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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「屯倉」の設置と「古代官道」

2018年03月18日 | 古代史

 『書紀』によれば「履中」「安康」「清寧」等、いわゆる「倭の五王」のころと考えられる「五世紀」の初めごろ以降、近畿に「屯倉」の設置が相次ぎます。
 これらの「屯倉」は「堤」「池」「水田」などの整備事業を伴うものがほとんどであり、「屯倉」に収納するべき「稲」などの「産品」を安定的、継続的に収集する体制を整えたことを示すと思われますが、これらの「堤」「池」「水田」などが「道路」の設置と深く関係していることを考慮すると、この段階で「古代官道」が整備され始めたことを示唆するものでもあります。
 「古代官道」については別途述べますが、「直線的」構造が特徴であり、その結果「山」を切り通したり、「谷」をせき止めたりする工事を伴う場合が多いですが、それに伴い「池」や「沼」を作ったり、「堤」を設けたりする付属的工事が行われることがあります。
 また「地割」の標準となる例も多く、「官道」の周囲に「水田」ができるなどの例が見られることがあります。これらのことを考慮すると、この時期の「屯倉」設置が「官道」と深く関係していると考えるのは当然と思われます。
 「官道」が整備され、「池」などが灌漑の機能を持ち、「水田」が規格化された地割で造られ(これは「屯田兵」によると考えられます)、収穫された「稲」などをはじめとした「貢納品」の貯蔵所として「屯倉」が設置されるという一連の流れは、「行政」機能がこの時点で大幅に強化された事を示すと思われ、「拡張政策」をとっていた「倭の五王」により、「倭国王権」による地方支配、地方収奪の道具として「屯倉」が存在したことを示すと考えられます。これは、強力な「服属関係」を表すと同時に、その地方の安定的支配のための一環であったと考えられます。

 「倭の五王」の時代と「鉄器」拡大の時期が重なっていることから考えると、その時期に「屯倉」が出来はじめると言うことは、その意義として「武器」(軍事力)により「服属」させ「附庸国」とした領域に対して、その後の「統治」のための体制の構築を行う必要から設置されたとも考えられるところです。「官道」設置の意義も同様であったと考えられます。このことから当初の「屯倉」には軍事的意義つまり「邸閣」としての意義があったものと思われます。
 「邸閣」は『倭人伝』にも出てきますが、「後漢」から「三国」時代には「軍事」に供する兵糧を収納する場所としての機能を持っていたものです。つまり軍事行動を行う際の糧食の供給のために後方支援体制の一環として設置されていたものであり、最前線から一歩下がった位置に設置されるのが通常でした。そう考えると、「屯倉」の設置されている場所はほぼ最前線と言うべき場所であり、その場所まで「官道」が延伸されていたと言うことは支配地域の拡大を(軍事によって行う)体制が構築されたことを示すものであり、軍事行動のためのインフラである「古代官道」と同時期に「屯倉」が設置され始めるというのは非常に自然であり、理解できることとなります。
 そのことは「屯倉」という文字面にも現れています。これは「屯田」という用語と無縁ではなく、「屯田」が「三国時代」の「魏」などでは「屯田兵」という特殊な「兵戸」による辺境防衛体制の一貫として設置されたものであり、そのことから用語上からも「屯田兵」という組織と「屯倉」が不即不離であり、この時「屯倉」と共に「屯田兵」が同時に設置された可能性が高いことを示します。
 「屯倉」の場合「戦闘集団」であるところの「屯田兵」が至近に所在していたわけであり、彼らが「屯田」から収穫したものは全てこの「屯倉」に集められ、戦闘が拡大した場合などはここから彼らに対し臨時食料が供出されたものと思われます。
 この「屯田兵」としての役割を担っていた人々が「部民」であったと推量され、彼らは一般人としてではなく別戸籍(ここでは半ば)で把握され、使役させられていたものと推量します。

 またその地域の軍事行動が一段落すると、それ以降「屯倉」はややその性格を変え、一般的な「蔵」としての機能が発揮されたものと見られ、「租賦」の集積及び上送の機能が全面に展開されることとなったものと思われます。これはその時点でその「屯倉」を中心とした地域の「責任者」を常駐させることが必要になることを意味します。そのためには当初は「別」や「造」を配置されたものと見られますが、後には「評制」が施行され、「評督」が「屯倉」の管理をするようになったらしいことが『皇太神宮儀式帳』などから明らかとなっています。
 当初任命されていた「別」や「造」は「倭国王朝」から「信任」を得て「統治行為」を代行するわけであり、一種の「信託統治」とでも言うべき存在であったと思われます。そして、これら「地方支配」の道具である「屯倉」が「近畿」に設置されるということは、その時点で「近畿」が「倭国王」から見ると「地方」(諸国)であったという証明でもあります。
 このような「官道」整備は一般には「七世紀」の始めに行われたと推定されています。しかし、上の記事はそれより「一五〇年」以上離れた「倭の五王」の時代と考えられ、実在性が問われる記事ではありますが、後の官道に比べ「幅」などは狭かったものの同様の意図を持った「官道」は一部ではあっても形成されていたと考えるのはそれほど不自然ではないと思われます。その様なものがなければ「領土拡張」という事業そのものの正否が問われるものだからでもあります。しかもその領土拡張の主役は騎馬によるものと思われますから、その意味でも「高規格道路」が部分的にでも竣工していなければそれも叶わぬ事となると思われるわけです。しかもこれらの「屯倉」が「近畿」に限定されていることは、「官道」もまた後の「山陽道」の延伸として「近畿」周辺地域に展開されたものと考えられ、それは「近畿」に巨大な古墳が形成されることと表裏を成すものといえます。

最終更新 2015/02/10(ホームページより転載)


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