古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「田中朝臣法麻呂」について(1)

2016年10月22日 | 古代史

 すでにみたように『書紀』で「新羅」への倭国王の「喪」を知らせる使者として「田中朝臣法麻呂」が現れていますが、彼は「伊予」に関係していた人物のようであり、「国司」や「惣領」と記された記事があります。
(以下「田中法麻呂」関係記事、また年次は通念上のもの)
 
「(持統)元年(六八七年)春正月丙寅朔甲申条」「使『直廣肆』田中朝臣法麻呂。與追大貳守君苅田等。使於新羅赴天皇喪。」

「(持統)三年(六八九年)春正月甲寅朔辛丑条」「詔『伊豫惣領』田中朝臣法麿等曰。讃吉國御城郡所獲白燕。宜放養焉。」

「(持統)五年(六九一年)秋七月庚午朔壬申条是日条」「『伊豫國司』田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。■一篭。」

「(文武)三年(六九九年)冬十月辛丑条」「遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。『直大肆』田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。」

 これで見ると「田中法麻呂」は「六八九年」に「惣領」として「讃岐国」で捕獲された「白燕」を献上して、その「二年後」に今度は「国司」として「宇和郡」から「白銀」を献上しています。
 「白燕」というような「瑞兆」を発見し献上などした場合通常は何らかの褒賞が与えられるものであり、位階の増進などがあっても不思議ではないにも関わらず、その二年後に「国司」であるとすると、逆に「格」が下がっているように思われます。
 通常「国司」は「令制国」一国について統治・統括するものではあっても、「複数」の令制国を見る(統治する)という権能は有していなかったと見られるのに対して「惣領」(総領)は「隋」の「総管」を模した職掌と推察され、「複数の令制国」を包括する領域を統括していたものと考えられています。
 「惣領」記事では「讃岐国」で捕獲された「白燕」について「詔」が出され、「宜放養焉」つまり「放し飼い」にするようにとされており、それについての管理者として「名前」が出されている訳ですが、これは明らかに「惣領」という職掌が、一国を預かるのではなく「複数の令制国」をその管理下に置いていた考えられることを示すものです。
 たとえば『常陸国風土記』の「高向大夫」と「中臣大夫」の場合は「我姫」全体(八国)を統括していたと見られますが、この「田中朝臣法麻呂」の場合も「讃吉國」(讃岐)を含む「四国全体」を統括していたと見られます。このことから、「国司」と「惣領」は異なる職掌、異なる権能であったと推量され、明らかに「総領」は「国司」の上位職として存在していたように考えられます。
 
 また『常陸国風土記』では「高向大夫」「中臣大夫」と称されているように「惣領」は「大夫」と称されているわけであり、これは「五位以上」を指す呼称ですが、『続日本紀』の「惣領」任命記事(以下のもの)では「直廣参」のレベルの官位を持つものが任命されています。これは後の官位制では確かに「正五位下」に相当しています。

「(文武)四年(七〇〇年)冬十月同月己未条」「以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。」

 この「惣領記事」の中の「周防」では「直廣參」の冠位を持った人間が「総領」とされています。「周防」は延喜式では「上国」に相当しますが、「伊予」も同格の「上国」とされています。しかし、「田中法麻呂」の官位の変遷をみると「惣領」任命後の記事において「直大肆」となっており、これでは格が下となってしまいます。
 この「直大肆」という官位は「国司」(国守)としては平均的であり、それは「養老令」の「官位条」を見ても「上国守」には「従五位下」の官位が相当とされている事と整合します。(「従五位下」は「直広肆」に相当しますがその一階上の「直大肆」としても『書紀』の記事とは矛盾しないと思われます。)
 つまり「田中朝臣法麻呂」の場合、これを「兼任」などと考えることは出来ず、この「国司」と「惣領」の位階の違いには何らかの原因があるということとなるでしょう。

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