古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「孝徳」と「文武」

2016年10月16日 | 古代史

 「孝徳」と「文武」の共通性について検討しているわけですが、すでに挙げた点以外にも以下の部分で似ている思われます。

 彼等はそれまでの政治を「改革」したわけすが、そのパートナーとして選んだのは共に「藤原氏」でした。
 「孝徳」は「鎌足」をそのパートナーとしましたが、「文武」はその息子である「不比等」をパートナーとしました。
 『孝徳紀』には「軽皇子」が彼の夫人(妃)に「鎌足」に「奉仕」させる記事があり、「鎌足」はその恩を感じたという記事があります。

「(皇極)三年(六四四年)春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高鋪新蓐。靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇。而語舎人曰。殊奉恩澤。過前所望。誰能不使王天下耶。謂宛舎人爲駈使也。舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。」

 このように書かれた後「軽皇子」は「天皇」になっているというわけです。そして「孝徳」として即位すると同時に「鎌足」(鎌子)に「内臣」と「大錦冠」を授け、「宰相」として諸官の上にある、としたのです。

「…以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。…」(孝徳即位前紀)

 また、『文武紀』にも「孝徳」が「鎌足」の忠誠ぶりを「武内宿禰」に比したことをあげ、その上で「不比等」に「食封を賜った」ことが書かれています。

「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。…」

 ここで改めて「鎌足」を顕彰する「詔」を出す意味、そして「不比等」に「褒賞」を与える意味がかなり不明です。しかもここでは「鎌足」について「難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。」となっており、一般に考える「天智」との関係ではなく「難波大宮」に仕えたことについて顕彰しています。
 『続日本紀』の「功田下賜記事」には、「乙巳の変」においての「鎌足」の功績が抜群である(大功とされている)として「褒賞」として、与えられた「功田」について「世世不絶」として「永年」にわたる子孫への継承が許されていることが明らかとなっています。

「天平寳字元年(七五六年)…十二月…壬子。太政官奏曰。旌功。錫命。聖典攸重。襃善行封。明王所務。我天下也。乙巳以來。人人立功。各得封賞。但大上中下雖載令條。功田記文或落其品。今故比校昔今。議定其品。大織藤原内大臣乙巳年功田一百町。大功世世不絶。…」

 しかし「藤原姓」を与えられるなどのことは「天智朝」において行われているものであり、それらと「難波朝」における「鎌足」の功績というのがしっくりきません。「乙巳の変」においても「鎌足」の出番らしいものは『書紀』には全く書かれておらず、事前の計画段階でも登場しないのです。にも関わらず「大功」であるとされます。
 このように「難波朝」での功績らしいものは特に目立たないのですが、この「文武」の詔によれば明らかに「鎌足」は「難波朝」における功績を激賞されており、「鎌足」の活躍というものは「天智朝」ではなく実際には「難波朝」においてのものであったということとなりますが、その意味では「孝徳」と「鎌足」の関係が深かったことを示唆するものであり、それは「文武」と「不比等」の関係に重なるものであることをこの「詔」そのものが示しています。
 『書紀』や『続日本紀』記事では「中大兄」と「鎌足」というのが「絶妙なコンビ」として描かれているものの、それは実は単なる「印象操作」によるものであることとなるでしょう。(『書紀』の潤色によって鎌足の功績がマスクされその代わり「天智」(中大兄)の功績が大であるように書き換えられていると思われるのです。)

 以上、この両者には「類似点があるわけであり、これ「偶然」などではなく「造られた」ものである可能性が強いと思われます。そして、これが「作為」であったとすると、当然それは『書紀』編纂時点であるわけですから、「八世紀」に入ってから行われたものと考えられます。さらに「持統紀付近」で『書紀』が一部作られていたとすると「文武」に似せて「孝徳」が書かれたはずがないこととなるでしょう。そのような場合『続日本紀』よりも『書紀』が遅れて書かれたこととなる可能性さえ出てきてしまいます。つまりこれは「孝徳」に似せて「文武」を作り上げた結果であると考えられるわけです。

(もっと続く)

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「孝徳」と「倭国王」(3)

