肥沼氏のブログhttp://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/09/post-ec15.html(に「上城」という方(たぶん「古田史学の会」の「上城誠氏」)がコメントを寄せていたのだが、その内容を見て奇異に感じた。彼はいきなり「賀正礼」の話を始めたのだが、肥沼氏のブログ内容には「賀正礼」の話などどこにも触れられていないのだ。しかも前置きも何もなく唐突としかいいようがなかった。
その内容もちょっと違和感のあるもので「孝徳朝」の賀正礼を一生懸命否定しているのだが、文章の背後から「古田史学の会」でイニシァティブをとっている「古賀氏」に対する何らかの意図が感じられ、純粋に「真理探究」の結果とはいえないような雰囲気を感じた。学問的立場の違いや方法論の違いはいくらでもあり得るが、それが個人攻撃や人格否定のようなことになるのが古代史論者の多くがすでに経験した悪弊であろう。同じ轍は踏まないという「誓い」を各自が持つべきではないか。
論の内容としても「孝徳朝」の「賀正礼」を「養老令」にあるものと同一と「決めつけて」議論を進めておられるようだが、(確かにそれは古賀氏が言及したことだが)まずそのことを明証すべきではないのか。(ただし「多元」の上城氏の論をみているわけではないからかいつまんだ話にしかならないが)
ちなみに「私見」ではそれは誤解であり、そのようなことがあり得るはずがないと思っている。「唐」や「新羅」が「賀正礼」を行っていて、それと戦った倭国に「賀正礼」があるはずがないというのは単に思い込み以上のものではないと思うし、実際には「孝徳朝」の賀正礼は「唐」起源ではないと考えられる。それ以前から倭国に流入していた中国の儀礼ないしは元々の倭国の伝統に基づくものといずれかであろうと思われる。少なくともそのような想定はいくらでも可能である。しかも、そのようなものが七世紀半ば以前に存在していたらしいことは律令を研究している人たちにはすでに常識の範囲のことである。
一般に「倭国」では「唐令」をそのまま継受していない、とされる。つまり「倭国」独自の形に変改して受容しているとされ、それらは「倭国」の国内事情に合わせたものであり、それはいわゆる「大化前代」(ここでは「七世紀半ば」の意)までの「倭国」の状況を反映していると言えると思われる。(例えば「増田修氏」の論をご参照いただくと良いと思われる。)
「新羅」は「服飾制度」を含め「唐令」を導入したわけだが、それはほぼ完全な「服従」を意味するものであり、それは反対報酬として軍事援助を欲した事の結果でもある。それに対し「倭国」は必要なものだけを導入したものと見られ、それはもっぱら統治の際の利便性の追求の結果であり、「服従」のためではなかったと思われる。つまり、「新羅」とはその「唐令」の継受に当たっての「動機」の違いが大きいと考えられる。そのことは「新羅」が採用していたから「倭国」が採用するはずがないというような単純な議論にならないことを示している。その証拠に「賀正礼」の場合「唐」と同様式になるのはずっと後代であり(平安時代とされる)、「八世紀」時点においては「唐」とは異なる形式で「賀正礼(元日朝賀)」の儀式を行っていたものであり、この時点でなお単純な模倣を行っていたわけではないである。
そう考えると「七世紀半ば」という時点で行われていた「賀正礼(元日朝賀)」が「開元令」から復元された「唐令」に完全に則っていると考えること自体に問題があるのではないかと思わざるを得ない。それまでの「倭国」の伝統をメインにした儀式を行っていたという想定の方が遥かに蓋然性の高い想定であると思われる。
そもそも「大宝令」に関する「古記」などの記載からは、その中身として「唐」の「永徽律令」などの影響が考えられているが、この「永徽律令」とその「疏」などの成立が「六五三年」とされていることから、それ以前に行われた「元日朝賀」がそれらに則っていないのは当然といえるものである。「元會之儀」そのものは古来からあるものであり(「北周」でも「隋」でも行っていた)、それが「禮制」として成立していたかどうかだけの問題と思われ、そのようなものが伝来していなかったと断定できるものもないのである。そう考えると「躍起」になって否定する根拠がそもそも薄弱であるといわざるを得ない。逆にこの「孝徳朝」の「賀正礼」が何に由来するものなのかを解き明かす態度こそ多元史論者に欠かせない態度ではないだろうか。
ちなみに「賀正礼」は「七〇一年」以降というが、なぜ「七〇一年」なのか。古田氏が言ったからではなく自分でちゃんと説明できるのか、自分の頭で考えてどうなのか。それらについては聞こえてこないがどうなのだろう。私見ではこの「七〇一年」という年次に新しく何か始められる要因は全く感じられないのが本当である。海外からの知識などはとっくの昔に入っている。なぜもっと早く始められなかったのか、それが「近畿王権」以降であるというなら、「倭国」時代には全く隋・唐の制度は流入しなかったのであろうか。それなら遣唐使は何をしに行ったというのであろうか。何かを手中にして帰国したならそれがなぜもっと早くに結実しないのか。それらをちゃんと説明できなければ、孝徳朝の賀正礼を否定している場合ではないのではないかと思えてしまう。
