古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『書紀』の年次移動の痕跡について(2)

2016年10月23日 | 古代史

 さらに『書紀』『続日本紀』の年次移動の痕跡について検討します。
 『旧唐書』では「日本国」からの遣唐使の記事として以下のことが書かれています。

「其大臣朝臣眞人來貢方物。朝臣眞人者、猶中國戸部尚書、冠進徳冠、其頂爲花、分而四敵、身服紫袍、以帛爲腰帯。」

 ここでは「粟田真人」とおぼしき人物は「進徳冠」をかぶっています。
 『続日本紀』によれば、「大宝元年」(七〇一年)の記事として「始停賜冠。易以位記。」というものがあり、これは「冠位」としての名称には「冠」は残るものの「実際」には「冠」はかぶらず、その代わりに「位記」(官位等を書いた紙)を「賜う」こととしたというものです。
 しかし、翌「七〇二年」に発遣された「遣唐使」である「粟田真人」は「進徳冠」をかぶっていたとされているわけです。
 ここに書かれた「進徳冠」は、「易経」に「子曰、君子進德脩業。忠信所以進德也」(易経乾下文言伝九三)とあるように「君子」が「徳を進める」ための「修業」の過程を表わす「冠」であり、「唐」では、「天子」に至る途中の「太子」の冠であったものです。
 この「冠」を「日本国」の使者がかぶってきたわけであり、当時の「日本国」の「冠」が「唐」の「礼」によっていたことを示しているものです。
 ところで、上に述べたように『続日本紀』では「大宝」と「建元」と共に「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。

『続日本紀』
「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。『始停賜冠。易以位記。語在年代暦。』」

 しかし、『書紀』を見ると「六八九年」という年次に筑紫に対して「給送位記」されており、その後「六九一年」には宮廷の人たちに「位記」を授けています。

「(持統)三年」(六八九年)九月庚辰朔己丑条」「遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。給送位記。且監新城。」

「(持統)五年(六九一年)二月壬寅朔条」「…是日。授宮人位記。」

 これらの記事は『続日本紀』の記事とは明らかに齟齬するものであり、しかも、『書紀』ではこの記事以前には「位記」を授けるような「冠位」改正等の記事が見あたらないこともあり、この「位記」がどのような経緯で施行されるようになったのか不明となっています。

 中国では元来「官爵」の授与は同時に授与される「印綬」によって証明していたものです。これは後に「文書」である「告身」に拠るようになります。その延長線上に「位記」が存在するものであり、「位記」は「隋・唐」においては日常的に使用されるようになっていたことを考えると、「大宝年間」まで「位記」が採用されていなかったという『続日本紀』の記事には疑いが発生することとなります。つまり「倭国」が「遣隋使」「遣唐使」を送って「隋・唐」の制度導入を図っていた時期になぜ「位記」が採用されていないのかが不明となるでしょう。その意味では『書紀』の記事にはリアリティがあるといえます。この時代には「位記」が「印綬」に代わって使用されていたとして不思議ではないと思われるからです。(すでにそれ以前に「冠」だけでは位階が区別できなくなっていたことと関係があるかもしれません。)

 このことについても年次移動を想定すると理解が容易かもしれません。つまり、『続日本紀』の「位記」制定記事についてはそれが「冠」をかぶることと関係しているとすると「髪型」変更記事と強い関連が考えられるものであり、(髪を結い上げるということは「冠」をかぶる前提と思われるため)同様に「五十七年」の遡上がある可能性が考えられると共に、「持統五年記事」については(新羅王の喪使に関する記事と同様)「四十六年」を措定するとこの二つは共に「六四四年」と「六四五年」というように連年の記事となり、きれいに整合します。また「持統三年記事」は「三十四年~四十年」程度の遡上を措定すると「六五四年」付近のこととなりますから時系列として他の記事との齟齬もありません。

コメント

『書紀』の年次移動の痕跡について

2016年10月23日 | 古代史

 『書紀』と『続日本紀』の記事移動に関するものとして「秦造綱手」に関するものがあります。
(以下に『書紀』の「秦造」記事を列挙します。)

