いつもこのブログを見てくださっている方(どれほどいらっしゃるかよくわかりませんが)には厚くお礼申し上げます。
今年も押し詰まってきていますが、今年のもっともエポックメーキングなことは11月に行われた古田史学の古代史セミナーです。
この古代史セミナーについては、その趣旨が「七世紀倭国の外交について」と言うもので、講演の依頼があった時点ではそれに関する研究の蓄積があまりなく、講演が可能なのか我ながら疑問であったものですが、せっかくお声をかけていただいたのですから、挑戦してみようと思った次第でした。ただし研究の蓄積が少ないので満足な内容にはならないと思い、そこからいろいろ資料を調べたり、思索を巡らせたりする作業を始めたのですが、なかなか思うように進まず、9月段階で一旦そこそこまとまったのでこれをベースにお話しさせていただこうと思っていたものです。(この時点でレジメとして送ったもの)
この古代史セミナーについては、その趣旨が「七世紀倭国の外交について」と言うもので、講演の依頼があった時点ではそれに関する研究の蓄積があまりなく、講演が可能なのか我ながら疑問であったものですが、せっかくお声をかけていただいたのですから、挑戦してみようと思った次第でした。ただし研究の蓄積が少ないので満足な内容にはならないと思い、そこからいろいろ資料を調べたり、思索を巡らせたりする作業を始めたのですが、なかなか思うように進まず、9月段階で一旦そこそこまとまったのでこれをベースにお話しさせていただこうと思っていたものです。(この時点でレジメとして送ったもの)
この時点でシミュレーションした段階では普通に話すスピードであれば収まっていたのですが、その後(10月の中旬ぐらい)新しい知見がいくつか得られたことからそれを盛り込む必要ができてしまい、それに伴ってボリュームが一気に増大した結果「あふれ」が発生したものです。つまり時間に対して有り余る内容を盛り込んでしまった結果、趣旨が拡散したことととなりうまく伝わらなかった部分が多かったように思います。
ただし「七世紀倭国の外交について」という趣旨からは当然「倭国」から「日本国」への転換という部分がもっとも触れるべき点であり、これが実際には短いタイミングで行われたことではないことから、その経緯を説明しようとすると時系列的にも触れるべき点が多くなってしまうのはある意味当然であり、その一部だけをピックアップするのでなければ情報量が多くなってしまい時間内に収まらないのもある意味当然でした。これらについては事前の検討が不十分と言えばその通りで、そういう意味では反省もありつつ、講演をするという目的がなければこの新しい知見は得られなかったと思われ、その意味でこのセミナーには深く感謝しています。
その新しい知見についてはすでにブログにアップしていますが、箇条書き的にまとめると、
ただし「七世紀倭国の外交について」という趣旨からは当然「倭国」から「日本国」への転換という部分がもっとも触れるべき点であり、これが実際には短いタイミングで行われたことではないことから、その経緯を説明しようとすると時系列的にも触れるべき点が多くなってしまうのはある意味当然であり、その一部だけをピックアップするのでなければ情報量が多くなってしまい時間内に収まらないのもある意味当然でした。これらについては事前の検討が不十分と言えばその通りで、そういう意味では反省もありつつ、講演をするという目的がなければこの新しい知見は得られなかったと思われ、その意味でこのセミナーには深く感謝しています。
その新しい知見についてはすでにブログにアップしていますが、箇条書き的にまとめると、
①『旧唐書』の「日本国伝」記事と対応するのが『書紀』の「白雉四年」の遣唐使記事であるという点、
②この時の「遣唐使」が「日本国」としての最初のものであるという点
③『旧唐書』に言う「日本国は倭国の別種」という表現は、この時の「日本国」の使者の発言を疑った結果、「日本国」が「倭国」とは別の国であると「唐」として理解したということを意味すること
④これ以降「日本国」と「倭国」は並行して存在していたと「唐」として考えていたこと
⑤「倭国」は「難波」に宮殿を作った段階で「東国」に対して直接統治することを考えていたものであり、その時点で「日本」と国号を変更していたこと(これは「ひのもと」と読んだ可能性が高い)
