古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「高表仁」の来倭と「不宣朝命」について

2018年05月05日 | 古代史

 『旧唐書』等中国側史料によれば「六三二年」に唐皇帝「太宗」(二代皇帝)が倭国に使節「高表仁」を派遣したとされます。(これは実際には「六四一年」ではなかったかと考えられますが)この時「倭国王」あるいは同席した「王子」と「高表仁」が「礼」を争い、それに気分を害した「高表仁」が「朝命」を果たさず帰国する、という事件があったとされます。
 この「高表仁」という人物は『旧唐書』という史書の中では、以下のようにかなり明確に「けなされて」います。(「遠方の国を安んずる才能がない」という言い方をされています)

「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年(六四八年)又附新羅奉表、以通往起居。」(『旧唐書』東夷伝)
 
 ここで「高表仁」の役職として書かれている「新州刺史」の「新州」とは現代の香港よりさらに南の地域を指すものであり、彼は言ってみれば「左遷」されてここにいたものと考えられます。(それ以前は一旦「蜀」の地域にいたとされますからいわば「飛ばされていた」ようです)
 彼は「隋」の高祖(文帝)の時代、「尚書左僕射」という宰相的地位にあった「高熲」の子息(三男)であり、当時「皇太子」であった「楊勇」の娘を妻に迎えています。そのような生い立ちが彼自身の評価に影響している可能性はあるでしょう。
 彼を含む一族は「楊勇」と関係が深かったことから「煬帝」とは対立関係にあったものであり、そのため「唐」の時代になっても失脚というほど地位低下はしていなかったようですが、やはり旧王権に近かったことは確かであり、傍流的地位に落とされていたもののようです。
 彼は「刺史」というかなり地位も高い人物であり、またある意味「重要人物」でもあったと思われます。そもそも唐代においては「刺史」の選定はかなり慎重に行われたとされますから、その意味で「高表仁」もその力量についてはそれなりに高い評価がされていたと思われますが、「唐朝」の意図として、真に有能な人物であったなら、重用、つまり「唐中央」で働いてもらうという意味合いから「試験的」に倭国への使者として選抜したのではないでしょうか。(ただし、「航海」が危険を伴うことからわかるように失っても政権にとって痛みの少ない人物が選ばれていたことも否定できず、その意味で「高表仁」はあまり期待されていなかったのかもしれませんが)
 このような人物が使者として派遣される場合は「国書」が持参されていたとして不思議ではなく、「唐皇帝」の特命全権として「倭国王」との会談に臨もうとしたものと見られます。というより「国書」を読み上げ、倭国王に渡すことが「朝命」そのものであったでしょう。

 「唐皇帝」がこのように「倭国」との国交に取り組もうとした最大の理由は「半島情勢」と深く関連しているものと思われ、「高麗」との対決姿勢を強めるための「前提条件」として、その背後にいる「倭国」との「友好」が不可欠と考えたからではないでしょうか。(ここに至って始めて倭国の地政学的重要性に気がついたのではないでしょうか)
 「高表仁」は「外交実務」を試す意味で使者として選ばれたものと思われ、「ある意味」「優秀」と思われる人材発掘の場として「倭国」が選ばれているわけですが、そのことは、「唐」にとっての「倭国」というものが、「隋」以来の一種「宿題」となっていた国として映っていた事を示すものと思料されます。
 つまり、「倭国」は「前王朝」である「隋」に対して「対等性」の主張を盛り込んだ国書を出すなど、「問題」のある国と認識されていたことは確かであり、そのような国への「人材」派遣という事業は、その人物の問題処理能力を試すには絶好であったと言えます。しかし、この時派遣された「高表仁」は中国皇帝の代理としての意識が強すぎたことと、「前王朝」の「皇帝」の「身内」という意識があったためか、せっかくの与えられたチャンスを何とかものにして「失地回復」を図ろうとして「意識」過剰であったという可能性などがあるでしょう。
 『旧唐書』の記述によれば、「禮」を争ったとありますから、正式な外交儀礼を「倭国王」ないしは「王子」に要求し、その「厳格」な執行を求めたものと思われます。
 後の「開元礼」の中の「嘉礼」には「皇帝遣使詔蕃宣労」の礼というものがあり、これによれば「蕃主は唐の使者を迎えるにあたり、使者が詔有りと称したら蕃主は再拝し、使者が詔を宣したら改めて再拝し、その後北面して詔書を受け取る」とされています。
 彼(高表仁)はおそらくこの時このような「禮」を「倭国(王子)」に要求したものと見られますが、「王」ないし「王子」はこれに従わなかったという可能性が高いものと見られ、それに立腹した「高表仁」は「不宣朝命而還」ということとなったとみられます。
 この時「王子」が「詔書」を受け取る立場であったとすると「倭国王」の代理(摂政か)であったものとみられますが、彼は「唐皇帝」に対抗して「天子」として振舞おうとしていたものと見られ、「皇帝」の代理としての「高表仁」と正面からぶつかった可能性が高いと思われます。
 このことはまた「倭国王」(王子)の「気位」(プライド)の高さが知れる話でもありますが、また当時の倭国王権が「唐王朝」に対し「尊崇」する立場をとっていないともいえます。単に「外交儀礼」に関して「無知」であったというわけではないと思われるのです。

