古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「無文銀銭」について(二)

2017年06月29日 | 古代史

 すでに述べたようにこの「銀銭」の材料ないしは「銀銭」そのものの入手方法や産地については、当初「国内製造」と深い検討をせずに考えていましたが、現在ではそれがどのような形にせよ、「半島」からの流入と考えています。なぜなら「銀」は「国内」では「七世紀半ば」以降の産出と思われ、「隋・初唐」時代に「銀銭」が製造されていたとは考えられないからです。当然半島からの入手以外ないわけですが、それがどのような形のものであったかは不明です。ただし、「無文銀銭」は「鋳型」(半鋳型)による製造であったと考えられ、「唐」が「開通元寶」を鋳造して以降、それに「小片」を貼り付けて済ませているらしいことから、新しく「鋳型」を作る技術が(人手も含め)当時国内になかったという可能性があると思われます。

 「新羅」は「文武王」時代に「唐」に対して多額の「違約金」とでもいうべきものを「金銀銅」などの「銭貨状」のもので支払った記録があり、当時「新羅」国内に「銭貨状」の銀が製造されていたらしいことが窺えます。

「(文武王)十二年九月…伏惟 皇帝陛下 明同日月 容光並蒙曲 德合乾坤 動植咸被亭毒 好生之德 遠被昆蟲 惡殺之仁 爰流翔泳 儻降服捨之宥賜全腰領之恩 雖死之年猶生之日 非所希冀敢陳所懷 不勝伏劒之志 謹遣原川等拜表謝罪 伏聽勅旨某頓首頓首死罪死罪 兼進貢銀三萬三千五百分 銅三萬三千分 針四百枚 牛黄百二十分 金百二十分 四十升布六匹 三十升布六十匹」(『三国史記新羅本紀』文武王より)

 ここでは銀の量について「分」という単位で呼称されています。これは「両の四分の一」の重量を著すと思われます。
 後の「和同銀銭」については、含有されている「鉛」の成分分析により「朝鮮半島産」ではないかと推定されているものがあり、この「和同銀銭」が「無文銀銭」を「鋳つぶした」ものという可能性が強いものと考えられますから、「無文銀銭」についても「朝鮮半島産」である可能性が高いものと推定されることも先の推定を裏付けます。

 また、「近江崇福寺」の創建時点の「六六八年」時点程度が「無文銀銭」の製造年次の「下限」という考えもあるようですが、それではその時点で前述したような「小片」をわざわざ「付加」している状況が説明できないと考えられます。
 「初唐」時期にそれまで通貨として使用していた「五銖銭」に代わり「開元通宝」が製造されたわけであり、それに応じ他国においても「基準貨幣」を切替えざるを得なくなったわけですが、この「六六八年」という時点付近ではそのような事情が見出せないのは確かであり、この時点付近で「小片」が付着されたであろうという仮定や推定が行う余地がないこともまた確かであることとなります。(そのことは「崇福寺」という寺院の創建年代などの議論にも影響します。)
 「無文銀銭」などの研究で知られる「今村啓爾氏」も『ここで改めて注目すべきは「両」の四分の一である「分」という単位とそれに相当する重量の無文銀銭が共に天武朝あるいはそれ以前から存在したという事実である。』と述べておられ、「無文銀銭」について淵源がかなり古いという認識でおられるようです。
 
 『三国史記』の記述からは、「唐」への「銀(銭)」は「謝罪」の為のものであったことが判ります。そのことは「倭国」に貢上されたものも同様の意味があったという可能性も考えられることとなるでしょう。
 時代背景を「隋末」とした場合、「隋」と「高句麗」との間の戦いが「隋」に不利に進展していたことが影響しているのではないでしょうか。「新羅」にとって見ると「高句麗」の強大な軍事力が、自分たちにとっても実際的な「脅威」となる可能性があったものであり、その「高句麗」が「百済」と連合するという可能性を考えると、「倭国」から「百済」への働きかけを行なうよう「請政」したという可能性も考えられます。しかし、そのためには両国に横たわる懸案である「任那」問題について「新羅」から「倭国」への「謝罪」を行なう必要があったものと思われ、その際に「銀」が多量に貢上されたというストーリーが考えられます。
 そしてその貢上された「銀(銭)」を「倭国」は積極的に利用することとなるわけですが、その用途としては「隋」との「交易」に利用することを考えたものと思われ、「隋」から「高額」な品々を入手して国内に「市」を開きそこでそれを売りさばこうとしたものと考えられます。その際の「物品購入」に充てるために使用するという目的ではなかったでしょうか。(その意味で謡曲「岩船」のストーリーが注目されます。そこでは「唐」などと交易を行うために「君」が「摂津難波」に「市」を開き、そこへ「高価な品々」を満載した「岩船(宝船)」が「龍神」に守護されやって来る、というものですが、これについてはその時代状況などから、「君」とは「利歌彌多仏利」を指し、この「市」のため「唐」から物品を買い付けるために使用されたものが「無文銀銭」であると考えるものですが、詳細は別稿とします。)

 「無文銀銭」に関する従来の説の中にもこれを「海外貿易や大取引に用いられた高額貨幣」とする考え方もあり、このような「市」で取引するための物資購入などがその典型であったと考えられます。つまり、「無文銀銭」は「現代」における「高額紙幣」である「五千円」や「一万円」と同等の役割をしていたものと考えられるわけです。(もっとも「紙幣」は「名目貨幣」であり「実勢」に応じて取引される「銀」とは事情が違いますが、相場が安定している限りにおいては「銀」を中心に据えた取引は一番確実であったと考えられます。)
 この当時「半島諸国」では「五銖銭」が流通していたものであり、それは「百済」の「武寧王」(斯麻王)の墓誌に書かれた「買地券」と思しき文言とそこから発見された「五銖銭百枚」という存在からも言えます。
 「新羅」においても事情は良く似たものであったと思われ、「新羅」国内においても「五銖銭」が基準通貨とされていたものと思われますが、そうであれば「銀」が「五銖銭」と「互換性」を持たされていたことが当然考えられます。つまり「五銖銭」の重量と整数比をとるような重量を単位として「銀」が製造されていたと見られることとなるでしょう。そのようなものが「倭国」に一種の「賠償金」というような形で流入したと考えられる訳です。
 こう考えると、「無文銀銭」は継続的に流入したものではないこととなり、当然国内でも鋳造できないわけですから、一度だけの流入であったこととなるでしょう。そう考えるとそれほど大量には出回らなかったという可能性があり、それは出土する「無文銀銭」がそれほど大量ではないこととつながるでしょう。その意味で現在もっとも大量に発見されているのが「摂津難波」であるというのは示唆的です。(現大阪市天王寺区にあたる「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所から「大量に」出土したもの)
 それは「小片」を付着させたと思われる「鋳銭所」がこの付近にあったことを伺わせますが、「鋳銭所」は「大蔵」の下部組織であり、「難波宮」の「大蔵」がこの至近の地にあったことと深く関係していると思われます。
 「初唐」の時期に「無文銀銭」の基準貨幣を「開元通寶」に切り替える作業がこの地で行われたとすると「難波宮」か少なくとも「難波宮」の前身の統治拠点が当時この場所にあったことを推定させます。

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