古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「百済を救う役」と筑紫王権(二) ー 高麗への援軍と「薩夜麻」の捕囚

2024年11月21日 | 古代史
 確かに「倭国」が「高麗」に援軍を送っていたことは『書紀』からも明らかです。

(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。

是歳。播磨國司岸田臣麿等獻寶劔言。於狹夜郡人禾田穴内獲焉。又『日本救高麗軍將等』。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。

 ここには「日本救高麗軍將」と書かれており、「高麗」に援軍を派遣していることは明らかです。「大系」の注でも「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが、下文元年・二年の関係記事からも確かであろう」としており、高句麗へも軍を派遣したらしいことを推定しています。 
 以上と「大伴部博麻」への持統の詔により「薩夜麻」達が「高麗」支援のため向かったところで唐軍と戦い捕囚となったことが窺えますが、それは『書紀』に明記されておらず、また書かれている「対新羅」や「百済救援」とは異なる戦略を「薩夜麻」達がとっていることが窺えることとなります。このことから「薩夜麻」達は「斉明」とは異なる指揮系統にあり、独自に戦っていたと思われます。さらに言えば「薩夜麻」達の指示により「斉明」たちが動いているということではなかったでしょうか。なぜなら「斉明」達は「筑紫」に来ても「大宰府」に入っていません。より後方の「朝倉」に陣取っています。ここには「宮」も何なかったものであり「朝倉神社」の神木を切って建物を作るという、いわば「暴挙」を行ったわけですが、これは「斉明」たちが「応援部隊」であることを意味していると思われ、また「朝倉神社」に対する「敬意」のかけらもないことから「朝倉」引いては「筑紫」に対するその土地の宗教的環境にも全く無知であったことが窺え、あくまでもは自分たちは「応援部隊」、主たる部隊は「筑紫朝廷」の直轄部隊であったという推定につながるものです。 
 また「日本救高麗軍將等」というのが「筑紫」地域を含む直轄統治領域とその至近の諸国だけの軍であったと思われることは「唐軍」の捕虜となっていてその後帰国した人物として以下の記事の人物が『書紀』『続日本紀』に現ることから推定できます。

①(六八四年)(天武)十三年…十二月戊寅朔…癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

②(六九六年)(持統)十年…夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人?四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

③(七〇七年)四年…五月…癸亥。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴■餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。

 彼らは「筑後」「筑紫」「肥後」「讃岐」「伊豫」等のほぼ「直轄統治領域」の人々であり、(「陸奥」(壬生五百足)が入っていますが彼は当時「防人」として徴発されて「筑紫」にいたのではないかと思われ、そのまま遠征軍に参加させられていたものと推定します)あくまでも「筑紫君」の直接統治可能な範囲だけの軍であったらしいことが推定されます。
 また③の記事では「初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸」とされていますから明らかに「白村江の戦い」で捕虜となったわけではなく、それ以前に「唐軍」に囚われていたというわけであり、そのことは「薩夜麻」の指揮下にあって「高句麗」支援の戦いの中で「唐軍」の捕虜となったことが窺われることとなります。同じことは「大伴部博麻」に対する「持統」の「詔」の中にもうかがえます。そこでは「博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。…」とされ「博麻」と「汝」(土師富杼等)とが同じ「本朝」に属していることが窺え、それは即座に「筑紫朝廷」を指すと見られることから、この時の「薩夜麻」と同時に捕囚となっていた人たちもやはり「筑紫君」の統治範囲の外部の人間ではないことが窺え、軍の構成として「筑紫」とその周辺地域からしか編成されていないことが強く推測できます。
 またそのことは「筑紫朝廷」自身が「難波日本国王権」への帰属を承認していない領域として(これが旧倭国領域として彼らが認識ししていた領域)がかなり狭くなっていることは重要であり、他地域の統治行為を別の権力者により行われていたたという可能性を考える必要が出てくるものであり、それが「難波朝廷」に本拠を構える「日本国王権」であり、実質として「近畿王権」であったとみることができるでしょう。
 ちなみにこの時「薩夜麻」と一緒に捕虜となっている人物として上に見たように「大伴部博麻」がいます。「大伴部」は「大伴氏」の部民であり、「大伴氏」が出陣するときは必ず彼の配下の軍として戦地に赴いたはずです。さらに「大伴氏」が「倭国王」の親衛隊の長であるのは自明であり、「大君の辺にこそ死なめ」と歌った「陸奥出金詔歌」に明らかなように「大伴氏」は必ず「倭国王」と同行していたはずであり、彼の率いる「大伴部」という部民も同様に倭国王の身辺警護に当たっていたはずです。そのことから「大伴部博麻」が「筑紫君」である「薩夜麻」と一緒に捕虜となっているという事実は「薩夜麻」が「大伴氏」とその部民である「大伴部」により警護されるべき「倭国王」であることをいみじくも示していると言えるでしょう。
 ちなみにこの捕虜の様子は、この時の戦いで「博麻」達を率いていた「大伴氏」(個人名は不明)も戦いの中で亡くなったことを示唆するものと言えます。ところで『公卿補任』を見ると「大伴御行」と「大伴安麿」の二人が大伴長徳の子供として書かれています。

