日本国という国号に関する議論(西村氏の論とそれに言及した山田氏のブログ)を見まして、中村直勝という方の論文「一字姓と二字姓」(大手前女子大学論集 8号, 1974年)に興味あることが書かれていることを思い出しました。そこでは「平氏」「源氏」という一字姓は、それまでの二字姓より「格」が高いことを示し、そのような一字姓が出現したのは中国へのコンプレックスがなくなったためであり、それは「唐」の没落を契機としたものであって、その時点付近で中国人と同様「一字姓」にしたものというものです。この論はその趣旨として西村氏の論と共通しているように思えます。
西村氏は『宗主国として戦いに臨み敢無く敗北した倭国は、講和の条件の一つとして一字国名を返上し、唐に媚びたのである。』とされ、「倭国」から「日本国」へという国号変更が「唐」におもねったものという論旨のように受け取ることができそうですが、もちろんそのような見方もあるでしょうけれど、「唐」に屈服したからというより逆に「唐」(あるいは「隋」)に対する傾倒を止めたためということも考えられないでしょうか。その意味で「唐」と距離ができたらしいこともそれを裏付けるといえるかもしれません。「唐」に媚びたとすると「遣唐使」を頻繁に送るような外交も考えられそうですが、実際には「天武」以降確実に「唐」へ派遣された記録は「文武」の時代まで遅れます。このような流れは「唐」に対する「傾倒」の停止がその裏にあることを推測させます。
そもそも「倭」という「国名」は「自ら名乗った」と言うより「中国」側からの命名である可能性が強いでしょう。それは「倭国」が「受け入れていた」ということではなかったでしょうか。「倭」は「周代」以来「国名」というより(中国側から見た)「地域名」であったものであり、そのような歴史的背景を持つ名称であるために、これを「国名」とした後も改名することもなかった(そのようなことを「中国側」も「倭」の側も考えなかった)ということではなかったでしょうか。
しかし「七世紀」のどこかで「日本」という国号に変更したというわけですが、それがコンプレックスがなくなったからなのか、戦争による「敗北」という現実を契機に逆にコンプレックスが増大した結果なのかのはなかなか微妙ではないかと考えます。たとえば「日本」という国号が「則天武后」の命名によるという解釈も一部行われているようですが、それはコンプレックスが逆に増大したと考えたときには整合する話ですが、そもそもそれが事実かどうかは不明です。(「自称の追認」ということならあったかも知れません)。
「倭」から「日本」へと言う変更の中にあるものが何なのか、それを探るヒントは「朱鳥」という年号が「あかみとり」という「訓読み」であることではないでしょうか。
『新唐書』でも『旧唐書』でも「日本」という国号の変更は「持統」の時代とされています。(少なくとも「文武」以前です)ずっと後代の『歴代建元考』その他の資料でも同様に「持統」の時代に「日本」への国号変更があったとされます。ただし『三国史記』には「文武王十年十二月の記事として「十二月…倭國更號日本 自言近日所出以爲名…」とあり、これは一見「六七〇年」のことと考えそうですが、『新唐書』など見ると「六七〇年」付近には「持統」らしき「倭国王」(總持)の存在が書かれており、『三国史記』がその典拠とした史料群の中に『新唐書』等の先行する中国史料があることを考えると、単にその記事との整合性を考えただけなのかもしれず、信憑性はその意味で下がります。
『書紀』では「持統」の時代の年号としては「朱鳥」しかなく、このことは「国号変更」と「朱鳥改元」の間に何らかの関係があることを推定させます。
そもそも国号変更ということが行われた背景に「王権」の交替などを読むのは別に不自然ではなく、いかにもありうることでしょう。そう考えれば「朱鳥改元」と「飛鳥浄御原宮」への遷宮とが関連していると『書紀』にあるわけですから、国号変更と遷宮、改元が統一的におこなわれたらしいことが推定され、禅譲により新王朝が誕生したらしいことが推定できますが、もし「朱鳥」が「訓読み」ならば「日本」という国号も必ず「訓読み」となったはずです。このように「年号」など本来中国起源のものに対して「訓読み」をしていると言うことは「中国」に対するコンプレックスではなく、「対等意識」が言わせるものではないでしょうか。
中国のやり方や文化が最高最善ではないと考えたからこそ、中国流ではなく我が国独自の方法に切り替えたということであり、それは明らかに「唐」に対する「対抗意識」が言わせたものと思われるわけです。そう考えるともっとも対抗意識が強かったのは「唐使」として「高表仁」が来倭した時点付近ではなかったでしょうか。
それ以前に「裴世清」が来倭していたわけであり、この時点で「倭国王朝」は「隋」「唐」の儀礼については熟知していたはずであるのにも関わらず(『隋書』の「裴世清」を迎える記事内容から見て「隋」の「禮制」を承知していたと思われます)、「高表仁」という「唐皇帝」の代理者に対して「夷蛮」の王としての位置に自らを置くことを拒否したというわけですから、これは「唐」に対する対等意識以外の何者でもないと感じられます。