2016年10月16日 | 古代史

 既に触れたように「新羅王」と「金春秋」に関する記事から本来「孝徳紀」付近に置かれるべき記事が「持統紀」および『続日本紀』の「文武紀」に移動されていると見られることとなりました。
 その関連でいうとそもそも「孝徳」と「文武」は「似ている」といえます。
 まず、共に「女帝」からの「譲位」であり、且つその死去後再度「女帝」が皇位に即いています。
 「孝徳天皇」は「皇極天皇」からの譲位であり、「文武天皇」は「持統天皇」からの譲位です。また、死後「斉明天皇」と「元正天皇」(共に女帝)が跡を継いでいます。
 さらに両者とも即位した年の内に「改元」あるいは「王代年」の開始となっています。彼ら以外の天皇は『書紀』で見る限り即位は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており、異なっています。
 つまり「孝徳」の場合で見ると、「皇極」から譲位を受けたのは「皇極四年」の「六月」(十四日)ですが、「改元」は同じ月の「乙卯」(十九日)に行われています。

「天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌。(十四)天豐財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄。而詔曰。云々。中大兄退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰。古人大兄。殿下之兄也。輕皇子。殿下之舅也。方今古人大兄在。而殿下陟天皇位。便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望。不亦可乎。於是。中大兄深嘉厥議。密以奏聞。天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位。策曰。咨。爾輕皇子。云々。輕皇子再三固辭。轉譲於古人大兄更名古人大市皇子。曰。大兄命。是昔天皇所生。而又年長。以斯二理可居天位。於是。古人大兄避座逡巡拱手辭曰。奉順天皇聖旨。何勞推譲於臣。臣願出家入于吉野。勤修佛道奉祐天皇。辭訖。解所佩刀投擲於地。亦命帳内皆令解刀。即自詣於法興寺佛殿與塔間。剔除髯髮。披著袈裟。由是。輕皇子不得固辭升壇即祚。…
乙卯。(十九)…改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年。」

 これに対し「文武」は「持統」から「譲位」されたのが「持統十一年」の「八月」であり、その年から「文武」としての年数が数え始められています。

「(持統)十一年(六九七年)…八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(書紀)
「(文武)元年(六九七年)八月甲子朔。受禪即位。」(続日本紀)

 『書紀』では「孝徳」以外の天皇の即位(及び改元)は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており(「踰年改元」あるいは「越年改元」と称する)、際だった違いがあります。また『続日本紀』では「文武」以外の天皇の場合を見ると、(例えば「慶雲」の場合など)年度途中に瑞祥があり「改元」したとしていますが、紀年の数え方としてはその年の頭から始められています。(これを「立年改元」という)「文武」がその例の最初となっています。
 本来このような「立年改元」は「前王権」「前王朝」などの権威を速やかに棄却する必要がある場合に行われるものであり、この「孝徳」と「文武」の場合が「禅譲」とされていることと明らかに反します。「禅譲」の場合は一般に前王権や前王権の権威を否定するようなことはしないのが普通です。そうでなければ、その王権から継承したはずの自らの権威さえも否定してしまいかねないからです。このことは「孝徳」と「文武」の王権が本当は「禅譲」によったものではなく、新たに打ち立てた権力であったことを示していると思われますが、それは「大化」と「大宝」という「元号」が新しく立てられた理由ともなっています。
 『書紀』上では「大化」は改元とはされるものの『書紀』の中では「初めて」の元号として現われます。また「大宝」は明らかに「建元」されたとされていますから、これも「初めて」という性格があります。このような「新規性」という性格が双方の王権に共通しているといえるものです。
 
 また両者とも「明神」「現神」という「神」を前面に出した称号を使用して「詔」を出しています。
 「孝徳天皇」が出したとされる詔には「明神」という称号が使用されています。

「大化元年秋七月丁卯朔 丙子。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟調使兼領任調那使。進任那調。唯百濟大使佐平縁福遇病。留津館而不入於京。巨勢徳大臣。詔於高麗使曰。『明神』御宇日本天皇詔旨。」
「大化二年二月甲午朔戊申『明神』御宇日本倭根子天皇…。」

