古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「薩夜麻」と「天智」

2024年11月30日 | 古代史
 『天智紀』の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務悰」等が来倭したことが記されています。

「「天智三年」(六六四年)夏五月 戊申朔甲子 百濟鎮將劉仁願 遣朝散大夫郭務悰等 進表函與獻物
冬十月 乙亥朔 宣發遣郭務悰等敕
是日 中臣内臣遣沙門智祥 賜物於郭務悰。
戊寅 饗賜郭務悰等」

 この時の来倭記事とおぼしきものが『善隣国宝記』に引用する『海外国記』に出ています。
『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって室町時代(15世紀の終わりごろ)書かれたもので、歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 これによればこの時の「列島王権」は「表」(つまり「皇帝からの国書」)の有無を問いただし、将軍からの「牒書」だけであることを確認すると、この使者を「唐皇帝」の使者ではないとして「門前払い」したとされています。この時「郭務悰」達を「門前払い」したとする記事が正しい思われる傍証と言えるのは(一見関連が薄そうですが)「元史」に書かれた「日本」への使者派遣の記事です。
 「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島でしょうか)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。

「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」(元史/列傳 第四十六/趙良弼より)
 
 つまり「隋」の文帝、「唐」の「太宗」と「高宗」の派遣した使者はいずれも「倭国王」に面会しているというわけです。「太宗」の派遣したという使者が「高表仁」であると思われますから、彼は「倭国王」には面会したものと思われ、「礼を争った相手」というのが「倭国王」自身ではなかったかと思われることとなります。また「高宗」の派遣した使者というのが「劉徳高」(及び「天智末年」に「薩夜麻」を伴って来倭した「郭務悰」)を指すと思われ、「高宗」の勅使ではなかった「六六四年」の際の「郭務悰」では決してあり得ず、彼はこの時「倭国王」ならぬ「日本国王」には面会できなかったことがここからも判ります。
 また彼「趙良弼」は「国書」を「太宰府」で提出するのを拒んでいますが、それは「国書」は本来直接彼の地の統治者本人に提出すべきものだからです。途中で「代理者」などに開陳することなど出来ない性質のものなのです。そう考えると以下のように「劉徳高」が「筑紫」で「表函」を提出したと書かれているのは重要でしょう。
 (「劉徳高」の来倭に関する記事をまとめて並べると以下のようになります。)

「「天智四年」(六六五年)九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉徳高等 (等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍、朝散大夫上柱國郭務悰)。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
(冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。)
十一月己巳朔辛巳。饗賜劉徳高等。
十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
是月。劉徳高等罷歸。

 これを見ると「対馬」に到着後二ヶ月弱で「筑紫」への上陸が赦され、その「筑紫」に到着した二日後に「表函」つまり国書の入った「函」を提出しています。これは「趙良弼」の言葉に従えば「国王」に面会したと言う事を示すものであり、この段階で「筑紫」には「国王(日本国王)」がいたこととならざるを得ません。それは「海外国記」に書かれたやり取りからもうかがえます。そこでは「郭務悰」からの「牒」を「皇帝」からの「表」ではないことを理由にはねつけていますが、そこで以下のように書かれています。

