現在確認されている風土記の中に「筑紫風土記に曰わく」という出だしで始まるものが二つ確認されています。いずれも『釈日本紀』に「逸文」として採録されているものです。
以下にその文章を掲げます。
(一)筑紫の風土記に曰く、肥後の國、閼宗の縣(あがた)。縣の坤、廿余里に一禿山(とくざん)有り。閼宗岳と曰う。頂に霊沼有り、石壁、垣を為す。計るに縦五十丈、横百丈なる可し。深さは或は廿丈、或は十五丈。清潭百尋(せいたんひゃくじん)、白緑(びゃくろく)を鋪(し)きて質(そこ)と為す。彩浪五色、?金を ?(は)えて以て間を分つ。天下の霊奇、?(こ)の華に出づ。時々水滿ち、南より溢流(いつりゅう)して白川に入る。?魚醉死し、土人苦水と號す。
其の岳の勢為(た)るや、中天にして傑峙(けつじ)し、四県を包(か)ねて基を開く。石に觸れ雲に興(おこ)し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫(うか)べて水を分つ、寔(これ)に群川の巨源。大徳巍巍(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形杳杳(とうとう)、伊(これ)天下之無雙。地心に居在す。故に中岳と曰う。所謂閼宗神宮、是也
(『釈日本紀』巻十、五一七~五一八ぺージ)
譯注:居在地心者,意其位於國之中心也.
(二)「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の縣(あがた)。子饗(こふ)の原。石兩顆(りょうか)あり。一は片長一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸なり。色白くして鞭(かた)く、圓きこと磨成せるが如し。俗傳へて云う、息長足比賣命、新羅を伐(う)たんと欲し、軍を?するの際、懷娠(かいしん)漸(ようや)く動く。時に兩石を取りて裙腰(もこし)に插(さ)し著(つ)け、遂に新羅を襲う。凱旋の日、芋眉*野に至り、太子誕生す。此の因?有りて芋??野と曰う。?を謂いて芋?と為すは、風俗の言詞のみ。俗間の婦人、忽然(こつぜん)として娠動(しんどう)すれば、裙腰(くんよう)、石を插(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延(の)べしむ。蓋(けだ)し此に由(よ)るか」
(『釈日本紀』巻十二、五〇〇ページ)
この二つはどちらも「筑紫の風土記に曰わく」とで始まっていますが、前者は「肥後」を含んだ全九州とでも言うべき「筑紫」であり、後者は「国名」がなく「県名」から始まっていて「筑紫」と言っても「狭義」の(というより「本来の」)「筑紫」(福岡県程度)であることが分かります。
『風土記』として現在残っているものの中にはいわゆる「県風土記」と呼ばれるものがありますが、(たとえば『筑後風土記』など)そこでは「国県」が行政制度として使用されているように見えます。この「国県制」は「阿毎多利思北孤」の改革により定められた行政制度と推量され(※)、そのことから、これらの「県風土記」の成立が「六世紀末」という時点ではないかという考えに至りますが、これと同様の「県」を使用した風土記が上の二つの『筑紫國風土記』です。
ここに見られる「行政制度」が『筑後風土記』などと同様に「阿毎多利思北孤」の改革による「国県制」に則っているように見える、ということから、一見これら『筑紫風土記』も同様の時点で「撰定」されたものと考えられそうです。しかし、そうであれば「筑紫」という名称の示す領域は「狭義」の「筑紫」ではなかったでしょうか。それはこの時点で「九州島」の内部が(逆に)「九つ」の「州」(国)に分けられたものと推定されているからです。
この点から考えて、(二)の方の『筑紫風土記』は確かに「利歌彌多仏利」時点のものという理解が可能ですが、(一)の方はそうとは考えられないこととなります。
ではこの(一)の方の「筑紫」と称して「全九州」を示す『風土記』はいつ頃の成立であると考えるべきでしょうか。
この(一)の「全九州風土記」が「利歌彌多仏利」改革の「以前」に既に成立していたとすると、ここに「国郡制」が見られないことは「矛盾」と言えると思われます。
『風土記』の編纂に関係するものとして「履中紀」の記事があります。
「履中四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸國置國史。記言事達四方志。」
仮にこの時の「詔」以降に、この(二)の「全九州風土記」が成立していたとすると、「行政制度」としてこの当時「郡」が使用されていてしかるべきと考えられます。なぜなら、当時の「倭国の中心部」と思われる「九州島」の内部では以前より「国(州)郡県制」が施行されていたと考えられるからです。
この「郡県制」は「漢代」以来の中国の伝統的制度であり、歴代の中国王朝と交渉を継続してきていた倭国王朝がその制度を導入しなかったはずがないと思われます。
「倭王権」(当時は「伊都国」あるいは「奴国」が中心王権と思われる)は「漢」が半島に「楽浪郡」を設置した紀元前一〇八年付近から、「使者」を送っていたようであり、「漢」の制度を(「暦」や年号などと共に)摂取したと考えられます。少なくとも「親魏倭王」と言う「金印」を授かった「卑弥呼」の時代は「魏」の制度(つまり「漢」の制度でもあります)を国内にもかなりの範囲適用していたのではないかと思料されます。