大伴宿祢御行…難波朝右大臣長徳連之五男
大伴宿祢安麿…安丸者難波朝右大臣大紫長徳之第六子。

これを見ると「長徳」には六人子供がいたように書かれており、「御行」を「五男」と書いているところを見ると上の四人も男子であった可能性が高いものの、『書紀』にも『続日本紀』にも名前が明らかになっていません。また「御行」の死去した年から考えて「百済を救う役」付近ではまだ十五歳程度と思われますから、「兵士」にはなれず、逆にそれが理由で生き残ったとも言えるでしょう。上の兄たちは倭国王の親征に同行したと思われ、戦死したものと考えるのが相当と思われます。
 ところで「大伴氏」の倭国王に対する忠誠を歌った「陸奥出金詔歌」では「海行波(は)美(み)豆久(づく)屍,山行波(は)草牟須(むす)屍,王乃(の)幣(へ)爾去曾(にこそ)死米(め),能杼(のど)爾波(には)不死 止(と)」というように書かれていますが、これはこの「百済を救う役」の際の戦いの描写ではないかと思われ、海でも山でも多数の戦死者を出したことが書かれており、これは言ってみれば決して勝ち戦の描写ではなく負け戦に他ならず、その意味でも「薩夜麻」が捕虜となった戦いがそれに該当すると思われるわけです。
 大伴長徳は難波朝右大臣というように書かれており、東方に進出した際の「倭国王権」を支えた重臣と考えられますが、「倭国王」の急進的政策に反対の態度を取り、倭京つまり筑紫へ戻ったものとみられ、そのまま筑紫王権で(新たに選ばれた)倭国王(これが「薩夜麻」と考えられる)の警護の役割を果たしていたものと思われます。



コメント

「百済を救う役」と筑紫王権(一)

2024年11月21日 | 古代史
 「唐」は「麗済同盟」に対抗するため「新羅」との間に「唐羅同盟」を結び、「百済」や「高句麗」の動きに神経をとがらせていました。そして「六五九年正月」になると新羅王「金春秋」から「麗済同盟」による攻撃を受けた連絡があり、唐は「程名振」「蘇定方」らを遣わして「高句麗」を攻撃させたものです。この時点で「倭国」が「高句麗」や「百済」と結託しているという疑いが「唐」側にあり、「倭国」からの使者が「質」にとられる事態となったものと思われるわけです。
 つまり唐は高句麗を攻める前提で百済をまず攻めたものであり、主たる目的は高句麗であったものです。このように朝鮮半島では「唐」と連係した「新羅」の勢力が非常に強くなり、「六六〇年」には「唐」「新羅」連合軍により実質的に「百済」という国は滅んでしまいます。
 「百済」の遺臣から救援要請が来たことで「於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役」が発動されることとなります。この「天豐財重日足姫天皇七年」とは「六六一年」を指すと思われますが、『書紀』で「救百濟之役」という言葉に実態が該当するのは「御船西征。始就于海路。」という部分がそうであるとみられています。(春正月記事)これ以外には派遣記事も戦闘記事も出て来ません。しかし実際にはこの時点ですでに「筑紫」からは軍が派遣されていたとみるのが相当です。それを示すのが同年の末尾記事として「是歳条」に「日本救高麗軍將等」の部分です。この記事は巧妙にこの「日本救高麗軍等」が派遣された日付を隠蔽していますが、これは「斉明」が「西征」を開始した時点と同時とみるのが相当であり、前年に出された「斉明」の開戦の「詔」とされるものも実際には「薩夜麻」が出したものとみるべきです。理由として「百済」が援軍を頼むとするとそれは「筑紫朝廷」以外に考えられず、「百済」と「倭国」の長年の関係を考えれば「百済」が「日本国」つまり「難波王権」に応援要請するとは考えられません。これは実際には「筑紫朝廷」に届いた要請であり、「筑紫朝廷」はそれに応え、軍を発動するととともに「斉明」の「難波王権」に対し支援するよう指示を出したとみるべきです。
 (以下「斉明の詔」とされるもの)

