鎌倉時代に「二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した『とはずがたり』という随筆様の文学があり、その巻三の中に以下のような記述があります。
「…夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」(『とはずがたり(巻三)』「六十二 嵯峨殿の祝宴」より)
ここでは「しやうこんこういんのかね」がなると「一院」(後深草院)がつられたように「とふろうはをのつから…」と詠じたとされます。
この「しやうこんこういん」とは「浄金剛院」を指し、「かね」とはその後「妙心寺」に入ることとなった「観世音寺」と兄弟とされる「鐘」を意味します。その「鐘」が鳴るのが低く聞こえてくると「後深草院」はすかさず「とふろうは…」と詠じたというわけですが、これは「菅原道真」の「漢詩」(以下)をふまえたものとするのが一般的です。
「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無撿繫/何為寸歩出門行」(『不出門』)
これについては一般には「鐘の音」という現象からの単なる連想と思われているようですが、これはそれほど単純な話ではなく、両寺院の鐘が兄弟関係にあるという認識が当時の宮廷人にあったことがその背景にあると考えるべきでしょう。でなければ「大宰府」や「観世音寺」まで発想が飛躍する理由が不明となると思われます。
研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129ヘルツ付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。またその「129ヘルツ」という周波数から考えて音高は確かに「日本音律」ではなく「隋代」あるいはそれ以前の「古音律」にいう「黄鐘」(こうしょう)であると推定できます。
つまりこの時の宮廷の人々は「浄金剛院」の鐘と「観世音寺」の鐘が兄弟関係にあること、「浄金剛院」の鐘の音高が京内の他の寺院とは異なっており、「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということ、それはもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものであることをが良く承知していたとことが強く示唆されるものです。
このことに関連して「浄金剛院」の鐘の音高については『徒然草』の中に興味ある指摘があります。
『徒然草』に「天王寺」の鐘について書かれた段があり、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられていますが、その末尾に「浄金剛院」の鐘についても同様であるというように書かれています。
「…其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。/凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」(『徒然草』第二百二十段)
つまり『徒然草』によれば「浄金剛院」の鐘が奏でる音高は「黄鐘」であるというわけですが、それはまた「無常」を表すものであったものであるというわけです。これに対して、当時(「鎌倉時代」)の他の寺院の鐘は「平安時代」以降発生した「日本音律」を「基準」として鋳造されたものが多く、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであった可能性があり、それは「観世音寺」の鐘と同じ音高であったということとなります。
これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘調」の音高を発するべきと言う思想があったと見ることができると思われます。それは「寺院」の「梵鐘」というものが「無常」を表す意義があったとみられるからです。
有名な『平家物語』の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったものなのです。これについては「黄鐘」という音高は「四季」を表すものであり、その意味で「移り変わり」を表すことから「無常」観につながっているものとする論もあります。上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならなず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」としています。
つまり「浄金剛院」の鐘の音高と「観世音寺」の鐘とは「兄弟」であるわけですが、同時にどちらも「無常」を奏でる音高であったと言う事もまた重要であると思われ、それらの事情を「後深草院」以下諸々の宮人はよく承知していたということが示唆されるわけです。そのようなことがなぜ把握されていたのかということについて述べた論(※)では「元寇」などにより「宮廷」の人たちに「大宰府」に対する知識が増えたことがその原因であるというようなことが言われていますが、「観世音寺」と「浄金剛院」の鐘同士の関係については「観世音寺」や「大宰府」についての表面的な知識や理解では容易に知られない事情というべきであり、そのような特別の事情を「宮廷」の人たちが知ることとなるには別の理由があると見るべきでしょう。
(※)寺尾美子「『とはずがたり』注釈小考 浄金剛院の鐘の音」(『駒澤国文』二十九号一九九二年二月)
「…夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」(『とはずがたり(巻三)』「六十二 嵯峨殿の祝宴」より)
ここでは「しやうこんこういんのかね」がなると「一院」(後深草院)がつられたように「とふろうはをのつから…」と詠じたとされます。
この「しやうこんこういん」とは「浄金剛院」を指し、「かね」とはその後「妙心寺」に入ることとなった「観世音寺」と兄弟とされる「鐘」を意味します。その「鐘」が鳴るのが低く聞こえてくると「後深草院」はすかさず「とふろうは…」と詠じたというわけですが、これは「菅原道真」の「漢詩」(以下)をふまえたものとするのが一般的です。
「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無撿繫/何為寸歩出門行」(『不出門』)
これについては一般には「鐘の音」という現象からの単なる連想と思われているようですが、これはそれほど単純な話ではなく、両寺院の鐘が兄弟関係にあるという認識が当時の宮廷人にあったことがその背景にあると考えるべきでしょう。でなければ「大宰府」や「観世音寺」まで発想が飛躍する理由が不明となると思われます。
研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129ヘルツ付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。またその「129ヘルツ」という周波数から考えて音高は確かに「日本音律」ではなく「隋代」あるいはそれ以前の「古音律」にいう「黄鐘」(こうしょう)であると推定できます。
つまりこの時の宮廷の人々は「浄金剛院」の鐘と「観世音寺」の鐘が兄弟関係にあること、「浄金剛院」の鐘の音高が京内の他の寺院とは異なっており、「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということ、それはもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものであることをが良く承知していたとことが強く示唆されるものです。
このことに関連して「浄金剛院」の鐘の音高については『徒然草』の中に興味ある指摘があります。
『徒然草』に「天王寺」の鐘について書かれた段があり、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられていますが、その末尾に「浄金剛院」の鐘についても同様であるというように書かれています。
「…其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。/凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」(『徒然草』第二百二十段)
つまり『徒然草』によれば「浄金剛院」の鐘が奏でる音高は「黄鐘」であるというわけですが、それはまた「無常」を表すものであったものであるというわけです。これに対して、当時(「鎌倉時代」)の他の寺院の鐘は「平安時代」以降発生した「日本音律」を「基準」として鋳造されたものが多く、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであった可能性があり、それは「観世音寺」の鐘と同じ音高であったということとなります。
これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘調」の音高を発するべきと言う思想があったと見ることができると思われます。それは「寺院」の「梵鐘」というものが「無常」を表す意義があったとみられるからです。
有名な『平家物語』の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったものなのです。これについては「黄鐘」という音高は「四季」を表すものであり、その意味で「移り変わり」を表すことから「無常」観につながっているものとする論もあります。上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならなず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」としています。
つまり「浄金剛院」の鐘の音高と「観世音寺」の鐘とは「兄弟」であるわけですが、同時にどちらも「無常」を奏でる音高であったと言う事もまた重要であると思われ、それらの事情を「後深草院」以下諸々の宮人はよく承知していたということが示唆されるわけです。そのようなことがなぜ把握されていたのかということについて述べた論(※)では「元寇」などにより「宮廷」の人たちに「大宰府」に対する知識が増えたことがその原因であるというようなことが言われていますが、「観世音寺」と「浄金剛院」の鐘同士の関係については「観世音寺」や「大宰府」についての表面的な知識や理解では容易に知られない事情というべきであり、そのような特別の事情を「宮廷」の人たちが知ることとなるには別の理由があると見るべきでしょう。
(※)寺尾美子「『とはずがたり』注釈小考 浄金剛院の鐘の音」(『駒澤国文』二十九号一九九二年二月)