古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「天子在東京」について

2024年12月21日 | 古代史
 以下はかなり以前投稿したものですが、最近新たな視点から別の見解に至ったことから再度投稿します。
 新たな視点とは七世紀半ば以降「難波日本国」と「筑紫日本国」の二つの「日本国」が存在していたという最近の見解です。この視点を導入し再度考察してみます。

 『書紀』の「斉明紀」に「伊吉博徳」という人物の「遣唐使」として派遣された際の「日記風」の記録が引用されています。そこに「東京」という表現が出てきます。

「(斉明)五年(六五九年)…秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到『東京』。天子在『東京』。…」(斉明紀)

 この「東京」とは「洛陽」を指す表現です。この表現は「後漢」が「洛陽」を都として以来連綿として続いていたものですが、「隋代」に「煬帝」によって「東都」と改称されたとされます。

「(大業)五年春正月丙子,改東京為東都。…」(『隋書』/帝紀 凡五卷/卷三 帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 これによれば「洛陽」は「煬帝」によって「東都」と改称されたものであり、それは「大業五年」のことであったこととなります。更にこの「東都」はその後も継続して使用され、「唐代」(七四二年)に「玄宗皇帝」によって「東京」と旧名に戻されるまで一三〇年余りに亘って使用されていたものです。

「(天寶元年)二月…丙申…莊子號為南華真人,文子號為通玄真人,列子號為沖?真人,庚桑子號為洞?真人。其四子所著書改為真經。崇玄學置博士、助教各一員,學生一百人。桃林縣改為靈寶縣。改侍中為左相,中書令為右相,左右丞相依舊為僕射,又黄門侍郎為門下侍郎。東都為東京,北都為北京,天下諸州改為郡,刺史改為太守。…」(『舊唐書』/本紀第九/玄宗 李隆基 下)

 このような中で「高宗」の代の「唐」に派遣された「伊吉博徳」は「洛陽」に対して「東京」という呼称を使用しているのです。つまり「伊吉博徳」の常識として「洛陽」は「東京」であったものであり、「東都」という名称に対する認識がなかったこととなります。
 彼の知識と教養はそれまでの「隋」「唐」との交流の中で形成されたと見るべきですから、「煬帝」が「東都」と改称した「大業五年」以降の「洛陽」に対する知識がなかったこととなってしまいます。ところが『隋書』では「大業六年」に「倭国」からの使者が朝貢に訪れたことが書かれています。

「(大業五年)十一月丙子,車駕幸 東都。」
「六年春正月癸亥朔,旦,有盜數十人,皆素冠練衣,焚香持華,自稱彌勒佛,入自建國門。監門者皆稽首。既而奪衞士仗,將為亂。齊王?遇而斬之。於是都下大索,與相連坐 者千餘家。丁丑,角抵大戲於端門街,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。 己丑,倭國遣使貢方物。
」(『隋書』/帝紀 凡五卷/卷三 帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 このように「大業六年正月」に「倭国」から使者が訪れたように書かれていますが、その前年の十一月から「煬帝」は「東都」に所在しており(冬至の儀式を行っていたのではないか思われます)、「倭国」からの使者も「東都」であるところの「洛陽」を訪れたものと考えるべきでしょう。そうであるならその後の「遣唐使」である「伊吉博徳」が「東都」といわず「東京」と称していることは矛盾ということとなります。
 この時「鴻臚寺」は「副都」である「洛陽」にも存在していました。当然首都である「大興城」にもあり「倭国」からの使者は「洛陽」ではなく(それ以前の遣隋使同様)「大興城」に至ったと見る事もできるかもしれませんが、仮にそうであったとしても「洛陽」が「東都」と呼称が変更になったという情報を得なかったとすると不審と云うべきでしょう。しかも日付から考えても「正月」のお祝いに各国からの使者が来ていたはずですから、彼らが「煬帝」のいた「洛陽」ではなく「長安」(大興城)に行っていたとすると不審極まるものであり、倭国からの使者も当然「洛陽」つまり「東都」を訪れたはずであると思われることとなります。いわゆる「元會之儀」も「洛陽」で行われたであろうと見るべきですから、夷蛮の国も含め諸国の使者達が「洛陽」にいたはずであるというのは確かでしょう。しかも上に見るように、この時の「倭国」からの使者記事の直前に、「瑞門外」において「天下奇伎異藝」つまりあらゆる地方からのあらゆる雑伎についてのカーニバルとでもいうべきものが開催されたらしいことが書かれています。