 「詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。」

 この中で「志有難奪可分命將軍百道倶前。」という記述がありますが「百道」というのは筑紫の地名であり、「干潟」となっていた場所と思われます。そこへ集合するようにという内容であり、これは「筑紫」から出された指示として了解しやすいものです。(岩波の「大系」では「多くの道から」と言うように理解しているようですが、明らかにこれは地名です)
 「近畿」から各地への集合指令とするならば、「百道」の前に「筑紫」なりの地名が前置されなければならないと思われのす。詔を出している側は「百道」が「筑紫」に存在しているのは自明なので前置していないというべきです。(同様の例として『二中歴』の「倭京」の項にある「二年難波天王寺聖徳造」に「難波」という地名が付いているのに対して「白鳳」の項にある「対馬採銀観世音寺東院造」があり、ここでは「観世音寺」に「筑紫」という地名が前置されていないというものがあり、このことから記事の視点が「筑紫」にあると推定でき、これと共通の構造といえる。)
 また「百道」への集合は「浜」への集合であり、「船舶」によることが前提の詔と理解できる。(現在でも「百道浜」と称され、「百道」は「浜」である)

(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。
九月。皇太子御長津宮。以織冠授於百濟王子豐璋。復以多臣蒋敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津。率軍五千餘衛送於本郷。於是。豐璋入國之時。福信迎來。稽首奉國朝政。皆悉委焉。
十二月。高麗言。惟十二月。於高麗國寒極泪凍。故唐軍雲車衝■。鼓鉦吼然。高麗士率膽勇雄壯。故更取唐二壘。唯有二塞。亦備夜取之計。唐兵抱膝而哭。鋭鈍力竭而不能拔。噬臍之耻非此而何。釋道顯云。言春秋之志正于高麗。而先聲百濟。々々近侵甚。苦急。故爾也。
是歳。播磨國司岸田臣麿等獻寶劔言。於狹夜郡人禾田穴内獲焉。又日本救高麗軍將等。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。

 『書紀』で言う「斉明」の「詔」はその内容から明らかなように「百済」を伐つために「新羅」を攻めるという意図であったものです。確かに(六六三年)二年記事として『書紀』には新羅の「城」を攻略したという記事が出てきます。これで見るように「斉明」の軍は新羅に攻め入ることを目的としており、また活動しているように思われます。しかし「薩夜麻」は「唐軍」捕虜となっています。このことは「唐軍」が活動していた地域に彼らはいたこととなりますが、想定されるその場所として決して新羅」でもなければ「百済」でもなかったと思われます。なぜならこの当時「唐軍」の主力はもちろん「新羅」にはおらず「百済」でも「熊津」にしかいませんでした。その時点で「唐軍」の主力は「高句麗(以下高麗という)」との国境沿いに展開していたわけであり、捕虜になる機会としては「高麗」の国境付近しかないものと思われます。
 「唐軍」はこの時先に「百済」を攻めて「高麗」への援軍を遮断する戦略をとっていたようであり、「百済」が陥落するという時点ではすでに「高麗」攻略にかかっていたものです。
 このことから考えて、「百済」が滅亡してしまった現在、日本にとって「高麗」救援が最優先なのは当然ではないでしょうか。「百済」が崩壊したということは「高麗」が孤立したことを意味しており、その状態は「唐」と「新羅」の両面からの攻撃を受けざるを得なくなることを意味しますが、これを放置すれば「高麗」の滅亡ひいては半島全体が「唐」により支配されてしまう可能性があり、それは「筑紫日本国」(倭国)にとって非常に好ましくない話であったと思われ、それを阻止すべく軍を「高麗」に派遣することとなったものと思われます。
 結局「斉明」の指揮下にある軍が「新羅」を攻めている間に「筑紫朝廷軍」が「高麗」へ支援の部隊として進行していたと考えられるのです。それを率いていたのが「薩夜麻」であったものと思われ、かれらは「平壌道」を進行してきた「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いとなり、捕虜となっていたものと推測されます。下記によれば「加巴利濱」に「泊った」ようですから百済の東側を海岸沿いに進行していたとみられ、その先で高句麗軍と合流したものと考えられるでしょう。
 「薩夜麻」は「筑紫君」であり「筑紫朝廷軍」の総帥と考えられますから、彼とその側近が捕囚となっていると思われる状況を考えると、ほぼ「高句麗」支援として派遣された部隊は全滅したものではなかったでしようか。
コメント