「…称筑紫太宰辞、実是勅旨…」

つまり実際には「勅旨」つまり「天皇の言葉」ではあるが、先方が「皇帝」からのものではないためこれを「筑紫太宰」として返答するとしています。つまり実際には「天皇」は存在しているというわけであり、位取りの関係で「勅旨」とはしていないというわけです。
 そう考えると「薩夜麻」が出征した後、「筑紫朝廷」実質的に崩壊し「天智」率いる「日本国」に占領、統治されていた事が示唆されます。彼が当時「筑紫」に居を構え国内外の情勢に対応していたことが窺えます。
 そもそも「薩夜麻」が「筑紫」(本朝)から離れるという場合「留守司」という役割の人物が配置されるのが通常であり、多くは「軍事」組織の人物があてがわれますが、通常「筑紫」には「太宰」がいたはずであり、それを考えると「留守司」は本来必要ないはずですが、この時は「阿部比羅夫」が「太宰」でありながら将軍として派遣されていますから、留守司が指名されていたと考えるへきでしょう。それが「天智」ではなかったかと考えるわけです。「天智」は留守を「薩夜麻」から「留守」を預かるという重要な役割を演じていたとみられますが、それには根拠があったものであり、彼らの間には個人的な関係があったとみるのが相当でしょう。『書紀』で「兄弟」と書かれているのにはそれなりの根拠があったものと思われるわけです。
 「天智」の出自については、彼が「天命」を受け、「革命」を起こした(これは「筑紫朝廷」の崩壊に際し筑紫を占拠したこと、それにより列島を統一したという意識があったことを指す。)といういきさつからも、「薩夜麻」と「親子」や「兄弟」ではないことは明白です。ただし中国の「天命」「寶命」などの使用例を見ると「甥-叔父」の交替の際に「天命」という用語が使用されたことがあり、(「南朝劉宋」の「明帝」の例)、そのような関係が「天智」と「薩夜麻」との間にあったという可能性は否定できません。
 彼は「留守」を預かりながら、実質的に「日本国」の統治範囲を広げることを行ったわけであり、特に「唐」の関係が重要であったとみれば当時彼が「筑紫」に所在していたというのは十分考えられるところです。
 また『善隣国宝記』には「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「菅原在良」が答えた記述があります。

『善隣国宝記』
鳥羽ノ院ノ元永元年
宋國附商客孫俊明鄭清等書曰、矧爾東夷之長、實惟日本之邦、人崇謙遜之風、地富珍奇之産、襄修方貢、皈順明時、隔濶彌年、久缺来王之義、遭逢凞且、宣敢事大之誠、云云、此ノ書叶旧舊例否、命諸家勘之、四月廿七日、従四位ノ上、行式部ノ大輔、菅原ノ在良、勘隋唐以来献本朝書ノ例曰、推古天皇十六年隋ノ煬帝遣文林郎裴世清使於倭國、書曰、皇帝問倭皇、云云、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務?等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務?等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、又大唐ノ皇帝勅日本國使衛尉寺少卿大分等、書曰、皇帝敬到書於日本國王、承暦二年、宋人孫吉所献之牒曰、賜日本國大宰府ノ令藤原ノ経平、元豊三年、宋人孫忠所献牒曰、大宋國ノ明州牒日本國
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)

 これを見て気がつくのは「天智四年」の「劉徳高」の来訪に伴う「国書」について言及がありません。この前年の「郭務悰」の来倭と持参した「書」については上に見たように「百済鎮将」である「劉仁願」が発した使者であり、また「書」も「牒」であって同様に「唐皇帝」からのものではないとして「拒否」したと書かれており、これが「菅原在良」が言及していない理由であるなら首肯できるものです。しかし「劉徳高」の場合は『書紀』の記事では「唐国」が「遣わした」という表記があり、このことから彼が「国書」を持参したと見るのは当然であり、これについて書かれていないのは一見不審といえるでしょう。
 確かに上に見たように「筑紫」に王がいた形跡が濃厚ですが(「実是勅旨」とされています)、「鳥羽院」に仕える「菅原在良」としてはこれを「無視」しているわけであり、この時の王とそのやり取りが「例」として提示するのをはばかるものであったという可能性が高いと思われ、通常の「敬問倭王」的な「慰労形式」の書式ではなかったということが窺われます。
 そもそも提出された時期としてもほぼ「唐」「新羅」との間には不穏な関係が継続していたことを考えると、「降伏」ないし「戦争終結」と直接関わる文言が書かれていたということが考えられ、そのような場合「敬問倭王」的な文言が省略されることがあります。例えば「唐の高祖」が「高麗」に出した「書」の文面が『旧唐書』にありますがそこでは「敬問高麗王」的な文言が見当たりません。