それに対し「文武天皇」の詔には「現神」という称号が使用されています。

「文武元年(六九七)八月庚辰十七 庚辰。詔曰。『現御神』止大八嶋國所知天皇(後略)」

 これらの称号はほぼ同じ意味であり、「自ら」を「神」の位置に置くものと思われます。つまり、「天帝」とみなされる「天照大神」からの「直系」という意識が言わせる用語と考えられ、彼らに共通しているのは、自らを「皇祖」「瓊瓊杵尊」と同格な存在と規定していることではないかと考えられるものです。これも上の「新規性」につながるものといえるでしょう。自らを「神」になぞらえる「逼迫性」があったと言う事の現れともいえます。

 さらに重要な共通点として共に「皇子」時点の名称は「軽」でした。
 「孝徳」は即位前「軽」皇子でしたが「文武」も即位前「軽」(可瑠)皇子でした。「名前」が同じなのです。(ただし、「文武」については『書紀』にはその皇子としての名前は出てきません)同様な「軽」が付く名前としては「木梨軽皇子」がおりますが、彼には「木梨」という地域を表すと思われる名前がつけられており、特定性がありますが、「孝徳」と「文武」にはそれがなく、一見区別がつきません。
 また、共に予定された「皇太子」ではなく、また予定された「即位」でもありませんでした。
 「孝徳天皇」はそもそも皇太子ではなく、「皇極」譲位の際に「中大兄」「古人大兄」両者から譲られて、「予定外」の天皇即位となったとされます。これに対し「文武」は「草壁」の子供ですが、いつ「皇太子」となったのか明確ではありません。『書紀』にはそれについての記載がないのです。
 父である「草壁」は「皇太子」でしたが、他に「高市」「川嶋」「舎人」など多数いる中で、その「天皇」にもなっていない「草壁」の子供が「自動的に」皇太子になるようなシステムはこの時点では存在していませんでした。(『懐風藻』に書かれた「日嗣の審議」に拠ったという考えもあるようですが、そこには人物を特定する表記がなく、そこに書かれた皇子が「軽」皇子であるとするには別途検証が必要です)

(さらにさらに続く)

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「孝徳」と「倭国王」(2)

2016年10月16日 | 古代史

 そもそも「孝徳」がこの当時の「倭国王」であったかが「微妙」、というより「疑問」といえるのはすでに数々指摘されていることでもあります。古賀氏がすでに指摘していることですが(『古賀達也の洛中洛外日記』第549話(2013/04/11)「孝徳紀」の記事では「賀正禮」について「賀を受ける」のではなく「賀正礼を観る」とされており、主客の立場が通念とは異なっている事が指摘されています。)

「(六五〇年)白雉元年春正月辛丑朔。車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦。是日車駕還宮。」(「孝徳紀」より)

 古賀氏もいうように孝徳紀のこの記事は、「孝徳がナンバーワンではなかったことを正直に表現していた」ものです。
 後の養老律令(儀制令)では遠方の地域王者については「元日」には「庁」(政庁建物)に向かって遙拝することを求めていますが、近隣の有力者であれば当然参列したことでしょう。この時の「孝徳」も同様であったと思われ、至近に「孝徳」の宮殿があったのではないでしょうか。というよりはそのために至近に「離宮」を作ったのでしょう。それが「子代仮宮」であったと思われ、その前身の「子代屯倉」と共に彼等の勢力範囲であったことが窺えます。この推測を裏付けるのが「東国国司詔」が出されたときの「孝徳」の所在です。
 『書紀』を見ると「鐘櫃の詔」を出した際には「離宮」にいたこととなっています。(「詔」の一週間後に「離宮から戻った」とされる)

(六四六年)大化二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰 …。
是月。天皇御子代離宮。遣使者。詔郡國修營兵庫 蝦夷親附。或本云。壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。
二月甲午朔戊申。天皇幸宮東門。使蘇我右大臣詔曰。明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等。臣連。國造。伴造及諸百姓。朕聞。明哲之御民者。懸鍾於門而觀百姓之憂。作屋於衢而聽路行之謗。雖芻蕘之説親問爲師。…。
乙卯。天皇還自子代離宮。