⑥しかしこの時の「倭国王」の斬新で急進的な施策が周辺の反発を生み、離反された結果、倭国王がその座を降りてしまったこと
⑦その空位となった難波宮殿を「近畿勢力」が占拠、乗っ取ってしまた結果、本来の「日本国」とは別に「難波日本国」が生まれ、彼らが「遣唐使」を送ったとみられること(これが『旧唐書』に書かれた「日本国伝」の情報源となった)
⑧「伊吉博徳」の「遣唐使」も「日本国」としてのものであること(つまり彼は「難波日本国」の関係者とみられること)、この時同時に「倭国」(唐から見て)つまり「筑紫日本国」の使者も「唐」から招聘を受け派遣されていたこと
⑨「唐」が戦った相手はあくまでも「倭国」であり、「日本国」ではなかったこと(「倭国」と「日本国」は別なのだから)
⑩「百済を救う役」では「百済」から「倭国」つまり「筑紫日本国」に応援要請がきたこと、それに応じ「筑紫日本国」の「王」は「難波日本国」に対して「新羅」を攻めるよう指示したこと(斉明の詔は「百道」についての表現から薩夜麻が出したとみる方が正しい、また「倭国」は「唐の「高宗」から「一旦急あれば「新羅」を支援するように」と言う「璽書」を下されており、これに反する訳にいかなかったため)
⑩「薩夜麻」は「唐軍の捕虜」となったという表現から「新羅」を攻めるのではなく「高麗」への援軍に出動したと考えられること。
⑪そこで「大伴部博麻」と一緒に捕虜になっていることから「大伴部博麻」が「薩夜麻」の「親衛隊」のひとりであったとみられること、「大伴氏」が「倭国王」の親衛隊であり、常に行動を共にしていたと見られることからこの時も「大伴部」を率いて「倭国王」の護衛をしていたと思われること。
⑫『公卿補任』には「大伴御行」と「大伴安麻呂」が「五男、六男」と書かれており、彼らの上に複数の兄弟の存在が措定されるが『書紀』に記事がなく、彼らの動向について「薩夜麻」の護衛として「高麗」に行き、あるいは戦死したと思われること
⑬「百済を救う役」で捕虜となった人物の帰国記事から出征したのがほぼ九州と四国等の周辺地地域からであり、近畿等の地域からの派遣がなかった可能性が高いこと
⑭このことも含め「倭国」の統治領域の範囲として「筑紫」を中心とした地域が措定されること、及び『隋書俀国伝』記事の行程から「九州島」とその周辺が「倭国」の「直轄統治流域」と考えられること、さらに「倭の五王」のひとりである「武」の「南朝」皇帝への上表文からも「倭国」の範囲として「九州島」とその東方地域である「四国」と「中国」地方の半分程度が措定されることなどから、その領域の中心と考えられる「筑紫」において「君」と称されている「薩夜麻」が「倭国王」(筑紫日本国王)であったと考えるべきこと
⑮彼らが高麗で戦死したり捕虜となったりした結果「筑紫」において軍事的空白が埋まれ、それを埋めるように「難波日本国」が「筑紫」地域を軍事的に制圧した結果、彼らが「都督府」を設置したと思われること。その「都督」としての表現が『善隣国宝記』に引用された「海外国記」に出てくる「鎮西筑紫大将軍」という呼称と思われること、
⑯その後「唐」が「薩夜麻」を帰国させ再度「倭国王」として列島を統治させようとしたらしいこと、その際「日本国天皇」と「倭国王」へと2通の国書を持参し提出しており、「倭国」と「日本国」が別であるという認識をこの時点でも保持していたことが明確となっていること
⑰「薩夜麻」が「倭国王」として再度「統治」の実権を振うことに対して、「難波日本国」の一部が反旗を翻した結果「壬申の乱」が発生し「唐」の意志を体した「薩夜麻」が勝利し「天武」として統治を再開したこと
⑱その後「大地震」と「大津波」により疲弊した「薩夜麻日本国」を「持統」が継承したがそれは旧「難波日本国」勢力の支持があっものですが、「持統・文武」死去後は「難波日本国」が列島の全権を掌握し「やまと」と国号の呼称を変更したとみられること。
⑲「藤原宮」は「持統・文武」の旧王朝の都であったものであり、「延喜式」に見えるように「元明王権」は明確に「旧王権」否定して新王朝を開始したものであり、「文武」は「近畿勢力」の「傀儡」として存在していたとみられ、新日本王権の開始は「平城宮」遷都を以て完了したと思われること。
以上の流れを新たな知見として確認したのが本年の収穫と言えます。
また来年も何か新しいことを発見したり確認したりできたらいいなと思っています。
来年も多くの方のアクセスをお待ちしています。では皆様良いお年を。