①「(推古)十八年(六一〇年)丁酉条」「客等拜朝庭。於是。命『秦造河勝』土部連菟爲新羅導者。以間人連臨蓋。阿閇臣大篭爲任那導者。共引以自南門入之立于庭中。時大伴咋連。蘇我豐浦蝦兩臣。坂本糠臣。阿倍鳥子臣。共自位起之進伏于庭。於是。兩國客等各再拜以奏使旨。乃四大夫起進啓於大臣。時大臣自位起。立廳前而聽焉。既而賜祿諸客。各有差。」

②「(皇極)三年(六四四年)秋七月条」「東國不盡河邊人大生部多。勸祭虫於村里之人曰。此者常世神也。祭此神者。到富與壽。巫覡等遂詐託於神語曰。祭常世神者。貧人到富。老人還少。由是加勸捨民家財寶陳酒陳菜六畜於路側。而使呼曰。新富入來。都鄙之人取常世虫置於清座。歌舞求福。棄捨珍財。都無所益損費極甚。於是。葛野『秦造河勝』惡民所惑。打大生部多。其巫覡等恐休其勸祭。時人便作歌曰。禹都麻佐波。柯微騰母柯微騰。枳擧曳倶屡。騰擧預能柯微乎。宇智岐多麻須母。此虫者常生於橘樹或生於曼椒。曼椒。此云衰曾紀。其長四寸餘。其大如頭指許。其色緑而有黒點。其貌全似養蠶。」

③「大化元年(六四五年)九月丙寅朔戊辰条」「古人皇子。與蘇我田口臣川掘。物部朴井連椎子。吉備笠臣垂。倭漢文直麻呂。朴市『秦造田來津』謀反。或本云。古人大兄。此皇子入吉野山。故或云吉野太子。垂。此云之娜屡。」

④「斉明七年(六六一年)九月条」「皇太子御長津宮。以織冠授於百濟王子豐璋。復以多臣蒋敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔。小山下『秦造田來津』。率軍五千餘衛送於本郷。於是。豐璋入國之時。福信迎來。稽首奉國朝政。皆悉委焉。」

⑤「天武元年(六七二年)六月辛酉朔己丑条」「天皇往和■。命高市皇子號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日。大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之。謂一二漢直等曰。我詐稱高市皇子。率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家。自南門出之。先『秦造熊』令犢鼻。而乘馬馳之。」

⑥「天武九年(六八〇年)五月乙亥朔乙未(二十一日)条」「大錦下『秦造綱手』卒。由壬申年之功贈大錦上位。」

⑦「天武十二年(六八三年)九月乙酉朔丁未条」「倭直。栗隈首。水取造。矢田部造。藤原部造。刑部造。福草部造。凡河内直。川内漢直。物部首。山背直。葛城直。殿服部造。門部直。錦織造。縵造。鳥取造。來目舍人造。桧隈舍人造。大狛造。『秦造』。川瀬舍人造。倭馬飼造。川内馬飼造。黄文造。薦集造。勾筥作造。石上部造。財日奉造。泥部造。穴穗部造。白髮部造。忍海造。羽束造。文首。小泊瀬造。百濟造。語造。凡卅八氏。賜姓曰連。」

⑧「天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午条」「大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。『秦連』。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。」