「伊吉博徳」の遣唐使と日本国の関係

2024年11月21日 | 古代史
 『斉明紀』に見られる「伊吉博徳」が参加した遣唐使は「六五九年の七月」に「難波」を出発し「九月」の終わりには「餘姚縣(会稽郡)」に到着しています。そこから首都「長安」に向かったものの、「皇帝」(高宗)が「洛陽」に行幸していたため、その後を追い彼等も「洛陽」に向かい「十月二十九日」に到着し、「翌三十日」に皇帝に謁見しています。(これらの日付は既に指摘したように一日の錯誤があります)
(以下関係部分の『伊吉博徳書』の抜粋)

「秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。
潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。日本國天皇平安以不。使人謹答。天地合徳自得平安。天子問曰。執事卿等好在以不。使人謹答。天皇憐重亦得好在。天子問曰。國内平不。使人謹答。治稱天地。萬民無事。天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。使人遠來辛苦。退在館裏。後更相見。十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。所朝諸蕃之中。倭客最勝。後由出火之亂。棄而不復検。…」

 この記録によると、皇帝に謁見した翌日の「十一月一日」に「冬至之會」が行なわれたとあり、「諸蕃」と共に参加しているようです。通常の「冬至之會」にも「柵封国」は列席し、「正朔」つまり「暦」の頒布を受けるとされていたようですが、この時は「甲子朔旦冬至」という十九年に一度のイベントですから「柵封国」以外にも招請の声がかかったと見るのが相当と思われ、(唐側から見ての認識として)「倭国」及び「日本国」もその例外ではなかったものと思われます。(但し、「冬至之會」の実施を含め「中国側」の資料には何も書かれておらず、その意味では裏付ける史料はないわけですが、逆にそのためにこの『伊吉博徳書』に書かれた内容は重要な史料といえるでしょう。)
 上の「伊吉博徳」等の行程を見ても「十一月一日」には到着していなければならないというある種の逼迫性が感じられ、これは「十一月一日」までという「期限」が切られていた可能性を考えさせるものです。そう考えると、この時の「遣唐使」は「通常の」「遣唐使」ではなく「祝賀使」でもあったと推定されることとなります。それに「蝦夷」を引き連れていったのも、一種の「生口」のつもりであったかも知れません。
 このような「祝賀」の際には「珍奇」な「物品」や「動植物」を持参し貢上するのが習わしであったようですから、この場合も「蝦夷」の人を「珍獣」扱いしていたのかも知れません。(但し「唐」の方では彼らを「蝦夷国」の使者というまっとうな捉え方をしていたようですが)
 この時の「蝦夷」については『伊吉博徳書』の中で「…今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。…」とされており、ここで「本國之朝」という言い方がされていますが、これはつまり「本朝」ということであって、「持統天皇」の「大伴部博麻」への「詔」の中では「筑紫朝廷」を指す用語として使用されていると考えます。

