があるのに対し、「白雉五年」には皆無です。

5.さらに、「白雉四年」の方は各々の船に「送使」がいるのに対し、「白雉五年」の方は「送使」がいないのか、書かれていません。

6.「白雉五年」の遣使の使者の冠位は「後の時代」の冠位が書かれており、この時代のものではありません。これを補足・修正するように「或本伝」という形で別の情報が記載されていますが、「白雉四年」の方の冠位は当時の冠位そのままが書かれているようです。

7.「白雉四年」の遣唐使中には「学問僧」がいるように書かれているが、「白雉五年」の方には「学問僧」がいたかは不明となっています。

8.また、帰国した使者に対する対応も違います。「白雉四年」の使者が帰国した際には「唐皇帝」から贈り物をもらい、それを「倭国王」に進上し、「倭国王」から労をいたわられ、「褒美」を下賜されていますが、「白雉五年」の使者が帰国した際には、ただ「帰国した」という記事だけであり、功績が顕彰されていません。

9.「白雉五年」の遣唐使は「新羅道」を経由して唐に入国していますが、「白雉四年」の航路は「南路」という「東シナ海」を直接横断するルートを採用しています。

10.この遣唐使記事に続いて「伊吉博徳言」として以下の文章があります。

 『孝徳紀』(白雉五年)の項
「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 定惠以乙丑年付劉德高等舩歸 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶『今年』共使人歸。」

 これを見ると「伊吉博徳言」で言及されている人名の内「知聰」「氷連老人」「定惠」が「白雉四年」の遣唐使団にいた人間ですが、言及されている他の人たちについては不明であり、どの船に乗っていたのかはわかりません。しかし判明している人名がすべて「白雉四年」の遣唐使団であることを考えると、「伊吉博徳」が情報を持っていたのは「白雉四年」の遣唐使団だけであったのではないかと考えられるでしょう。このことから「白雉五年」の遣唐使についての情報が「伊吉博徳」のような「外交」に関するスペシャリストともいうべき人間にさえもたらされていなかったこととなります。
 以上のように「白雉四年」遣使が緻密な記録であるのに対し、「白雉五年」遣使は非常に「大まか」な記録になっており、これは『書紀』編纂時の参考資料の「多寡」の差があったものと考えられます。
 この二つの「遣唐使」が同じ「機関」により同じ時期に派遣されたとすると、資料の「不均衡」の説明が付きません。つまりこれらは「遣使」した機関ないしは時期が異なる事を示すものと思われ、それは「白雉五年」の遣唐使派遣が本当に「倭国」からなのかが問われるものです。
 以上のような理由もあり「白雉五年」の使者が初めての「日本国」からの使者であると推定したわけですが、では彼らか初めて「日本国」を名告ったのかというそうではないと考えます。それは『書紀』に書かれた「改新の詔」とそれに前後する「詔」群の解析からです。そこでは「日本」という名称が「詔」の中に現れます。
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『旧唐書』日本国伝に対する「白雉五年記事」

2024年11月19日 | 古代史
先日八王子大学セミナーハウスで行われた古代史セミナーに行ってきました。私が行った講演は意を尽くさないうちに時間切れとなってしまい、ちょっと不本意なものではありましたが、重要だと思えるポイントは指摘しておきました。
今回のテーマが「七世紀の倭国の外交」というものでしたが、私が選んだ講演テーマは「倭国から日本国への転換の詳細」というもので、七世紀の倭国の外交が日本国誕生と密接に関係していると考えたからです。
特に今回強調したのは「日本国」と「倭国」の関係でした。それで『旧唐書』の「日本国」記事に注目したものです。
 『旧唐書』では「倭国」記事と連続して「日本国」記事が書かれています。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。
 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。
 長安三年、其大臣朝臣眞人來貢方物。…」

