古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「『遣隋使』はなかった」か?再々再度かな-2

2024年01月21日 | 古代史
以下前回の続きです。

「『遣隋使』はなかった」か?(二) ―「寶命」問題を中心に ―

「要旨」
 ここでは「寶命」問題について検討し、「寶命」が「初代」にだけ使用されるあるいは特異な即位の際に使用されるという古田氏の意見は成立しがたいこと、「寶命」は「前皇帝」との関連で使用されるものであり、「二代目」でも、あるいは通常の即位であっても使用される用語であること、「南北朝」以降は「禅譲」された「新王朝」の「初代皇帝」において(「前皇帝」の関係として)多く使用された実績のある用語であり、「天命」とは明らかに異なる意味として使用されていること、国書中の他の文言についても「唐」の「高祖」の使用例と合致しない語が多数に上ること、そのことから国書そのものの年代として「隋代」が想定されること、以上を考察します。

Ⅰ.「寶命」問題について
 古田氏はこの「遣隋使」問題において、この用語が書かれた国書が「隋」の「二代皇帝」である「煬帝」のからのものであるはずがないと論証されました。なぜならこの用語は「天命」と同じ意味であり、それをより「強調した」形のものとされたのです。確かに「辞書類」には「天からの命」という語義があることが書かれています。もし、この「寶命」が「天命」と同じとすれば、この用語は「革命」思想につながっているものであり、「天子」(皇帝)が天の意志を十分に臣下(人民)に伝えられず、その任に堪えないようなときは「革命」により、別の人間が「天子」(皇帝)として差し向けられる、という意味の用語として理解できます。そして、「煬帝」にはそのようないわば「言い訳」とも言える用語を使用する動機がないというのです。そして、この「寶命」という用語を使用する動機を持っているのは「唐」の高祖であるとされ、この国書記事は十年以上過去に移動させられているという論となったものです。
 しかし、これらは「天命」という用語と「寶命」という用語が同義であるという前提でした。しかし、実際の使用例をみてみると「寶命」には別の意義もあると思われるのです。
 「寶」の語について辞書には『「天子」に関するものを尊んで言う』という用法も確認できます。実際に「寶」のつく語の使用例を確認してみると、「天子」(皇帝)に関する例が非常に多く見られます。例えば、「寶輿」は神仏・天子などの乗物の意ですし、「寶業」は天子・皇帝の事業、治世を意味するものです。また「寶暦」は「寶算」と共に天子の年齢を指す場合もありますが、その天子が作成した(作成させた)「暦」そのものを指すという場合もあります。また「寶座」「寶祚」とは天子・皇帝の「座」や「位」を意味するものです。これら数々の「寶」のつく語は「至高の(最高の)」という意味があり、それが仏教に関する事であれば「仏陀」に関する事として使用され、政治的な世界では「皇帝」に関わるものとして各史書等に現れていると思われます。これらの「寶業」「寶歴」等の語は「煬帝」の「詔」など彼に関することにも使用例が多くあります。この事から「寶命」にも「(前)皇帝に関わるもの」という語義があったと考えるのは自然です。それを示すように「煬帝」と「唐」の「太宗」にも実際には使用例が(「史書」ではないものの)確認できます。
(「煬帝」の使用例)

「大業三年正月二十八日。菩薩戒弟子皇帝總持稽首和南十方。一切諸佛十方一切尊法十方一切賢聖 …水滴已微。乃濫觴於法海。弟子階?宿殖。『嗣膺寶命臨御區宇』。寧濟蒼生。而德化弗弘刑罰未止。…」 (『大正新脩大藏經/廣弘明集卷二十八/?福篇第八/序/隋煬帝行道度人天下敕』より)
(太宗の例)
「(癸巳)《貞観》七年。…十一月。詔曰。三乘結轍濟度為先。八正歸依慈悲為主。流智慧之海膏澤群生。剪煩惱之林津梁品物。任真體道理叶至仁。妙果勝因事符積善。『朕欽若金輪恭膺寶命』。至德之訓無遠不思。大聖之規無幽不察。…」 (『大正新脩大藏經//佛祖?代通載二十二卷/卷十一/太宗詔度僧尼建寺』より)