「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」
  
 この「大伴部博麻」に対する「詔」では、「大伴部博麻」らは「唐人」の「計」を「奏聞」しようとしたものであり、そのために「大伴部博麻」が自分の身を売って「衣糧(食料と衣料)」を作ったとされています。ここで彼らが伝えようとしていた「唐人所計」というものが何を意味するかは不明ですが、目的は達したものと推察され、そのことは文中で「富杼等は博麻の計るところに依り「天朝」に通(と)どくを得たり。」と書かれている事でも解ります。
 ところで、ここで「博麻」の言葉として「本朝」と言い、「持統」の言葉として「天朝」と言っている事については以前考察した論を古田史学会報に掲載させていただきましたが、結論として「本朝」とは「筑紫朝廷」を指すとしました。
 「博麻」は「我欲共汝還向本朝」という言い方をしていますから、彼は、彼にとっての「我が国の朝廷」がある場所へ「還向」したいと言っていることとなります。
 「博麻」はそもそも「筑後」の「軍丁」であり、「筑紫」の人間でした。彼が「還り向う」と欲しているなら、その場所は「筑紫」以外には考えられず、そこには「我が国の朝廷」がある、という事とならざるを得ません。
 また彼は、同じく捕囚の身となっていた目前の「筑紫の君」である「薩夜麻」の部下であり、「本朝」とは彼の「口」から出た言葉なのですから、ここでいう「我が国の朝廷」とは「我が君」である「薩夜麻」が統治していた「筑紫朝廷」を指すものと考えるべきでしょう。
 また、「博麻」は「本朝」に「汝共」に「還向」と言っていますから、この「筑紫朝廷」が、彼にとってと言うよりそこにいる「富杼」達全員が「属している」「朝廷」であったものと考えられるものです。
 そして、「持統」はその「本朝」である「筑紫」へ還った(と考えられる)「富杼」達について「天朝」という表現をしているわけです。
 これらのことから「本朝」とは「筑紫朝廷」を指すと判断できるわけですが、他方この時の「蝦夷」達は「難波朝」に「入貢」していたと思われ、「難波朝」も「本朝」と呼称される「朝廷」であったこととなります。
 そもそも「蝦夷」は「難波」から出発した時点で搭乗していたと思われますから、彼らが「入貢」していたのも「難波朝」とみるのは自然です。(『書紀』にもそのような記述があります)このことはこの時点で「難波」が王権の所在地として「蝦夷」から認識されていたこととなりますが、この点については「日本国王権」としての「難波」であることが明確と言えます。
 既に指摘したようにこの段階では「難波」に本拠を置く王権としての「日本国」があり、それとは別に「筑紫」に本拠を置く「日本国」が別途存在していたと思われ、「難波津」からつながる地域は基本的に「倭王権」の直轄領域であったはずですが、そこを押さえたことで「日本国」が「倭国」を併合したという言い分につながっていると思われるわけです。
 「大伴部博麻」の言葉に出てくる「本朝」は「天命開別天皇三年」に発せられたわけですが、この「天命開別天皇三年」というのが何年の事なのかについては、諸説があるものの『書紀』中の「天命開別天皇の何年」という例は全て「称制期間」のことを指していると考えられ、ここでいう「天命開別天皇三年」も同様に「称制期間」と考えられるものであり、そうであれば「六六四年」のこととなると考えられます。また彼らは「天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜」というわけですから、「六六一年」のことであり、この時点で「筑紫」には「朝廷」が存在していたこととなりますが、それは「六五九年」に遣唐使が発した「本国の朝」とほぼ同時代の表記と考えれば、これらの年次を通じて「本朝」「本国之朝」が共通として使用されているわけですが、これは「六五二年」という年次で「白雉」改元が「難波朝廷」で行われたことと深く関係しているといえます。つまり「難波朝廷」も「筑紫朝廷」と同質の権威を持っていたこととなり、この時点で「難波朝廷」が「倭国王権」とは別に東方の統治者として機能していたと推定することができるでしょう。
 本来「近畿王権」は「倭国」を「宗主国」とする体制に「諸国」の一つとして組み込まれていたと思われますが、「難波宮」には「兵庫」があり「斉明天皇」が出陣に際して「御幸」「観閲」したとされていますから、この地点がいわば「最前線」であったことが推測できます。(ちなみに「兵庫」が作られたのは難波宮造成時点と思われ、それがその後もそのまま残っていたものと理解できます。)
 「武器庫」があったということは、いわば「仮想敵」と空間的に近接していることを示すものであり、その意味で「近畿王権」は「筑紫倭国王権」から「警戒」されていたと思われます。
コメント

「伊吉博徳」達の遣唐使と日本国

2024年11月20日 | 古代史
『新唐書』によれば「唐」の三代皇帝「高宗」は倭国からの遣唐使(六五三年)に対して「璽書」(璽を捺印した書状)を下して、「新羅」を救援するようにと指示しています。