 この事件は従来「軽視」されているようですが、私見では「倭国」はこの前年に「伊勢神宮」の式年遷宮の第一回を迎え、新生「日本」として生まれ変わったという意識があったものと思われ、それは「国号」や「元号」を「訓読み」とするなどの点からもいわゆる「国風」文化の端緒の時期であったと思われますから、自国の特殊性、優越性について意識過剰であったという可能性があるでしょう。
 このときの「日本国」王朝は、「隋」から「訓令」を受け(つまり「古典的」祭祀を停止し仏教を受け入れた)、さらには「天子」を自称したことにより「宣諭」されるという事態に対応できなかった旧政権に対し、「距離を保とうとした」というより「反感を持っていた」と思われますから、それが「唐」との間にも現れてしまったという可能性があるものとみます。これが「構造的」なものなのか、「王子」の個人的感情の末のことなのかというと、やはり「倭国」と「倭国王」としての「公的なもの」とはいいにくいでしょう。遣唐使を派遣したという中に一定の友好関係は築いておこうという計算はあったものと見られますが、その計算を「王子」が壊したということではなかったでしょうか。彼自身は「唐」王朝に対し「蕃国」としての立場で振る舞うことが我慢ならなかったものとみられ、そのプライドが「高表仁」のプライドと衝突してしまったと見られるわけです。
 これについて「唐」朝廷としては「高表仁」からの報告内容を苦々しく聞いたこととは思われ、「高表仁」個人への評価もそうですが(史料によれば帰国した「高表仁」はペナルティーとして二年間「俸禄」が没収されたとあります。)「倭国」に対する印象もかなり悪くなったものと思われます。

 このとき「唐」は歴代の中国王朝が継続して交渉してきた「倭国」と改めて皇帝と臣下の関係を構築しようとしたものとみられます。
 「倭国」も「唐」の前代には「遣隋使」を送るなど「南朝」一辺倒の政策から転換していたものであり、「隋」王朝成立時に朝鮮半島各国が「柵封」された際にも、「遣使」はしたものの「柵封」されることはなかったものですが、これはあまりにも遠距離であったためという地理的理由によるものと思われ、特に「隋」に対して強圧的であったとは思われません。
 また「隋」に対し「天子自称」により「宣諭」されるという失態を演じていたわけですから、「裴世清」の帰国に併せ使者を派遣していますが、当然「謝罪」の目的であっただろうと思われます。それ以降も外交儀礼には気を使っていたはずであると思われますが、「日本国」となって以降はその方針が撤回され、「唐王朝」の権威に唯々諾々とは従わないという空気が醸成されていたと見られ、そのことが唐使に対し蕃国としての立場を認めないという振る舞いをとらせてしまったものと思われるわけです。

 ところで、上のように『旧唐書』では「高表仁」の派遣記事の最後「不宣朝命而還」の後に「至二十二年~」という記事につながるわけであり、これはこの遣使が「失敗」に終わったその「直後」、一時的に国交が絶えたことを示していると考えられます。
 また『唐会要』でも「不宣朝命而還。由是復絶」とあり、「国交」が途絶えたことと「不宣朝命而還」が「因果関係」があるように書かれています。このことは「国交」が途絶えた時期が、この「高表仁」の遣使の「直後」であった事を示すものでしょう。唐にとって積極的に友好関係を確立する必要はなかったものであり、倭国側から積極的なアプローチがない限り「放置」でよいと見たものではないでしょうか。そしてそのとおり倭国側からの働きかけはなかったものであり、それは上に見たように「日本国王権」の姿勢そのままであり、「対等外交」が拒絶されたなら当然断絶状態となるということではなかったでしょうか。

 この後は「貞観二十二年」(「六四八年」)になって「附新羅奉表、以通往起居」というように「新羅」を通じて「国交」を回復させたとされています。この「国交回復」の試みについては、「高表仁」と「礼」を争った当事者と思われる人物(これは「利歌彌多仏利」か)が死去した後の「後継者」によるものであったと思われ、ここにおいて方針の変更が行われたものと思われます。これについては新政権は実際には「旧王権」派ではなかったかと思われ、以前の勢力を回復していたものではなかったでしょうか。
 『旧唐書』によれば、新政権は「利歌彌多仏利」の葬儀に際して来倭した「新羅」の「金春秋」と友好関係を結ぶ事を画策し、まず「新羅」に友好関係回復のメッセージを送り、なおかつ唐との橋渡しを頼んだものとみられます。またそれとともに「唐」との関係が回復しないことを想定して「筑紫」に都を構えている場合の「リスク」を分散させる意味において「複都制」を企図し、「筑紫」からかなりの距離離れていて、「安全地帯」と思われた「難波」に遷都することにしたものではないでしょうか。
 「難波」は「阿毎多利思北孤」以来「東国支配」の「拠点」として重要視されていたものであり、ここを「本格的」な「京師」として整備し、「副都」から「首都」へという形で「対外防衛」と「東国支配強化」といういわば「一石二鳥」を狙ったものと思われます。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/04/24)(ホームページ記載記事に加筆)


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