「(武徳)五年、賜建武書曰; 朕恭膺寶命、君臨率土、祇順三靈、綏柔萬國。…」

 この時の「書」は「高句麗」と「前王朝」である「隋」との間の戦争について「講和」を行い、捕虜の交換を行うこと目的としたものであり、通常の外交儀礼とは著しく趣が異なります。このような場合「敬問」というような一種友誼的な文言が使用されることはないということになり、これと同類の形式で国書が唐皇帝からもたらされたという可能性が高く(状況も近似している)、そのためいわば「隠蔽」されたとみるのが相当ではないでしょうか。
 また講和の条件として「泰山封禅」に「薩夜麻」を連行すること、彼に供奉する人員を供出することが条件として書かれていたとみられます。
 この時の「劉徳高」達は実は「泰山封禅」への参加命令も伝達に来たものと考えられ、それに応じて、「薩夜麻」本人とは別に「参列」するための人員を急遽派遣することとなったと考えられます。 
 この「泰山封禅」は「六六六年正月」に実施する、という詔が出されたわけですが、それが出されたのは「六六四年七月」とされています。この月の「朔日」(一日)に出されたものですが、当然周辺諸国も含め多数の参加者が想定され、またそうでなければ「権威付け」にならないわけですから、多くの国に「泰山封禅」開催を知らせる「使者」を出したものと考えられます。
 当然「倭国」にも「来るはず」であり、それが「劉徳高」の来倭であったと考えられるのですが、その年次が「六六五年七月」というのでは、余りに遅すぎるのではないでしょうか。
 倭国のように海を隔てて「遠絶」した地域や、「西域」からも参加が考えられるわけですから、これらの国々に対しては「早期に」使者を派遣する必要があるはずですが、倭国への到着が「六六五年」では「高宗」が詔を発してから一年以上経過していることとなり、まさに「遅きに失する」こととなってしまいます。直後の「十月」にはすでに「高宗」に従駕する行列が始まっていますから、全く間に合わないと思われます。

『書紀』
「(天智称制)四年(六六五年)是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 この記事は「是歳」条記事であるものの、これはその記事の中でも触れられているように「唐使」を送る役割であったと思われますから、配列から考えて「十二月」のことであったのではないかと考えられ、そうであれば「守君大石等」達は「泰山封禅」の儀式そのものにさえ間に合ったかどうか疑わしいものです。このような「間に合わない」使節派遣などあり得るはずがありません。
  そもそも「白村江の戦い」の年次について、『旧唐書』と『三国史記』では「六六二年九月」と考えられ、『資治通鑑』と『書紀』では「六六三年九月」となっており、「一年」ずれて書かれています。このどちらかが誤りであるわけですが、この年次のズレについては「青木一利」氏の研究もありますが、(「古田史学会報一〇二号」)その中でもやはり『旧唐書』『三国史記』が正しいとされているようであり、『日本書紀』の影響を受けたと考えられる「後期中国側資料」については「信」がおけず、その年紀は真の年次に対して「一年」ズレているのではないかと考察されています。(これはそもそも「百済を救う役」全体にも言えることですが)
 この推論に従えば、「劉徳高」の来倭の日付は「六六五年」ではなく、「六六四年」であった可能性が高いと考えられるものです。
 「高宗」は「倭国」等遠絶した地域からも参加が可能なように「時間的余裕」を考え「六六四年(麟德元年)七月朔」にこの式典開催を宣言しているのです。つまり、「封禅の義」まで、約一年半の猶予があるわけであり、この詔勅の「直後」に各国に使者が発せられたと考えるべきでしょう。まさに「劉徳高」の来倭はそのタイミングで為されたと考える方が正しいと思われます。
 中国の歴史上「封禅」の規模は皇帝の「即位の儀式」さえも超えるものでした。そのため、「唐」の高宗はこの儀式を自身の威信をかけたものにするために、周辺の「唐に封ぜられた」諸国王も含め大量招集をかけたものでしょう。そのような中にははるか遠方の国もあるわけですから、かなり余裕を持った伝達でなければ間に合わないという可能性も出てくるため、特に遠方の国については「迅速」な伝達を行ったものと考えられます。
 この時派遣されたという「劉徳高」の官職名は「沂州司馬」というものですが、「沂州」が現「山東省」付近の事であり、遣唐使船などが往復に利用する港があるところですから、倭国へ使者を送るのには「最適」「最短」の場所にあると言えます。(だからこそ彼が選ばれたものでしょうか)
 『書紀』の日付が一年ずれているとすると「劉徳高」は「対馬」に「六六四年」の「七月二十八日」についたこととなり、「高宗」が「詔」を発したその月のうちに来た事となります。(事前に詔の内容が内示としてあった可能性もあるでしょう。この場合はそれ以前に準備はすでにされているわけです)
 また、当時の「唐」の船の構造も倭国の船に比べ外洋航海に適しており、(竜骨構造の採用など)ここから船出したとすると、修正年次の「六六四年七月二十八日」の到着も可能でしょう。
 実際の「遣唐使船」の行程を「六五九年」に派遣された「遣唐使」である「伊吉博徳」の記録である「伊吉博徳書」で確認してみると、「遣唐使」として訪れていた「唐」から「六六一年」に帰国した際には「四月一日越州から出発、四月七日『ちょう岸山』の南に到着、八日暁西南の風に乗って大海に乗り出したものの、『漂流』し、九日後(四月十七日)『耽羅』に到着した。」とあり、「劉徳高」の出発地である「沂州」にほど近い「『ちょう岸山』の南」から出航しています。そこから「最短ルート」を取ったものでしょう。この時の倭国の遣唐使船は、多少「彷徨」したようですが、「耽羅」(済州島)まで「九日間」で来ています。「劉徳高」が同じような、東シナ海横断ルートを取ったとすると、この日数と大きくは違わなかったのではないでしょうか。
 特にこのように急いで倭国に使者を送ったのは、もちろん「倭国」との間の「戦争状態」を集結させるためであり、「泰山封禅」に「捕虜」を連れて行くわけにはいかないわけですから、「倭国王」の出席を促すと共に「至急」降伏の意思表示を示すように督促したものと推量されます。
 「倭国」(実は「日本国」)との折衝を通じて「薩夜麻」捕囚の情報を得たと考えられる「百済禰軍」達はその後(場所は不明ですが)「薩夜麻」に面会し、引率して来た「守君大石」達と合流した後、「薩夜麻」を「劉仁軌」に引き渡したものと推量します。「劉徳高」の来倭の結果「派遣」されることとなった「守君大石」「坂井部石積」等は「劉徳高」達の帰国に併せ、「熊津都徳府」に向かったものと考えられ、そこで「薩夜麻」と合流したものと推量します。
 その後「劉仁軌」により「百済王」「耽羅国王」などは「船」で「泰山」の麓まで運ばれています。