個人的感情など払いのけて学問の大道を行く気概がほしいものである。
ただ、私はそもそも「古田氏」のいわゆる「三十四年遡上」が正しいのかということもあり、そのことも問われるべきではないか、とも考えています。それと同時に、確かに「正木氏」のいう理由としての「記事移動」があったかどうかは不明でしょうが、すでに述べたように「書起」の中の年次を固定的に考えることに束縛される必要はないとも考えています。それらについて今後このブログにアップしていく予定ですのでごらんいただき感想をお寄せいただければ幸いです。とりあえずこの「三十四年遡上」について以前から私が考えていたことをアップします。今回の上城様の「論文」(見解)とひょっとすると一部重なるのかもしれません。
ところで、前にも述べましたように「多元」を目にする機会はありませんが、上城様の論文はどのようなものだったのですか。概要で結構ですので(もし可能であれば)お聞かせ願えませんか。都合が悪ければ「非公開」とします。「蝦夷の人数」についてとありますから、「柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人」の人数の取り扱いの点でしょうか。これを「越の蝦夷九十九人、陸奥の蝦夷九十五人」とは別とする「正木氏見解」についてのことかな?と考えていますが。いかがでしょうか。
ただし、「書紀」についての考え方は色々あると思いますが、例えば既存の考え方(「古田史学」ではなく)でも、「法隆寺」の焼亡時期を干支一巡遡上すべきと言うものもあるようです。(その方が瓦編年に合致するというもの)この事は一概に「書紀」の年紀を固定的、確定的なものと扱うと言うことが必ず正しいとは言えない事を意味すると考えますが、他方年次移動は「恣意的」であってはならないのも当然です。いかに「客観的」な例を挙げうるか、それがいかに「書紀」の記述よりも「あり得る」のか「合理的」なのかを言う必要があります。そう考えると、正木氏の「三十四年遡上」の最も強い例証は「蝦夷」の人数が整合しているように見える例です。この例証を論破しない限り、彼の理論は命脈を保つと思われます。単に偶然などと言うのは論として成立しないと思われますから、例えばあのような場ではあの人数というように何か「決めごと」があったなどと言うことを証明する必要があるのではないですか。それが出来ない限り正木氏の説が「通ってしまう」という現実は避けがたいと思います。(あくまでも私見ですが)
実際に古賀さんや正木さんに対して「三十四年遡上」や「難波副都」について「まともな反論」を提示しているのは「皆無」です。(少なくとも「皆無」に見えます)お二人がこれらの説を出されてから結構な時間が経過していると思われますが、その間有効な反論が成されていないことも確かではないですか。そのため「仮説」が「定説」になりつつある状態ともいえるのでしょう。(仮説を是とする根拠が示されないと同様に「非」とするものも聞こえてこないということです)
そもそも「古代史」は言ってしまえば「仮説の体系」ともいえますから、「仮説」を建てることが問題なのではなく、どのような「仮説」を建てるかという事に尽きるのであって、蓋然性のより高い仮説をいかに多く建てて、それを組み合わせるかだと思われます。当然、その結論は相当程度蓋然性は「低く」なるわけですから(90%の蓋然性であってもそれが5-6個重なれば50%程度まで下がるわけです)、別の角度からの検証が常に必要とされるでしょう。その意味で「古田史学会派」内での議論がやや不活発なのかも知れません。
これについては、迂遠な言い方をすると「紙」媒体で隔月刊という「機関誌」の形態に遠因があるような気もします。このような形態では論争をしようとしてもスピードが上がりません。さらにいうと、このような形態は多くの会員にとってなじみ深いものであると同時に、会員の年齢層ともかみ合って論争そのものが起きにくい要因となっていると思います。(上城さんは論争を喚起していましたが、紙媒体だとページ数制限から論争に参加する人達の数も限られてしまいますし)
そのような中で古賀さんの発言が「ブログ」として「リアルタイム」で出されていますから、そのギャップがますます「仮説」として一人歩きしている印象を与えているのかもしれません。あのブログにも「コメント欄」があると良いのかも知れないとも思います。
2013年4月29日(月)に「肥さんの夢ブログ」に私が書いた
「古代史いつ学ぶの?」「今でしょ!」という記事に関しての
上城さんのコメントがご紹介のものです。
(上記の中で,私は古賀さんの説を支持しています)
私が今考えているところでは,九州王朝は南朝を継いだ形なので,
北朝(である唐)に賀正礼があるなら,それに対抗する形の
賀正礼が南朝にもあったのではないかということです。
または,隋や唐より先にあったのではないかと。
滅んでしまったので,史料はありませんが・・・。
それを受け継いだのが九州王朝で,
北朝の賀正礼を受け継いだのが(あるいは南朝のまねをした)唐という
アイデアはだめでしょうか?