 しかしこの「鐘櫃の詔」は「東国国司詔」などと並び「改新政策」の重要な要素であり、このような重大なものを「離宮」(子代宮)から行ったとは考えにくいと同時にそのような離宮に「東門」など「本宮」と同様な構造があったというのも同様に考えにくいものです。
 ここで「離宮」を作っているのは「改新の詔」とそれに引き続く一連の詔を「承る」ために宮殿の近くにいる必要があったということではないでしょうか。
 この時年頭から「東国国司詔」や「薄葬令」その他重要な「詔」が一年以上にわたった出され続けていますから、遠方からそのたびに「上京」するのではその移動に要する費用と人手などが大きな負担であったと思われます。その場合「離宮」という拠点を「京」の至近に作った方が便利と考えたとして不思議ではありません。その意味でもこの時の「倭国王」の本拠(詔の中では「京」「朝」と表現されています)が「難波」にあったと見るのは自然です。

 またその「鐘櫃の詔」の後半では「遷都未久」と表現していますが、「離宮」は仮宮でしかありませんからそこに天皇が所在していたとしても「遷都」という表現は当たらないでしょう。このことは「遷都」が「倭国王権」にとってのものであり、「難波」が「京」となった時期からそれほど時間が経過していないことが推定できるものです。そのことは地方から上京してきた人達を目的外の労働に使役していたことが書かれており、「京」に関する土木工事がまだかなり途中であるらしいことも窺えます。
(以下「鐘櫃の詔」の後半部分)

「二月甲午朔戊申。…所以懸鍾設匱。拜收表人。使憂諌人納表于匱。詔收表人毎旦奏請。朕得奏請。仍又示羣卿。便使勘當。庶無留滯。如群卿等或懈怠不懃。或阿黨比周。朕復不肯聽諌。憂訴之人。當可撞鍾。詔已如此。既而有民明直心、懷國土之風。切諌陳疏納於設匱。故今顯示集在黎民。其表稱。縁奉國政到於京民。官官留使於雜役云々。朕猶以之傷惻。民豈復思至此。然遷都未久。還似于賓。由是不得不使而強役之。毎念於斯。未甞安寢。…。」

 これらのことから「田中法麻呂」がその「喪」を伝えたのは「孝徳」ではなく別人であり、「難波宮」にその居を構えていた「倭国王」であったと見られることとなるわけです。

(まだまだ続く) 

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「孝徳」と「倭国王」(1)

2016年10月16日 | 古代史

 以上「金春秋」に関するものと新羅王の死去に関する記事だけを見ても、いずれも相当程度年次移動の可能性が高いことが推測できることとなっています。その推論の中で「田中法麻呂」の派遣を「孝徳」の死去に関わるものという理解をしておきましたが、それは微妙です。なぜならこの「勅」の中で触れられている「田中法麻呂」が喪使として「新羅」に派遣されたのは『書紀』では「六八七年」のこととされています。これも「三十四年遡上」とすると「六五三年」となりますが、「孝徳」の死去は『書紀』では「六五四年の十月」の死去とされています。

「(六五四年)白雉五年…
冬十月癸卯朔。皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮。
壬子。天皇崩于正寢。仍起殯於南庭。以小山上百舌鳥土師連土徳主殯宮之事。」(「孝徳紀」より)

 つまり双方の年次が合わないこととなります。どちらが正しいかと考えるとヒントとなるものが『新唐書日本伝』です。そこには「孝徳」に関する事として「白雉改元」即位とあり、その後「未幾孝徳死」という文章があることです。