 そもそも「煬帝」と「太宗」は別にいた「皇太子」を廃した後に自分が「太子」となって即位しています。これを「異例」と言えば「異例」と言えるかも知れませんが、彼ら自身は前皇帝の息子(皇子)であり、別に一介の武将が成り上がったわけではありませんし、また「本来なれるはずがない」というような位置にいたわけではありません。つまり「皇太子」ではなかったものの、彼らにも「皇帝」の地位の継承能力と資格は充分備わっていたと考えられます。その意味では特に異例というわけではないでしょう。
 彼らが「寶命」という語を使用しているということは、「天命」と違って「寶命」という用語の使用は「初代」に限らないということを意味します。それは即座に古田氏がいうような、『書紀』に出てくる「隋皇帝」からの「国書」というものが「煬帝」からのものではないとは即断できなくなる性質のものと思われます。
 ところで、「中国」の歴代王朝の史書に「天命」と「寶命」の使用例を探すと圧倒的に「天命」が多いことに気がつきます。「寶命」はかなり希少な例と言えるでしょう。さらに「寶命」は「南北朝」以降に多く見られるようになりますが、それ以前には出現例がほぼありません。「天命」と「寶命」がもし同義であるとするともっと「寶命」の使用例が早期にしかも多量にあっても良いように思えます。さらに「寶命」は「煬帝」や「太宗」のように「初代」以外の皇帝にも確認できますが、「天命」の場合、明らかに「初代」以外の使用例がありません。(ただし後代になるとその峻別がされなくなるようであり、誰でも「天命」を使用するような雰囲気が出てきたようです)
 このような出現例をみてみると、「寶命」と「天命」はこの当時異なる意義があったものであり、「寶命」はその「寶」という語の持つ意味から考えて「前皇帝」との関係を特に強調したい場合に使用されたものではないでしょうか。
 「二代皇帝」は「初代」が開いた「王朝」を継承したわけですが、政権基盤がまだ「不安定」である場合が多く、その場合「初代」の持つ権威を自分の権威と重ねるという行為が必要となるというケースもあったものと思われます。「初代」の持つ大義名分を正統に継承しているというアピールが「二代政権」の正統性を証明するものとして特に必要であったものであり、そのため(「煬帝」や「太宗」のように)「寶命」が使用されるケースもあったものと思われます。
 また、これと同様の論理構造は「禅譲」を受けて「新王朝」を開いた場合においても発生したものと思われます。
 「新王朝」においても自らの政権基盤の安定のためには「旧勢力」である「前王朝」の「皇帝」からの権威の継承ということを明確にする必要があったと見られます。このような「寶命」という用語が使用されるケースは、「天」からの「命」ではないという点で「革命」とは異なるものの、「禅譲」を受けた「新王朝」の「初代皇帝」が使用する用語としてはよりふさわしいといえるものだったのではないでしょうか。それは国内外の「諸勢力」に対する「大義名分」としてより「説得的」であると言うところが重要なのではないかと推測されます。
 これに対し「天命」の例は「禅譲」という形式ではないことが明白な例ばかりです。
 たとえば(後代の例ですが)「北宋」が「金」に「華北」を奪われた後建国された「南宋」の皇帝に奉られた「詩文」に以下のようなものが見出せます。

「恭膺天命之曲,太蔟宮 我祖受命,恭膺于天。爰作玉寶,載祗載虔。申錫無疆,神聖有傳。昭茲興運,於萬斯年。」(『宋史/志第九十二/樂十四 樂章八/冊立皇后/嘉定十五年皇帝受「恭膺天命之寶」三首』より)