このようなことを考えると「唐」に対する対等意識が高くなった時期としては「七世紀初め」(第一四半期付近)が最も考えられます。
『釈日本紀』によれば、「日本」という国号は自ら名乗ったというより唐から「号」された(名づけられた)ものとされています。(実態としては自称を唐が承認したと言うことと理解できます)その自ら名乗ったというのがどの時点であったかというと、同じく『釈日本紀』には「隋の文帝の開皇年間」に「小野妹子」が遣隋使として派遣された際に「文帝」に国名変更を申し出たが、「許可されなかった」とあります。(これは「日出天子」自称と直接結びついていた事案であったために拒否されたと見られます)その後武徳年中(つまり高祖の治世年間)」になって派遣された遣唐使が「国名変更」を申し出、これは受理され、許可されたとされます。(これが「蝦夷」の使者を伴っていたという『仏祖統紀』に書かれた記録と対応するものでしょう)
さらに「或る書に曰く」として「筑紫の人隋代に彼の国に至る。このことを称している。」とあり、「このこと」とは「委奴国」という国号について「隋帝」に説明したということとも読めますが、当然そのような時期にそのようなことが説明されるはずがなく、明らかに「倭」から「日本」へ改めたという説明をしたはずであり、その際「倭」元々「委奴国」といったという説明をしたものが誤解されたものではないかと推測されます。
この記事は「日本国」への国号変更が「筑紫」の朝廷が行った(行おうとした)ものであり、それは「隋」の「開皇年間」のことであったことを意味していることとなります。それがあり得ないとか不自然であるとかいう感想や見解は『書紀』を盲信するがためのものですから、客観的にみれば「天子標榜」と並列して考えるべきことであり、その意味では蓋然性として決して低いものではないみられるものです。
またこの後になり(「六四八年」に)「新羅」を通じて「交渉」を再開したというわけですが、この通交再開にあたっては「高表仁」事件に対する「遺憾の意」を表明したであろう事は疑いありません。「唐使」は「唐皇帝」の代理であり、「唐使」に対する「無礼」は「唐皇帝」に対する「無礼」であり、それは「隋皇帝」に対する「天子標榜」と何ら変わらない不遜な態度であるわけですから、「謝罪」や「遺憾の意」の表明なくして通交が再開できるはずがないということになるでしょう。つまり「七世紀半ば」以降は「唐」に対して「対等意識」など持てる状況ではなかったと思われるわけです。
さらに「白村江の戦い」など「百済を救う役」の敗北以降、「勝者」と「敗者」(少なくともその片割れとでもいうべきものでしょう)とが明確になった時点以降、その勝者としての「唐」に対して「対抗意識」などなお持てるはずもなく、そのように考察すると「日本」国号変更を行った時期としては「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」の「次代」の(「太子」とされた)「利歌彌多仏利」の「倭国王」即位時点付近ではなかったかということとなるでしょう。
あるいは彼が亡くなった後の「倭国王」(このとき彼の皇后が「称制」したと思われる)の時点の可能性もあります。その場合「持統」の代という記録あるいは伝承は「利歌彌多仏利」の皇后についてのものが残ったものということも考えられるものです。
そして、そのような「対等意識」や「対抗意識」が芽生えた最大の理由あるいは契機は「裴世清」により「宣諭」されるという衝撃ではなかったでしょうか。
「隋皇帝」から半ば「敵」と目されるような外交が拙劣であったことは間違いなく、倭国内ではその責任を問う声が上がったとして不思議ではなくその中心的人物は退場させられたものと思われ、その後継としての人物は前任者の方針を改め、「隋」など中国王朝を「師」とするような政策や政治的方向ではなく、「対等意識」を前面に出したものとするよりなかったであろうと思われ、それが「年号」や「国号」を「訓読み」とするような行動に出る要因となったものと思われるわけです。そして「唐使」としての「高表仁」に対して「対等意識」が過剰に出た結果「高表仁」がその「皇帝」からの「朝命」を全うせずに帰国してしまうという更に別の事件になってしまったわけです。この事件は隋代の「宣諭」事件に匹敵する衝撃を「倭国」に与えたものであり、行きすぎた「対抗意識」が事件を引き起こしたことの責任を問う声が起きたものではなかったでしょうか。
その後「六四八年」まで国交を正常化する動きがなかったわけですが、それは「高表仁」とトラブルを起こした当の本人が「王」であり続けたためだからと思われ、この「六四八年」の方針転換は「王」の交替(死去によるか)など政権内部に変化があったことを意味するものと思われます。この変化が前王への批判を承けたものであることは間違いないでしょう。
これ以降の「倭国王」(日本国王)が「唐」との関係強化に努めた(努めようとした)ことは間違いないとみられますが、それはあくまでも「従属的立場」としてのものであり、決して「対等意識」からのものではなかったと思われるわけです。(六五九年の「伊吉博徳」の参加した「遣唐使」は「唐帝」に対し「天子」と尊称しており、それを如実に表しています)