 この記事を見て考えたのはこの「日本国」に関する情報の入手手段です。私はこれを疑いもなく「日本国」からの使者が「唐」の関係者に語った内容であると考えました。それ以外にはないと思ったのです。しかしそれでは不審な点があることに気がつきました。
 通常夷蛮の国からの使者が来た際にはその国の素性を確認する必要があり、「鴻臚寺掌客」つまり外務官僚が必要な事項を問い質すのが通例です。
そこではその国の名称、位置等地理情報、風俗等を聴取する作業が行われます。この「日本国」についての情報もそのような過程で取得されたものと思われるわけですが、一つ不審な点がありました。それは「或曰」「或云」というように複数の人間からの聴取と思われることが示唆されるからです。通常「鴻臚寺掌客」の聴取は代表ひとりに対して行われるものであり、複数の人間に聴取する必要はありません。当然「大使」として代表者がいるものであり、彼に対して聴取すれば事足りるわけです。にも関わらずこの時には複数の人間に対して問いかけたらしいことがわかります。このことから言えることは、ここに書かれた情報は「鴻臚寺掌客」が得た情報ではないということです。
 またここに書かれた情報が「初めて」の日本国からの使者から得た情報であるともまた確かです。つまり「日本国」から初めて来た使者が「鴻臚寺掌客」以外に問い質されて答えた内容がここに書かれていると考えるべきこととなります。そのようなことが他の思料から覗えるのかという、『書紀』にあるのです。
 それは例の「東宮監門」である「郭丈挙」から聞かれたという「白雉五年」の記事です。

「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使大錦上高向史玄理。或本云。夏五月。遣大唐押使大華下高玄理。大使小錦下河邊臣麻呂。副使大山下藥師惠日。判官大乙上書直麻呂。宮首阿彌陀。或本云。判官小山下書直麻呂。小乙上崗君宜。置始連大伯。小乙下中臣間人連老。老。此云於唹。田邊史鳥等。分乘二船。留連數月。取新羅道泊于莱州。遂到于京奉覲天子。『於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。』」

 これを見ると「東宮監門」という、基本的には外交と関係の薄い役職である人物が日本国からの使者に対して、鴻臚寺掌客が聞くべき内容を聞いていることがわかります。しかもそれを全員に聞き、また全員が答えています。全員というのは「押使」以下各判官に至るまでということと思われますが、彼らに問いかけたということのようです。なぜそのようなことが行われたかは定かではありませんが、この「日本国」からの使者になんの疑いも持たなければ決して行われることはなかったはずであり、「郭丈挙」から見て何か「不審」な点があったものと思われるわけです。いずれにしてもここで「鴻臚寺掌客」以外から問い質され、答えたという事実があり、これと先の『旧唐書』記事とは、同一の事案を示すものではないかということを講演で指摘したものです。そしてさらに重要なことは『旧唐書』において『日本國者、倭國之別種也。』と書かれるに至ったことです。つまり「唐」は「日本国」と「倭国」は「別の国である」という結論に至ったということです。
 この「日本国伝」では「日本国」からの使者達はいずれも多少ニュアンスは異なるとは言え「日本国」は「倭国」から継承した国であるという主張をしたものであり、「日本国」の成立は即座に「倭国」の消滅を意味するという訳ですが、そのことについて「唐」はあるいは「郭丈挙」はというべきでしょうか、「疑った」というわけです。この「疑い」が全員に対する問いかけという異例の事態になった要因と思われます。彼の疑いの原因の一つは、この前年に「倭国」からの遣唐使が来ていたことでしょう。連年の遣唐使というものがすでにかなり異例であるのに加え、倭国から日本国に代わったという使者が翌年続けて来たというわけですから、鵜呑みにする方がおかしいと言うべきかもしれません。もっとも「鴻臚寺」ではこれを事務的に処理したようで「鵜呑み」にしたかは不明ですが、「日本国」からの使者として「鴻臚寺」に休憩、宿泊し、皇帝に会う儀礼の流れで大路を進んでいた際に「郭丈挙」に呼び止められたということのようです。
 結局「日本国」からの使者として儀礼を終えたものと思われますが、重要なことは先ほども言ったように「倭国」と「日本国」は別の国であるという認識をこれ以降「唐」として持っていたと思われることです。つまり唐から見て「倭国」と「日本国」は同時に並列的に存在していたと考えていたとみられ、このとは後に紛争になり、戦いとなった相手国が「日本国」ではなく「倭国」であるという認識につながるものであり、「唐」から見て「日本国」は紛争当事国ではなかったということになると考えられるものです。(以下続く)

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