 「南宋」を建国した人物は「北宋」が滅亡した際の「皇帝」の弟であり、彼が「江南」の地に改めて「南宋」を建国したものですが、この場合明らかに「禅譲」ではないわけであり、その彼について「我祖」と書かれ、また「皇帝受恭膺天命」と書かれているのは、まさに「天」以外には彼を皇帝にすべしとした「権威」「権力」「王朝」がなかったことを示しますから、「受命」があったとするしかないわけです。
 彼の「皇帝即位」は当然のことながら、はなはだ「異例」のことであり、「北宋」が亡ぼされるというような状況がなかったら、彼が即位するというようなことにはならなかったはずですから、周囲からみて彼に対し「受命」があったと見るのはある意味当然でもあり、そのような人物に対しては「天命」が使用され、「寶命」は使用されていないのは重要です。
 以上のことから、「寶命」という用語の存在がこの「国書」が「初代皇帝」からのもの、特に「唐」の「高祖」からのものとする証拠とは断定できなくなったものです。

Ⅱ.国書中に使用されている文言について
 上に「寶命」という用語について特に考察したわけですが、この国書中に使用されている他の語群について史書に検索してみると「隋代」に多く見られるものであり、「唐」の高祖(李淵)の語とするにはかなり無理があることが判明します。
 『推古紀』に書かれた「裴世清」が持参したという「国書」を見てみると、「…朕欽承寶命 臨仰區宇。思弘徳化 覃被含靈。愛育之情 無隔遐邇。…」というように自らの政治的姿勢とでもいうべきものを表す言葉が並んでいる部分があります。これらは一見決まり文句であり、型どおりのものであるようにも見受けられますが、「隋」の「高祖」(楊堅)及び「煬帝」、さらに「唐」の「高祖」(李淵)の三者について、彼らが「詔」として出したものの中に使用例を渉猟してみると以下の通りとなり、個人ごとに使用頻度がかなり異なることがわかります。(当然ですが、この『推古紀』の国書は対象から除いています。)

 『欽承』:これは「煬帝」に一例あり、さらに『列伝』にも「煬帝」の書の内容として「二例」確認できます。「楊堅」、「李淵」とも見られません。
(以下「煬帝」の例)

「…六月辛巳,獵於連谷。丁亥,詔曰:…朕獲奉祖宗,『欽承』景業,永惟嚴配,思隆大典。…」(『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上/大業三年』より)

 『臨仰』:三者とも確認できません。他の皇帝においても全く使用例がなく、特殊用例と思われます。
 『區宇』:これは特に「楊堅」において多く見られます(九例)。これは「世界」を表わす語であり、「魏晋」以来久しぶりに中国「統一」を果たした意識が使用させるのではないかと思われます。さらに臣下からの「楊堅」に向けた上表などにも例が多数確認できます。他に「煬帝」に「二例」ありますが「李淵」については例が見られません。(ただし「太宗」が「父」である「李淵」に対して述べた中に一例出て来ます。)
(以下「楊堅」の代表的な例)「…十一月己酉,發使巡省風俗,因下詔曰:「朕君臨『區宇』,深思治術,欲使生人從化,以德代刑,求草?之善,旌閭里之行。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅 上/開皇三年』より)

 『思弘』:「楊堅」に二例、「煬帝」に一例はありますが「李淵」の例は確認できません。(これも「太宗」に一例有ります)(以下「楊堅」の例)
「六月…乙丑,詔曰:「儒學之道,訓教生人,識父子君臣之義,知尊卑長幼之序,升之於朝,任之以職,故能贊理時務,弘益風範。朕撫臨天下,『思弘』德教,延集學徒,崇建庠序,開進仕之路,佇賢雋之人。…」(『隋書/帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽元年』より)

 『徳化』:これも「楊堅」に二例、「煬帝」に一例ありますが、「李淵」の使用例はありません。
(楊堅の一例)「…初帝既受周禪,…仁壽元年冬至祠南郊,置昊天上帝及五方天帝位,並于壇上,如封禪禮。板曰:維仁壽元年,?次作?,嗣天子臣堅,敢昭告于昊天上帝。??運行,大明南至。臣蒙上天恩造,羣靈降福,撫臨率土,安養兆人。顧惟?薄,『德化』未暢,夙夜憂懼,不敢荒怠。…」(『隋書/志第一/禮儀一/南北郊』より)