 『新唐書日本伝』には「歴代」の「天皇名」が列挙されており、それを見ると「皇極」と「孝徳」の間に唐側が保有していたと思われる資料により対照された記事が「注」として書かれ、その後「未幾孝徳死」という言葉につながります。しかも「孝徳」は「永徽初」(六五〇年から二-三年の範囲と思われます)に「白雉改元」と「即位」が同時であるように書かれ、その直後にその「未幾」記事が置かれていますから、この時の「孝徳」は「六五二年」付近で死去したことを推定させます。
 「初め」が「元年」を指すかは何ともいえませんが、(例を渉猟しましたが明確ではありませんでした)この「未幾」(幾ばくもなく)という言葉は、その『新唐書』内の多数の使用例からの帰結として、「一年以内数ヶ月」の時間的範囲を示すものであることが明らかですから、そのことからも「改元」直後に死去したことが窺えるものであり、「六五二年」という「九州年号白雉」の改元直後ではなかったかという推定は不合理ではありません。

 さらに「六五三年」には「新倭国王」(『新唐書日本伝』によれば「天豊財」とされています)が即位していたこととなりますが、そのことと関連しているのが、その「六五三年」(白雉四年)に遣唐使が送られていることです。
 それ以前に起きた「高表仁」とのトラブル以来「遣唐使」は途絶えていましたが、『旧唐書』にあるように「六四八年」に「表」を「新羅」に託して(「金春秋」に依頼したと推定されます)「高表仁」とのトラブルについて「謝罪」し、その結果「起居」を通じるようになったとされています。これは「倭国王」の死去に伴う方針変更であったと思われますが、その新「倭国王」が即位後まもなく死去してしまったこととなるでしょう。そしてそれを継承した「新倭国王」により「遣唐使」の派遣という形で本格的な「唐」との正式国交を目指すこととなったものと推量します。

 これらの推定は移動年数として「三十四年」が正しいと考えられること、及び「孝徳」は「倭国王」ではないという帰結を導きます。(さらに続く)

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「新羅王」の死去記事に対する疑問(3)

2016年10月16日 | 古代史

 『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」記事に「移動」があるとした場合、先の三名の「新羅王」が誰が該当するのかを考えてみると、「善徳女王」の死去に関する事情が注目されます。

 「善徳女王」の死去は死去した年次の『三国史記』の記事内容を見ても、当時の「新羅」国内の政治情勢の変化と何らかの関係がありそうであり、明らかに「急死」であったと思われます。
 推測によれば「善徳女王」は「高句麗」と「百済」が連係して(「麗済同盟」)「新羅」に脅威を与えるという可能性を考え、それから逃れるために「唐」に接近していったものと見られます。しかし、「唐」からは「援助」が欲しければ「唐」から「男王」を迎えるようにという「内政干渉」があり、これを受け入れなかったことで「唐」に支援を仰ぐべきという内部勢力との間に緊張関係ができていたと考えられます。このことから「女王」の地位を脅かすような国内勢力に対抗する意味でも、「倭国」への関係を持続させるために「調使」が送られていたものであり、そのような中で「反乱」が起き、その対応の中で(原因不明ではありますが)死去したものと見られるわけです。
 「善徳女王」の死は「春正月」とされていますが、もし『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」であるとすると「喪使」が到着したのが「二月」というわけですから、「倭国」への「喪使」は非常に速やかに派遣されたらしいことが推測されることとなります。注目されるのはこの時ほぼ同時に「唐」へも「喪使」を派遣していたらしいことが『三国史記』から読み取れることです。
 『三国史記』によればこの時「唐」から「使者」が「新羅」を訪れ「前王」に対し「光祿大夫」を追贈すると共に「新王」の「真徳女王」を「新羅国王」と認め、「楽浪郡王」に封じています。

「二月 拜伊閼川爲上大等 大阿守勝爲牛頭州軍主 唐太宗遣使持節 追贈前王爲光祿大夫 仍冊命王爲柱國封樂浪郡王」(『三国史記』)

 この記事でも「唐」からの承認は「二月」つまり亡くなった翌月とされています。このような早さで「国王」の交代を「唐」が認めたのは当然「新羅」から「喪使」が派遣されたことに対する反応と考えられ、そうであれば「倭国」と「唐」へほぼ同時に(二月)に使者が派遣されたこととなって、当時の「新羅王権」として整合する行動と言えるでしょう。

