古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「聖武」と「伊勢神宮」

2017年11月26日 | 古代史
 「東大寺」に当初「大華厳寺」という額が掲げられていたことについて書きましたが、その中で「伊勢神宮」と「聖武」の関係について書きました。つまり「東大寺」を建立するにあたり伊勢神宮へ「行基」と「橘諸兄」を差し向けていますが、これはありていに言えば「贖罪」と「支援」の要請及び「費用」の調達の意味があったとみて間違いないでしょう。
 ここで使者として派遣されているのは「橘諸兄」ですが彼は以前「葛城王」であったものであり、また「美濃王」の子供でした。その「美濃王」は「栗隈王」の子供とされていますが、その「栗隈王」は「難波王」の子供とされます。(『古代氏族集成』によります)その「難波王」は「忍坂日子人大兄王」の「弟王」とされています。この「忍坂日子人大兄王」と「難波王」は私見によれば「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」に擬された人物と思われ、倭国王権に直結した一家であり、また一族であったと思われます。(※1)

 「伊勢神宮」への使者として派遣されたもう一人は「行基」でしたが、彼は元々市中に説法して歩き布教をしていた人物です。この当時「国家」は一般民衆への布教を禁じていましたが、彼はそれを堂々と破りまた結果的に「承認」させてしまっています。このような所業が「聖武」」の王権とは一線を画するものであることは確かであり、彼がもともと「倭国王権」と関係の深い人物ではなかったかと推測できることを示します。
 彼はこの時「(仏)舎利」を「伊勢神宮」へ持参していますが、その「舎利」は「菩提遷那」がインドより?伝来したものとされているものです。その「舎利」の献上に対し「伊勢神宮」(外宮である「豊受大神」(宇迦之御魂之神))からは、これを「如意寶珠」と同じものとされ賞揚されたようです。この「宇迦之御魂之神」というのは「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」を神格化したものと思われ(※2)、これらを概観すると「東大寺」を建立する際に重要視されたものが「伊勢神宮」のもつ「影響力」であり、またその財力であり、「如意寶珠」に関わる信仰であったこととなるでしょう。つまり「伊勢神宮」と「如意寶珠」には関係があったということとなります。(これについては倭国王の「真影」とされる「救世観音像」が「如意寶珠」を持っていることが注意されます)

 ところで「古田史学の会」の現顧問である水野孝夫氏の論に「長屋王のタタリ」というものがあります。(※)その趣旨として「長屋王」が自殺に追い込まれたことで「聖武」は「倭国王権」とその宗教的支柱である「伊勢神宮」に対して「負い目」を持ったとされているようです。
 「長屋王」が殺された際には「伊勢神宮」では強い不満と不快の念が示され、それにより「聖武」は自責の念で錯乱状態となったようです。これに関しては引き続き「水野氏」の研究があり、それに拠れば「太神宮神道或問」という書物など「神宮」関連史料のいくつかに上の「長屋王」自害の翌日の「二月十三日」に「天皇」が「御悩みあり」という状態となったとされています。

「…同年二月十三日天皇俄に御悩みありて、御薬きこしめすの間、卜食しめ給ふに、神祇官陰陽寮勘申しけるは、巽の方太神死穢不浄の咎によりて祟り給ふなりと申し上げければ…」(渡会芳延『太神宮神道或問』より)
 
 これは明らかに「長屋王」の死去についての「聖武」の精神的な「煩悶」を示すものであり、「長屋王」を自害に追い込むにあたって「聖武」自身はある意味「断固」としてこれを行なったものではないことが分かります。つまり「聖武」自身は「長屋王」に対する「遠慮」とある種の「敬意」を持っていたらしいことが知られ、そのことから推測すると「高市皇子」についての彼の兄弟の反感を「藤原氏」などが利用したという流れではないでしょうか。
 『懐風藻』によれば彼の後継を誰にするかという審議の際に「弓削皇子」が「兄弟継承」を主張しようとしたらしいことが推定され、それを封殺されたことから遺恨があったことが考えられます。
 その立役者は「舎人親王」ではなかったかと考えられ、その直後に出された「舎人親王」に対し「下座する必要がない」(敬意を払う必要がない)という「太政官」処分(以下のもの)は「聖武」の意志に沿った行動を取らなかった「舎人親王」に対する精一杯の反抗ではなかったでしょうか。

「同年夏四月癸亥条」「…太政官處分。舍人親王參入朝廳之時。諸司莫爲之下座。…」

 これについては「聖武」の精神的状況を示すと共に「伊勢神宮」そのものの「長屋王」に対する「死」を望んでいなかったこと、つまり「伊勢神宮」の意志に反して「長屋王」が死罪となったことを示すものと思われ、「伊勢神宮」の勢力も「親長屋王」的立場であったことが窺われるものであり、彼らも「旧日本国」勢力の一部をなしていたということが考えられるものです。
これらの背後に「長屋王」という存在の「絶対性」があったものであり、旧倭国王権の直系という至尊の存在であったものに対して「亡き者」とするという方法・手段に対して「聖武」が強く畏怖したことがあったと思われるわけです。
 この事から「贖罪」の意味もあって「舎利」を「伊勢神宮」に献呈することし、「行基」と「橘諸兄」に取りなしを頼んだのではないでしょうか。
 「伊勢神宮」はその「外宮」がそれを「如意寶珠」つまり(海幸山幸が海神からもらった珠)として歓迎し、褒美に東大寺建設資金を援助したものと思われるわけです。もちろん「伊勢神宮」の「格」について国教的位置につけるという言質もとったことでしょう。(この派遣の直後の『続日本紀』の記事として「長屋王」に対する疑いが「誣告」によるものであったことが明らかとなることが書かれており、記事の流れとして意味深長なものがあります)

「五月…辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。…
秋七月…丙子。左兵庫少属從八位下大伴宿祢子虫。以刀斫殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人。初子虫事長屋王頗蒙恩遇。至是適与東人任於比寮。政事之隙相共圍碁。語及長屋王。憤發而罵。遂引劔斫而殺之。東人即誣告長屋王事之人也。」

 つまりこの「聖武」の当時は、未だ「倭国王権」の政治力(主に宗教的精神的支柱として)や「財力」(伊勢神宮配下の土地及び財産等)は大きく、これを頼みにしなければ(あるいは無視して)国家的事業はおぼつかなかったものという可能性が考えられるでしょう。しかし、「長屋王事件」以来「伊勢神宮」からの支援は止められていたものではないでしょうか。これを解決するために「橘諸兄」という元の倭国王権に直結する関係者と、「舎利」を「行基」によりもたらし、歓心を得ようとしたものではなかっかと思われるわけです。これに「伊勢神宮」の側でも応え、東大寺で贖罪の「祀り」を毎年開くことを条件に資金援助を行ったとみられますが、この「祀り」というのが「お水取り」というわけです。これを満たしたことで「東大寺」は「聖武」の願い通り建立されたとみられるわけです。

(※1)拙論「小野毛人の墓誌について」の各記事(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/c70754e30fb5473002ad09fb0926608a)等
(※2)拙論「「廣瀬」「龍田」記事について -「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において-」(『古田史学会報』一一八号)
(※3)水野孝夫「長屋王のタタリ」(『古田史学会報』一〇一号)

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