 『覃被』:「煬帝」に一例ありますが、「楊堅」「李淵」とも用例がありません。
(以下「煬帝」の例)「(冬十月)乙酉,詔曰:「博陵昔為定州,地居衝要,先皇?試所基,王化斯遠,故以道冠?風,義高姚邑。朕巡撫氓庶,爰屆茲邦,瞻望郊廛,緬懷敬止,思所以宣播德澤, 『覃被』下人,崇紀顯號,式光令緒。…」(『隋書/帝紀第四/煬帝 楊廣 下/大業九年』より)

 『含靈』:「楊堅」に一例あり。「煬帝」「李淵」とも用例がありません。
(以下「楊堅」の例)
「王伽,河間章武人也。開皇末,為齊州行參軍,初無足稱。…上聞而驚異之,召見與語,稱善久之。於是悉召流人,并令攜負妻子?入,賜宴於殿庭而赦之。乃下詔曰:「凡在有生,『含靈』禀性,咸知好惡,並識是非。…」(『隋書/列傳 第三十八/循吏/王伽』より)

 『愛育』:「楊堅」に一例(高麗への書)、「李淵」にも一例(百済への書)あり。いずれも「夷蛮」の国に対する書の中にあることから、「大国」としての意識が言わせるものでしょう。
(楊堅の例)
「…開皇初,頻有使入朝。…十七年,上賜湯璽書曰:朕受天命,『愛育』率土,委王海隅,宣揚朝化,欲使圓首方足各遂其心。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/高麗』より)

 『無隔』:『煬帝紀』に二例ありますが、うち一例は「裴世矩」(裴矩)からの上表分の中に見えるものであり、「煬帝」の直接の「詔」としては一例です。「楊堅」「李淵」とも用例はありません。
「…其餘臣人歸朝奉順,咸加慰撫,各安生業,隨才任用,『無隔』夷夏。營壘所次,務在整肅,芻蕘有禁,秋毫勿犯,布以恩宥,?以禍福。…」(『隋書/帝紀第四/煬帝 楊廣 下/大業八年』より)

 『遐邇』:「楊堅」に「六例」確認できます。「煬帝」には似た意味の『遐遠』は一例あるもののそのものずばりはありません。他に「開皇十六年」に「有神雀降於含章闥,高祖召百官賜?,告以此瑞。」という事象があった際に「許善心」によって作られた「神雀頌」の中に「緜區浹宇,遐至邇安」という形で一例確認できます。さらに「薛道衡」による「上高祖文皇帝頌」の中に一例見られます。これらは「文帝」本人の言葉ではありませんが、いずれも「楊堅」を賞賛する言葉として使用されていることに注目すべきでしょう。それに対し「李淵」の使用例としては『全唐文』(註)にはいくつか存在するのが確認できるものの「史書」の中にはありません。
 以上の結果を表にするとこのようになります。(ただし「◎」は用例が複数見られるもの、「○」は一つ確認できるもの、「×」は用例がみられないことを示します)
文帝 煬帝 李淵
欽承 × ○ ×
臨仰 × × ×
區宇 ◎ ○ ×
思弘 ○ ○ ×
徳化 ○ ○ ×
覃被 × ○ ×
含靈 ○ × ×
愛育 ○ × ○
無隔 × ○ ×
遐邇 ◎ × ×
 上の結果から見てこの国書の用例と合致するものが最も少ないのは「李淵」つまり「唐」の「高祖」であることがわかります。この『推古紀』の国書が彼の出したものであるとすると、彼にとって非常に希な用語法がこの「倭国」への書だけに使用されたという事となると思われ、それは明らかに不自然といえるでしょう。また「隋帝」二人の例が多いことからも、これらの用例は「隋代」のものとして考える方が自然と思われることとなります。
(以下続く)

(註)
『全唐文』とは「清代」に編纂された「唐代」の文章集であり、「皇帝」の「詔勅」なども含まれているとされます。ただし後代編纂でもあり、若干根拠・出典が曖昧なものも含まれているようです。
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