「旧唐書劉仁軌伝」
「麟德二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

「冊府元龜」
「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」

 この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していましたから、「百済王」はもちろん「倭国王」もこの時点で「劉仁軌」の支配下に入ったものと考えられ、彼らを船に乗せて「黄海」を横切り、「泰山」の麓の港まで「連行」した、というわけです。この「倭国酋長」というのが「薩夜麻」を意味しているのは確実と思われます。
 ここで「高宗」は間近に「東夷」の国王達を見て、「東夷」が平定されたことを実感して、大変喜んだものと思われます。
(ただし「冊府元龜」では「倭国ではなく「倭人」となっていることには注意すべきです。彼らの認識の中に「薩夜麻」の所属についてあいまいなところがあったのではないかと推測します) 
 このように「謝罪」を承けた「高宗」は「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、「百済王」達にそうしたように「謝罪」と「降伏」を受け入れたものとみられます。ただし、処分は下され「千里の外で三年間の強制労働」というものが適用されたものと思われます。これは実質的には「熊津都督府」至近で「軟禁」状態になったことを示していると思われ、いってみれば「経過観察」状態に入れられたものであり、「反抗的態度」や「謀反」などの気配がないか観察されていたのではないかと考えられます。
 また、これに参加したと考えられる「坂井部石積」などの帰国の日時も「一年ズレ」の対象記事と考えられます。

「(天智称制)六年(六六七年)(中略)十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この年次についても「修正」の結果「一年前」の「六六六年」十一月となり、従来「六六六年」正月に行われた「泰山封禅」から二年近くも経過した「六六七年」十一月の帰還というものがはなはだ不自然であり、その理由が不明であったものが解消されます。
 つまり、「守君大石」「坂合部連石積」らについての「泰山封膳」への出発が「六六四年」十二月、「泰山封禅」が約一年後の「六六六年」正月、帰国がさらにその約一年後の「六六六年」十一月となれば、使者の往還に要する時間もきわめて自然なものになります。
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「薩夜麻」の帰国と「大海人」の動向(二)