 また、この『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」を指すとした場合、『文武紀』の「新羅王」はその次代の「真徳女王」を意味すると考えざるを得なくなります。
 この「真徳女王」の時代に「新羅」は「唐」への依存と傾斜を深め、「高官」である「金春秋」親子を「唐」へ派遣し、「太宗」と懇意になるほどの関係となります。

「(貞観)二十一年,善德卒,贈光祿大夫,餘官封並如故。因立其妹真德為王,加授柱國,封樂浪郡王。二十二年,真德遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。詔授春秋為特進,文王為左武衛將軍。春秋請詣國學觀釋奠及講論,太宗因賜以所制溫湯及晉祠碑并新撰晉書。將歸國,令三品以上宴餞之,優禮甚稱。」(『舊唐書/列傳第一百四十九上/東夷/新羅國』)

 この『旧唐書』の記事にあるように「真徳女王」の死に際して「金春秋」は「唐」へは速やかに「喪使」を派遣し、「唐」もそれに応じ「金春秋」を「新新羅王」として速やかに認めているように見えますが、それに比べると「倭国」へは派遣が遅れたと見られ、それは『文武紀』の「国書」の内容として書かれた文章による「今年」「昨年」という表現と、「喪使」の「到着」が新年明けた後となったため「前年」以前のこととなって「表現」が齟齬することとなったことに現われていると思われます。このように「喪使」の到着時期を見ても「金春秋」政権の「対唐重視」という政策と整合しているようです。
 『書紀』によれば「善徳女王」の時代には「新羅」との交流は活発であり、頻繁な「遣新羅使」「新羅使」の往還が見られます。しかしそこには「善徳女王」の死去記事がありません。この時代の「新羅」との友好関係を考えると、「国王」の死去を知らせる「喪使」が派遣されないというのは、明らかに不審です。
 すでにみたように『天武紀』の記事中には「孝徳」とおぼしき人物の死に際して「新羅」へ「喪使」(田中法麻呂)を派遣したとみられる内容が書かれています。そのような関係が構築されていたとすると、「新羅」からも「喪使」が送られてきたとして不自然ではありません。それを考えると、本来『孝徳紀』には「死去」記事及び「喪使」記事が存在していたことが想定できます。これが『持統紀』に移動して書かれてあると考える事ができるのではないでしょうか。そう考えた場合本来の年次から「四十六年」の年次差で移動されていることとなります。
 さらに「真徳女王」についても「善徳女王」の場合と同様、『孝徳紀』には「新羅」からの使者記事そのものは見られるものの、「新羅王」の「死去」を知らせるものはありません。これもやはり当時の「倭国」と「新羅」の関係から考えて不審であり、「記事」が移動されている「徴証」と言えるでしょう。そう考えると、(二)の記事については本来の年次から「四十八年」という年次を隔てて移動されていることが想定されます。つまり、両記事とも実際の年次と五十年近い年数の差をもって書かれていると考えられる訳です。ただし、その年数に「二年」の差があることとなり『書紀』と『続日本紀』が「連続」し、「接して」いることを考えると一見「不審」と見えますが、これについては、この両「新羅王」記事の場合、「神文王」と「孝昭王」の死去した年次に「合わせなければならない」といういわば「差し迫った」事情があったためと理解することが出来るでしょう。
 つまり、「記事移動」という「操作」あるいは「粉飾」を行うとするとその証拠を残さないようにするというのが強く求められるわけであり、「新羅王」に関する記事のような「外国」に関する記事の場合、「海外」にも史料が存在している可能性があるわけですから、それらと齟齬しないように記事を造る必要があることとなるでしょう。つまり、『書紀』や『続日本紀』編纂の際に、それらの外国史料と比較検討されることを想定して「無理に」合わせている、あるいは「合わせざるを得ない」という事情があったものと見ることが出来ます。そのため移動年数に差があるものと考えられるわけですが、逆に言うとこの「移動年数」がいずれも「五十年」に近いというのは象徴的であり、正木氏などにより『天武紀』『持統紀』の記事で「五十年移動」の可能性があることが指摘されていることと深く関係していると思われます。ただし、「五十年」の移動が過去から未来へのものだったのかその逆なのかは深く検討を要することと思われます。

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