(再掲)「…丁丑,角抵大戲於『端門街』,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。…」

 この「瑞門」は洛陽の宮城の南端にある門を指す語で有り、これが洛陽での出来事であることが明示されています。またこのような催し物が当の皇帝である「煬帝」が見るべきものであったと思われると同時にも元日の祝賀に集まっていた各国からの使者達に見せる予定のものとして開催されたことは疑えず、その中に「倭国」からの使者も加わっていたであろうことも疑えません。そのことは同じ『隋書』の「禮義」の部分にも書かれています。

始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。蓋秦角始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。蓋秦角

 これをみると「隋代」以前から「百戯」と称される「雑伎」を行うもの達が「正月」に都に集合していたものであり、「煬帝」になってからその規模が拡大されたらしいことがしられます。その時点で「毎歳正月,萬國來朝,留至十五日,於端門外,建國門内,綿亘八里,列為戲場。百官起棚夾路,從昏達旦,以縱觀之。」と「萬國来朝」という表現から、当然「倭国」からの使者も含まれていたと見るべきこととなり、その「使者」は必ず「東都」と改称された「洛陽」を訪れていたこととなります。(上に見える倭国からの使者の訪れた日付である「己丑」は二十七日になりますが「百戯」は「終月」つまり「三十日」まで行われたとされますから当然これを見ていたであろうと思われることとなります)
 『書紀』の信憑性とは別の次元のこととして『伊吉博徳書』は考える必要があり、この『伊吉博徳書』は伝聞ではなく彼自身が見聞した実体験に基づいている点などを考えると信憑性としては高いものと推量されますから、その意味で「東京」と書かれている意味はかなり重大であると思われます。このことは以前考察したように一見「倭国」からの使者はまだ「東京」と称していた時代以外には「洛陽」を訪れていないという可能性に考えが至ることとなるわけですが、今回「博徳」達が「(難波)日本国」からの使者であるという視点を新たに得てみると、彼らは以前「外交」に関する権能を全く持っていなかったのですから、「洛陽」について「東都」と改称されていたという知識を持っていなかったとして不思議ではないことに気がつきました。
 上に見るように「伊吉博徳」以前の「遣隋使」は「東都」と改称して以降の「洛陽」を訪れているとされるわけですから、その時点で「洛陽」が「東京」から「東都」と改称されたという情報を入手できたはずです。つまり「日本国」として「遣唐使」を送る以前については外交知識がなく、また「日本国」としての「遣唐使」以降は「長安」にしか行っていないこととなります。このことから「洛陽」を「東京」と呼称している(誤解している)こととなると言えそうです。
 「白雉四年」の「日本国」としての遣唐使は「長安」に行ったものと思われ(「博徳」達も一旦「長安」に行っている)、『旧唐書』を見てもこの時「高宗」が「洛陽」に行ったという記事がありません。
 そもそも「唐代」以前の「倭国」からの使者は「北朝」の都である「長安」には行ったことがなく、経験があるのはずっと以前の「魏晋朝」時代の「卑弥呼」や「壹與」の頃に「洛陽」を訪れたものでした。「五世紀」の「倭の五王」は「南朝」の都「建康」へ行ったものであり、「洛陽」についての知識は「長安」に比べて豊富であったと思われるわけです。つまり「洛陽」が「東京」から「東都」と改称されたということは「倭国」として把握していたものであり、それは「遣隋使」が「洛陽」を訪れていたことと関係しており、それを「知識」として帰国していたものです。それを「倭国」つまり「筑紫日本国」の宮廷内官人は教養として共有していたものと思われるわけです。しかし「伊吉博徳」は「難波日本国」の立場で「唐」に向かったわけであり、その知識を共有する立場になかったものと思われ、そのため「洛陽」について「東京」と呼称したという流れが考えられるわけです。
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