2024年11月30日 | 古代史
 「薩夜麻」と「大海人」の関係について考察しています。
 「壬申の乱」についても、その分析により主要勢力は「西海道」にあったと考えられ、たとえば『書紀』によれば「高市皇子」が参戦していますが、彼は「宗像の君」の孫であり、「宗像氏」の全面的バックアップがあったと考えられるものです。他にも「大分の君」などの西海道勢力が中心であったと考えられますから、「筑紫の君」である「薩夜麻」がこれに参加していないはずがないと思われます。(当然「阿曇」勢力も加わったとみるべきでしょう)彼らの一族は「百済を救う役」でも軍に編成されており、その意味でそもそも「薩夜麻」の軍であったという可能性があります。
 また「壬申の乱」の際には「唐」関係者、と言うより「唐軍」が関与しているとする考えもありますが、そうであれば「郭務悰」達と共に帰国したとされる「薩夜麻」が関与していると言うこととほぼ同義ではないでしょうか。彼であれば、「戦略」「戦術」について「唐軍」の支援を仰ぐことは「容易」であったと考えられます。(そもそもその想定で唐軍が同行しているとみるべきでしょう)
 「大海人」が「美濃」に陣を構えたとされるのも「三野王(美濃王)」の存在が大きいものと考えられます。彼は「栗隈王」の子息であり、「薩夜麻」の有力な配下の人物であったと考えられ、彼を通じて関東(東国)に対する影響力を行使する事が可能となったものと推察されます。
 そのため、「薩夜麻」が帰国した際に「近江朝廷」との対決が必至となった際には、この「美濃」という国を「範疇」に治めることが必要と考えたものと思慮され、「栗隈王」を通じて「美濃王」を懐柔することにポイントを置いていたことと思われます。
 「大伴部博麻」の帰還も「六八六年」の「天武」の「死」を聞いたことと関係があると考えられるものであり、これは別途述べたことがありますが、「薩夜麻」が生きている間は「帰国」出来ないものであったのではないでしょうか。このことも「天武」と「薩夜麻」が同一人物であることを示唆するものです。 
 これらのことは「壬申の乱」の主役は「薩夜麻」であり、「天武」(大海人)とは「薩夜麻」のことである、ということを「強く」示唆するものと考えられ、『書紀』はそれを「隠蔽」していると考えられるものです。
 『弘仁私記序』には「半島」からの「渡来人」が「天皇」なった記述のある「書」が市中に出回っていたが、それらは全て焼却されたとされています。本論で述べたように「天武」は実は「薩夜麻」であり、「捕囚」になっていた「半島」から「帰国」した人間であったのですから、まさに『弘仁私記序』で書かれた「書」はその意味では正しいと言えます。そして、そのような記録は一切「隠蔽」されたわけであり、それは「倭国王」の「捕囚」とそれに続く「降伏」及び「謝罪」による「放免」という「倭国王」としてはこの上ない「恥辱」とも言うべき過去を消さんが為に行われた「証拠隠滅」であったと考えられます。
 そして最も重要と思われるのが「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の存在です。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。『書紀』では「天智十年」に「劉仁願」の使者である「李守真」が「上表」つまり「天皇」に対する「書」を提出しています。この「書」が「劉仁願」が「遣わした」という表現からも「国書」ではなかったと思われることからこれも「菅原在良」には取り上げられていないようですが、実際にはこの時点で「天智」に対して何らかのメッセージが送られたと見られるわけです。

