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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「斑鳩寺」と「火災」の痕跡

2018年05月15日 | 古代史

 『聖徳太子傳補闕記』という聖徳太子の伝記によれば、「寺」に仕える「」同士の「争論」があり、それを「寺」の「法頭」が裁定している様子が描かれています。

『聖徳太子伝傳補闕記』
「…家人馬手 草衣之馬手 鏡 中見 凡波多 犬甘 弓削 薦 何見等 並爲。黒女 蓮麻呂 爭論。麻呂弟万須等 仕奉寺法頭。家人等根本妙敎寺令白定。麻呂年八十四 己巳年(六〇九年か)死。子足人古年十四年壬午(六二二年か)八月廿九日出家大官大寺。麻呂者聖德太子十三年丙午年(五八六年か)十八年始爲舍人。癸亥年(六〇三年か)二月十五日始出家爲僧云云…」

 この記事以前に「斑鳩寺」については焼亡記事があります。このことから、一般にはこの「争論」記事はその後のことと考えられていますが、『補闕記』の冒頭にもあるように、この「元」となった資料は「ふたつ」あり、この後半部分は、「火災」を記した「前半」とは別資料と考えられ、年次が連続しているとは断言できません。
 この段階で「寺」と言って何の注釈も入れていないのは、まだ「斑鳩寺」が存在していることを示すとも推測され、「斑鳩寺」がまだ存在している段階で起きた争論に対して、その解決に自分たちの氏族が中心的役割があったとする「付会」の文章であると考えられ、「年次」を拘束するものではないと考えられます。
 これについて「東野氏」は「庚午年籍」造籍と関連しているものと考えられたようですが、推定される年次が「干支一巡」繰り上げて考える必要がある事や、また「斑鳩寺」があった時期を考慮する必要があるとすると、「庚午年籍」ではないこととなります。
 「六二〇年」という年次に「急いで」「達」の身分について確定する必要があったとすると、やはり「造籍」と関連しているのは確かであると考えられますが、そうであれば「正倉院」に残る戸籍からの分析として「女子人口」のピークが確認される「最古」の年が「六三〇年」であることとつながります。これはその十年前に「造籍」が行なわれ、戸籍がその時点で確定したことを示すものであること、その時点以降「十年後」の再造籍までに生まれた子供達を「一括」して記録したものと思われるわけです。この「六二〇年」はその「起点」となった年であり、この年次で最初の造籍が行なわれたことを示すと思われます。
 更に、同じく「正倉院戸籍」における「筑紫」地方の戸籍の様式が「両魏式戸籍」と近似していると判断される事ともつながるものでしょう。この「両魏式戸籍」は「隋」の時代以降は行なわれていないわけですから、「遣隋使」によってしかもたらされるはずのないものだったと言えます。であるとすると「六二〇年」という年次は、まさに「遣隋使」によりもたらされたその瞬間と言っても良いぐらいのものですから、ここでの造籍を想定することは合理性があることとなります。
 
 またこう考えると、『書紀』の六七〇年の「火災記事」は「事実ではない」ということとなります。
 確かに「法隆寺」に伝わる伝承では「創建以来」「火災」には遇ってはいないとされています。火災にあったのは「法隆寺」の「前身寺院」であり、「法隆寺」そのものではないということです。
 そもそも、「若草伽藍」と「法隆寺」はその「配置様式」から全て異なるものであり、同じものを再建したものではないわけですから、この時点では「新築」か「他からの移築か」いずれかしか考えられないのは明らかです。
 それを考える場合、「法隆寺」の各所に使用されている部材の年代が参考になると考えられます。その中には、かなり「新しい」ものも含まれており、これは「創建のままである」という伝承とは矛盾することとなります。ただし、古い部材もかなりの割合を占めており、逆に考えると、「法隆寺」がもし新築された建物であるなら、このように古い部材がなぜ多いのかを説明する必要がある事もまた確かでしょう。
 伐採された部材を「寝かせる」期間は、それが「太く」「長い」部材である場合は「あばれる」量が多くなり、寸法に狂いが出るものですから、長めに取るでしょう。(十年以上など)しかし、端材などの場合はそのような懸念も少ないわけですから、それほど長い期間は必要ないものと考えられ、せいぜい二~三年と考えられます。
 「法隆寺」の場合「年輪年代測定」された部材の一番早期(古い)のものは、「金堂」の場合で「六五〇年」と測定されており、「最新」との差は二十年以上となるわけですが、「五重塔」の場合はもっと広く「心柱」を除いても「五十年」以上の年代差があります。(※)
 もし「新築」であるとするともう少し伐採年代が揃っているものと思料され、そのことからも「新築」ではないと推察され「移築」である可能性が高くなります。そう考えると「新しい」と考えられる部材の年代は限りなく「移築」の年次に近いことが考えられます。
  一般に新築の場合は「法興寺」などがそうであったように「山に入る」などして「新しい部材」を調達します。しかし「法隆寺」には逆に「新しい」と考えられる部材もまた少ないわけですから、「少なくとも」「新築」された建物ではない、という事が言えると思われます。「新築」された建物でなければ、それは「移築」としか考えられません。
 部材のもっとも新しい伐採年代が「六七〇~六七三」年付近であると言うことは、その「直後」付近の年次が「移築」の年次ではないかと推定されるものであり、「六七五年」付近が想定できるものです。
 つまり、「斑鳩寺」は「六二〇年」に火災に遭い、焼失してしまったものであり、その跡地はかなりの期間「更地」のままであったものです。後に「法隆寺」を移築したのです。その「法隆寺」は「筑紫」に「六〇七年」に建てられたものであり、それは「阿毎多利思北孤」のために「利歌彌多仏利」が建てたものと考えます。
 そして「火災」があったとされる「庚午年」(六七〇年)という年次は、「移築」が「決定」した年次であったのではないでしょうか。そして、以前からここに「法隆寺」があったことを「装う」為に「火災記事」を置いたものと思料します。
 

(※)光谷拓実「年輪年代法と文化財」(『日本の美術』421 号2001 年など)


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/04/08)(ホームページ記事を転記)


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