⑨「朱鳥元年(六八六年)八月己巳朔辛巳条」「遣『秦忌寸石勝』奉幣於土左大神。是日。天皇太子。大津皇子。高市皇子。各加封四百戸。川嶋皇子。忍壁皇子。各加百戸。」

⑩「持統十年(六九六年)五月壬寅朔甲辰(三日)条」「詔大錦上『秦造綱手』。賜姓爲忌寸。」

 これらの記事を見てみると、最後⑩の『書紀』の「持統十年(六九六年)条」に記されている「秦造綱手」への「忌寸」賜姓記事が気になります。
 何が問題かというとこの「秦造綱手」は上でみるように「天武九年(六八〇年)条」にその死去の記事があり、その時点で「大錦下」から「大錦上」へ「昇進」されています。ですから、この『持統紀』の記事は「死後追賜」となるわけですが、「秦造」氏は「天武十二年」と「天武十四年」にそれぞれ「造」から「連」、「連」から「忌寸」というように「改姓」されており、ここで改めて「忌寸」を与えたとするとその理由が不明といえるものです。記事中にも何ら「理由」といえそうなものが書かれていません。
 彼が存命中には「造」であったから、死後改めて「忌寸」姓を与えたものと理解できなくはないですが、それが「死去」してから十六年後という時点で行なわれたという、その理由が全く不明と思われます。
 「忌寸」姓を与えるのであれば、「秦氏」を含む各氏に「改姓」を行ない「忌寸」姓を賜与した「天武十四年」という段階付近で行なうのが最も適切なタイミングであったはずです。そこからはるかに下った『持統紀』に入ってから「唐突」に行なわれる事となった事情が不明であり、理解に苦しむものです。
 
 しかし、この「秦造」氏の場合も『書紀』の記事移動を背景として考えると整合すると思われます。つまり彼が死去したという「天武九年」記事については「三十四~四十年程度」の遡上があると推察され、「実際」には「六四六年」付近の事と考えられるのに対して、「忌寸」を「賜」したという「持統十年」記事も前項で述べたように、「四十五~五十年」程度の遡上が考えられると思われますから、「六五〇年」付近の記事となるでしょう。(死後数年後に「忌寸」が追賜されたもの。)
 また「秦造」を含む「諸氏」への「忌寸姓」賜与記事についても三十四~四十年程度の遡上が想定されるわけですから、これは「六五〇年」付近の年次のこととなり、「秦造綱手」への「忌寸」姓賜与とほぼ同年次付近のこととなります。つまり、死去した時点で冠位が「大錦上」に格上げされた後(数年後)「諸氏」に「忌寸」姓が授与されてまもなく他の「秦氏」と同様「故人」となった「秦造綱手」についても「忌寸」姓が与えられたこととなったとみられるわけであり、改姓のタイミングとしては『持統紀』の記事そのままよりも数段合理的と考えられ、理解できるものです。
 このような理解が成立するとした場合やはり『書紀』には記事移動があると共に、『持統紀』の前半と後半でその移動年数が異なると見る立場に合理的な根拠があることとなるでしょう。

コメント

「田中朝臣法麻呂」について(2)

2016年10月23日 | 古代史

 既に「田中法麻呂」については七世紀半ばの「倭国王」の「喪使」として「新羅」に派遣された可能性について考察したわけですが、彼は派遣時点で「直廣肆」であったとすると、「山陵」造営時点は「直大肆」となっていますから、当然時期としてはその後ということとなるでしょう。
 ところで「田中法麻呂」は「越智山陵」の修造に関わったとされていますが、この「越智」が「伊豫」の「越智」であるという可能性も考えられるところであり、それは「田中法麻呂」が「伊豫国司」となっていることからも推察できるものですが、ここで「中央」から派遣されたメンバーの中に「田中法麻呂」が存在していることから考えると、「山陵」の修造後「伊豫国司」として現地に残ったものと考えることができるでしょう。(元々の出身地がこの「伊豫」であったという可能性もありえます)そしてその後「伊豫」に止まり「白銀」献上という貢献により「総領」となったというわけですが、すでに述べたように「金春秋」の官位の変遷からの推定として「田中法麻呂」が「喪使」として派遣されたのはまだ「金春秋」が「翳飡」(「伊餐」とも)の頃と推察されることとなっています。
 彼(金春秋)は「六〇三年」の生まれですが、両親とも「新羅王」の子供であり、若い頃から高い官職を得ていたものと推測されます。そう考えると、「巨勢稲持」が喪使として派遣されたのはかなり時代を遡上するものとしても不審ではなく、概数的に六四〇年代が想定できるでしょう。(六二二年の「阿毎多利思北孤」の死去時点ではまだ未成年となり、さすがに非現実的です)
 これに関しては『隋書俀国伝』によれば「利歌彌多仏利」は「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされていますから、「六二二年」とされる「阿毎多利思北孤」の死去以降(法隆寺釈迦三尊像光背銘による)「倭国王」であったとみるべきであり、彼の死去に際して派遣されたのが「巨勢稻持」であったと見られるわけです。その年次としては「六三六」に「九州年号」では「僧要」に改元されており、この年次に倭国王交代があったと見ることもできるでしょう。そう考えると「田中法麻呂」が喪使として派遣されたのはその王権を継承した人物に関わるものであり、「命長」改元年である「六四七年」が可能性が高いものと推量します。その意味でも「新羅」へ喪使として派遣された際の「直廣肆」が記事中最低なのも首肯できるものです。
 つまり中央官人として存在していた彼が「喪使」として派遣され、帰国後それにより位階が上がり「直大肆」となった後「越智山陵」の修造に関わったものと思われるわけですが、この「直大肆」という位は「国司」として平均的なものですから、「山陵」修造後「伊豫国司」として赴任したと見るべきでしょう。その後「白銀」献上の功績があり、それにより四国全体を総括する「伊豫総領」に昇進したと見ると全てが整合すると思われます。
 以上を踏まえて新たな時系列を想定すると以下のようになります。