当時の「邪馬壹国」率いる「倭王権」は「魏」に「臣従」しており、「親魏倭王」という称号も授与されています。さらに「狗奴国」との戦いに際しては「帯方郡」に「援助」を請い、「張政」など「告諭使」の派遣を受けるなどしています。また「卑弥呼」だけではなく「大夫」と称する彼女の配下の人物達も「魏」の天子から印璽を受け、あるいは「魏」の軍隊の「階級」を授けられています。これらから見ても、「卑弥呼」が、というより当時の「倭王権」が「魏」の配下の諸候王国のひとつとして存在していたことは間違いなく、少なくとも宮廷内部では「魏」の「法令」(律令)に依拠していたと考えるのは不自然ではありません。それは「戸籍」などについて『倭人伝』において「戸」という表記がされていることでもわかります。
「戸」と「家」の解析からも判るように、この当時「魏制」(漢制)というべきか)と同内容の「戸籍制度」が「倭国内」に存在していたらしいことが推察できます。
また『魏志倭人伝』によれば「倭王権」は中心国である「邪馬壹国」から諸国に「官」が派遣されていたとされ、「王」は「伊都国」を除くと全く確認されていません。(狗奴国は別ですが)つまりこの段階では「倭王権内」には「郡県制」らしきものが施行されていたこととなるでしょう。(正確には「国郡県制」か)
ただし、この「国郡県制」の様な「中央集権制」は強い中心権力がなければ、維持は困難であり、その後「倭の五王」の時代を通じて、長い間「倭王権」の「中枢部」つまり「九州島内部」では施行され続けていたと推量されるものの、「諸国」ではそれらは施行されなくなりそれら「諸国」が別個独立的に「国(クニ)」としての統治行為を行うようになったと見られ、いわば「封建制」に戻った時期があったと考えられます。そのような地域の長は「造」や「別」を名乗っていたものであり、それは「倭国王権」側からは「任命」ないし「派遣」されていたというスタンスであったわけですが、それは当然「官僚」というわけではなく、また「倭国中央」の意思を全面的に体して動いていたというわけでもないと思われ、明らかに「半ば独立」した「候王」という状態ではなかったかと考えられます。つまり「封建制」的世界がそこにあったと見られるわけであり、その意味では「行政制度」というようなものはなく、その地域には彼らの「上部組織」というようなものは「なかった」と考えられる事となるでしょう。
ただし、いわゆる「地方」に相当する「道」(未開の地域を指す古典用語)と呼称される「領域」はあったと思われますが、これは「行政組織」というようなものではなく、「常任」の「管理者」ないし「責任者」が任命されていたというものではなかったと思われます。
「倭国」中央からの重要な方針などを指示・伝達するために「使者」(将軍など)を「倭国」の本国から派遣する、というような行動はあったものの、そのような場合には「道」(地方)という意味の概括的領域を示す用語が使用され、当該「道」周辺の各「国造」などを一個所に招集し、「倭国王」の意を伝えるという形で広い意味での「統治行為」を行っていたものと思料します。
基本的には「別」や「造」など在地勢力により、いわば「自治」が行われていたものであり、せいぜい「収穫物」などの一部を「上納する」というようなものが目に見える形の「義務」であったと思われます。もちろん「統治」「支配」の象徴としての「墓制」(前方後円墳)やそこで行われる「祭祀」の共通化という形での「服従」などはあったと考えられるものの、倭国中央で決められたものが逐一(しかも時間をおかず)実行されるというような、いわば「本格的」な統治行為は行われていなかったと考えられます。そのようなことは「封建制」的世界ではあり得ないものと考えられるわけです。
これに対し「倭国」の本国では「国郡県制」が施行され続けていたと考えられます。それは「ある程度狭い領域」であれば「倭国王」の直轄的統治が可能であったからであり、この「倭国本国」内では「各地域」に「官」が派遣され、「封建制」を脱した「郡県制」的世界があったものと思われます。
つまり、この頃の「日本列島」は「倭国」(の本国)の制度とそれ以外の諸国の制度(体制)とが異なるという「二重行政」的体制であったと考えられるのです。
これらの事情から考えて「利歌彌多仏利」の改革「以前」に「全九州」としての『筑紫國風土記』が出来ていたとすると、そこは「倭国」の「本国」といえる場所ですから、「国郡県制」が使用されていてしかるべきと考えられますが、上記「全九州」『筑紫國風土記』では「郡」が見あたらず、「国県制」になっています。このように「郡」が廃止され「国県制」が施行されていたのは「隋代」に限られ、その前後の時代にはなかったものですから、明らかにこの『筑紫國風土記』の成立は、「遣隋使」以降であり、「利歌彌多仏利」以降であることを意味するものと考えられます。
正確に言うと「国県制」の施行は「隋」の「高祖」(文帝)の治世下のことでしたが、「煬帝」の即位以降それが廃され、「郡」が復活したこととなっています。
「(開皇)三年十一月…甲午,『罷天下諸郡』。」(隋書/帝紀第一/高祖 楊堅 上/開皇三年)
「(大業)三年夏四月…甲申,頒律令,大赦天下,關?給復三年。壬辰,『改州為郡』。改度量權衡,並依古式。改上柱國已下官為大夫。」(隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上/大業三年)
これで見ると「開皇三年」(五八三年)に「罷天下諸郡」とされ、「大業三年」(六〇七年)に「改州為郡」とされており、「国県制」が「倭国」へ伝わる機会はこの期間以外ないこととなります。
(この項の作成日 2012/02/08、最終更新 2016/08/15)(ホームページ記載記事に加筆)