(六七一年)十年春正月己亥朔…
辛亥。百濟鎭將劉仁願遣李守眞等上表。

秋七月丙申朔丙午。唐人李守眞等。百濟使人等並罷歸。

 その後の動静を見ると、その3ヶ月後には「天智」は病を得、「大海人」は出家し、直後に「薩夜麻」が帰還しています。これらの推移から考えて「李守真」の書には「薩夜麻」の帰国に関する情報が書かれてあったのではなかったでしょうか。彼の帰国に反対の意思があるかどうか、「倭王」としての帰還を拒否しないか問う内容ではなかったでしょうか。これに対し「天智」は受諾したものと思われ、それを承けて「薩夜麻」の帰国となったと考えられます。
 但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に記事の脱落があるようです。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事がありません。「近江」遷都以降は「対馬」まで来ると知らせが来て上陸させるのかを検討した上で「京」(この場合「近江京」か)まで出向くよう指示するか、「筑紫」で対応するか決めるわけですが、この場合それらが全て脱落しています。しかし他の例からは「筑紫」での対応であっただろうと思われますが、「天武元年」の際には「筑紫」に彼等は滞在しており「大津の館」に「安置」とされていますから、「李守真」も「筑紫」から動くことはなかっただろうと思われるわけです。(国書を持参していないのですから当然ですが)
 さらに「天武元年」に「郭務悰」が「書凾」を提出したという記事があります。「李守真」が帰国した七月から四ヶ月ほど経過した同じ年の十一月に今度は「郭務悰」等が大挙して押し寄せたというわけです。

(六七二年)元年春三月壬辰朔己酉。遣内小七位阿曇連稻敷於筑紫。告天皇喪於郭務悰等。於是。郭務悰等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。
壬子。郭務悰等再拜進「書凾」與信物。
夏五月辛卯朔壬寅。以甲冑。弓矢賜郭務悰等。是日。賜郭務悰等物。總合絁一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。
戊午。高麗遣前部富加抃等進調。
庚申。郭務悰等罷歸。
 
 この来倭は当然「李守真」の報告を踏まえたものと思われるわけであり、上表に対する「天智」の反応に応じたものであったと思われ、「薩夜麻」の帰国に反対しない意を表明したものと思われるわけです。
 この時の「郭務悰等」の来倭には「王権」として軽率な対応はできなかったはずであり、それは「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における「倭国軍」の敗北という状況は、「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずだからです。
 さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずであり、「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。つまり、彼が死去したという『書紀』の記事内容については疑義があるといえます。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことである「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
 この「国書」は急遽作ったものというより「天智」が退位することを想定し次代の「倭国王」に対して「唐皇帝」の意志を伝えるためのものとして準備されていたと見るのが相当ではないでしょうか。
 「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす文面ではなかったかと思われるわけです。「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
 ただし両者にも「敬問」という語が前置されており、これは「友好的関係」の表明であり、あなたを敵とは考えていないという意味ですから極端な「威圧」や「脅迫」というものではなかったと思われます。そもそも「難波日本国」としては「唐」に対して非友好的な態度や言辞を弄したことはなかったはずですから、そのような内容の国書にはそもそもならなかったであろうと思われるわけです。たただしそのために否定的な回答はしにくかった面はあったものと見られます。
 これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。つまり「唐」がその存在を認めて国書を提出した相手は「日本国」であったというものであり、そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志によるものであったということになります。
 ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されていません。通常「国書」は「使者」により「宣」せられた後(読み上げられた後)渡されるものであり、「表函」が提出されたという事はすでに「宣」せられた後のことと理解できます。また「国書」はその地の「王」に対して提出されるものですから、「宣」せられるためには「国王」に「面会」できたことも推定できます。しかし「菅原在良」の言葉からは「国書」を入手したとは思われません。「国書」は形式として「表函」の上に置かれているのが通常であり、そこには「表題」が見えるように大書されていたものです。つまり単に「函」の上に置かれていた表題にはそう書いてあったという意味のことしか言及されておらず、それを受け取った内容が把握されていたようには見受けられません。つまり「国書」(表)は受け取らなかったという可能性が高いものと思われますが、その点の詳細が不明です。あるいは受け取ったのが「薩夜麻」であったとすると後の「新日本国」にはその現物がなかったという可能性があります。「天智」とその側近が把握している範囲のものではなかったという可能性はあると思われ、「倭国王」宛の「国書」は「薩夜麻」とその側近が受領したという事実を反映しているのではないでしょうか。
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