「永徽初 其王孝德即位改元曰白雉 獻虎魄大如斗碼碯若五升器 時新羅爲高麗百濟所暴 高宗賜璽書 令出兵援新羅 未幾孝德死… 」

 倭国年号「白雉」の改元は六五二年とされていますから、その翌年の遣使が改元を伝えるものであったとして不自然ではありません。ただし『唐会要』では「六五五年」のことととされており食い違いがありますが、より原初的なものは『新唐書』の方の記述と思われます。(『倭国王』としての「孝徳」が即位してすぐと考えると『書紀』と整合するのは「六五三年」の方でもあるため)
 この時代柵封された諸国にとり「唐」の皇帝という存在は「絶対」であり、その「唐」皇帝からの「璽書」も同様に「絶対」であり、これに反するということは事実上できないことであったものです。「倭国」は「柵封」されていたというわけではないものの「域外募国」として「唐」皇帝を「天子」と「尊崇」していたものです。「新羅」を通じて「唐」との国交を回復したという点からも「唐帝」が「新羅」との友好を進める様にという指示を与えたのも理解できるところです。このように一旦急あれば「新羅」に対する援助を行うことを指示したことで「倭国」はその外交方針が非常に決めにくくなったものであり、方針決定を困難なものとした理由の一つと思われます。この「璽書」が下されたことにより「百済」と連合して「新羅」と対抗するということが事実上できなくなったと見られます。なぜならそのような行為は下された「璽書」に反することとなり、「唐」の「朝敵」となってしまうからです。
 それ以前に「倭国」と「倭国王」は「難波」に副都を設け、東方支配を拡大するとともに、「倭国王」は「新羅」を通じて「高表仁」問題の謝罪を行い、関係改善を指向していたものです。その後「唐」との関係改善を確実にするため「遣唐使団」を派遣します。これが「白雉四年」(六五三年)の「遣唐使団」です。彼らが「高宗」から「璽書」を下されたというわけです。その彼らが派遣されて帰国しないうちに当の倭国王がその座を去るという事件が発生します。
 彼の政治方針を支援する勢力が彼から離反した結果、彼が倭国王で居続けることが不可能となった結果であり、このタイミングで彼を支援していた「倭国勢力」(筑紫勢力)が旧都である「筑紫」に戻ってしまったものです。これは政治的に重大な話であり、東方統治という新しい施策を実行する立場の人が突然いなくなってしまったわけですから、ここに『政治的空白』が生まれたと考えられます。この「空白」を埋めるべく「東方」統治の実務を担当していた「諸国」としての「近畿王権」がその実権を握ったものと推量します。その時点で国家体制に変動があったわけであり、それをまず「唐」に伝えるというのが彼ら「難波王権」の方針であったようです。彼らは翌年すぐに別に遣唐使団を派遣することとなりますが、その構成も「押使」という重要な立場の使者を含むものであり、また当時ちょうど「国王」の座についた「新羅」の金春秋の祝賀も兼ねて「新羅道」を経由して「唐」に向かったものです。つまり「新羅」「唐」の両者に対して関係改善のメッセージを送るとともに双方に「日本国」の成立と「倭国からの正当な継承者」であることを知らせようとしたものと考えられるわけです。
 その彼らは「唐」に赴いた際に「日本国」の使者を名乗りまた「国王」は「天皇」号を使用しているということを伝えたものですが、それはすでに「各種」の「詔」に明確なように「倭国王」としての「東方統治」において「日本国」を名告った際に「天皇号」も使用していたものであり、それを「難波王権」がそのまま「倭国王」の呼称として採用しそれを「唐」においても伝達し、承認を得ようとしたものです。
 これを「鴻廬寺」では「倭国からの単なる名称変更」と理解され、そのまま「長安城」の中に案内されたものと見られます。しかし連年の遣唐使という異例さに対して違和感を抱いた「東宮監門」という職掌の「郭丈挙」という人物に「誰何」されたものです。彼の疑いは正しく、この場合の「日本国」は「難波王権」を指し、「筑紫」に本拠を置く「倭国王権」(筑紫日本国王権)とは別であるという結論に達したものであり、それが「別種」と表現される理由となったものと思われます。
 次いで「難波日本国」に「唐」から招請状が届きます。それが「六五九年」に行われた「朔旦冬至」の宴です。これは十九年という「暦」における「章」の期間の始まりとして意識されているものであり、皇帝の権威と密接に関係しているもので、単に宮中行事ではなく広く国の内外から客を招請し天体の運行が皇帝の権威の下にあるということを印象づけるために行われるものであり、それには古来より「夷蛮」つまり「東夷」「南蛮」の国が特に存在が必要であったものであり、その意味で「日本国」に招請が来たものと思われます。すでに得ている地理情報では明らかに彼らが「倭国」と認識している国よりも「東方」に位置すると考えられていたものであり、であれば「東夷」のさらに東方に位置する国として招請の対象として最適と思われたものと思われます。
 この「六五九年」の「伊吉博徳」が参加している「遣唐使」が「日本国」からのものであるというのは、彼等に対して唐皇帝(これは「高宗」)から「日本国天皇」と呼びかけられていることでもわかりますが、彼らが「洛陽」について「東京」と表現していることでも判明します。「洛陽」は「隋代」に「東都」に改名されており、倭国からの遣唐使は「東都」と改名していこうに「遣唐使」として訪れたことが判明していますが、「日本国」の関係者はその時代にはそもそも「日本国」は成立しておらず、また「近畿王権」は「諸国」の一つでしかなかったものであり、外交を行う権能を有していなかったということから、「歴史的経緯」を熟知していなかったことが原因と思われます。また彼らは「唐」が当時使用していた暦である「戊寅元暦」の存在を知らなかった形跡があり、「伊吉博徳」の記録(書)では「閏月」である「十月」の月の大小を間違えています。
 「高宗」に拝謁した日付が「三十日」とされていますがこの年の「潤十月」は「小」の月であり「三十日」は存在していません。それがここに記載されています。明らかに「暦」についての誤解があったものと思われます。
 本来の「戊寅元暦」ではこの「六五九年」の「十月」は「大」の月、「閏十月」は「小」の月のはずですが、「伊吉博徳」等はこれを逆に「十月」を「小」「閏十月」は「大」というように理解していた可能性があります。つまり、「出発」以降「一日」ズレて理解していたと思われるわけです。そうであれば「長安」への到着は実際には「閏十月十四日」であり、「皇帝」に拝謁したのは「二十八日」と思われます。(「冬至之會」が行われた日付は両者とも同じ「十一月一日」で変わらないと考えられます。)
 つまり「唐」から頒布された暦ではなく「難波王権」で独自に作成した「暦」を使用していたという可能性があると思われるわけです。他の国々のように毎年十一月一日に暦の頒布を受けていればそのようなことはないわけですが、柵封されていない国では独自に暦を作る必要があり、そのため理解不十分となったという可能性が考えられます。(これを「元嘉暦」と考えても「月」の大小は「戊寅元暦」と同じですから変わりません)
 またこの時の招請を受けた国の中に「倭国」からの使者もいたことが「博徳」の言葉から推定できます。「博徳」の記録の中に「冬至の会」の際の言葉があり、そこで「倭客」という呼称が現れます。また「我客」という語も使用されています。