①「(持統)元年(六八七年)→(六四八年付近か)春正月丙寅朔甲申条」「使『直廣肆』田中朝臣法麻呂。與追大貳守君苅田等。使於新羅赴天皇喪。」

②「(文武)三年(六九九年)→(六五四年付近か)冬十月辛丑条」「遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。『直大肆』田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。」

③「(持統)五年(六九一年)→(六五五年付近か)秋七月庚午朔壬申条是日条」「『伊豫國司』田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。銚一篭。」

④「(持統)三年(六八九年)→(六五六~七年付近か)春正月甲寅朔辛丑条」「詔『伊豫惣領』田中朝臣法麿等曰。讃吉國御城郡所獲白燕。宜放養焉。」

 これらから移動年数を推定すると、持統元年記事は「三十九年」、『続日本紀』記事については「四十五年」程度。また『持統五年』記事は『持統紀』の「新羅王」記事と同様「四十六年」の移動を措定できます。また「総領」記事は「白銀」献上による褒賞として位階の増進があったと見れば首肯できるものであり、「三十四年」前後の移動が考えられることとなります。
 つまり『持統紀』でも「六九〇年」付近を境に移動年数に大きな差があるらしいことが考えられ、それは『書紀』の成立事情(あるいは「潤色」の時期と方法)に複雑なものがあったことを示すものです。それを別の記事から見てみることとします。

「六九四年」に「刑部造」が「白山鷄」を捕らえて献上したという記事『書紀』にあります。

「(持統)八年(六九四年)六月癸丑朔庚申条」「河内國更荒郡獻白山鷄。賜更荒郡大領。小領。位人一級。并賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國。并賜物」

 ここでは「河内国」で「白山鷄」を捕らえた功績を受けた人物として「刑部造韓國」がいると書かれています。ところが、この「刑部氏」を含む「三十八氏」に対して「連」を賜ったという記事が『天武紀』にあります。

「(天武)十二年(六八三年)九月乙酉朔丁未条」「倭直。栗隈首。水取造。矢田部造。藤原部造。『刑部造』。福草部造。凡河内直。川内漢直。物部首。山背直。葛城直。殿服部造。門部直。錦織造。縵造。鳥取造。來目舍人造。桧隈舍人造。大狛造。秦造。川瀬舍人造。倭馬飼造。川内馬飼造。黄文造。薦集造。勾筥作造。石上部造。財日奉造。泥部造。穴穗部造。白髮部造。忍海造。羽束造。文首。小泊瀬造。百濟造。語造。凡卅八氏。賜姓曰連。」

 つまり、この「賜姓」時点以降「刑部造」は「刑部連」に改姓されたこととなるはずですが、上の「白山鷄」献上記事はそれとは矛盾するものです。彼は既に「連」姓を賜っているはずですが、相変わらず「造」姓であるように書かれています。
 この「矛盾」についても従来余り気にされていないようですが、これも記事移動の結果と考えることができるものであり、「連」への改姓が書かれた「六八三年記事」は「三十四年遡上」の対象記事であるとすると「六四九年」へ移動することとなりますから、「刑部造」という人物の存在が記される「六九四年記事」はこの年次よりも遡上する必要があることとなります。そうすると「最低」でも「四十五年」遡上する必要があることとなり「四十六年」程度の遡上という上の推定と整合する事となります。

コメント