「…所朝諸蕃之中、倭客最勝。…」
「…韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。…」

 ここで客」という言い方がされていますが、この「客」というのは現在と変わらない使用法であり、「自分たちのグループの外から集められた人たち」をいもするものであり、「倭客」の場合は「倭国」のグループが集めた外部の人たちを指し、「我客」の場合は自分たちが集めた外部の人たちを指すと思われますから、「倭」と「我」とは違うという結論になります。つまり「博徳」達とは別に「倭」からの使者もこの「冬至の会」の招請を受けていたものと思われることとなりますが、それはある意味当然のことです。本来の「東夷」を代表しているのは「倭国」であり、倭国との関係を考えると招請しないことの方が考えにくいものです。さらにまた当時の半島情勢と絡み彼らが百済・高麗に支援することのないよういわば「質」とするつもりだったことも別途推定できます。

コメント

「日本」という国号の変更時期の推定

2024年11月19日 | 古代史
 「倭国」はそれまでの「宗主国」と「附庸国」という一種封建体制的なものから「倭国王」による「直接統治」体制を築こうとしたように思えます。それを「難波朝廷」という副都から「東方諸国」をその直接統治体制に組み込もうという政治的手法を実行しようとしたものと考えられます。
 それを示すように「改新の詔」と前後して「東国国司詔」が出されますが、その中では「今始めて萬國を治める(修める)」という表現がされています。これはそれ以前には「萬国」を「統治範囲には入れていなかった」ということを意味視しているように見える文言です。

「…隨天神之所奉寄方今始將修萬國…」

 つまり、これはそれまでなかった「中央集権国家」というものを樹立したという宣言と考えるべきでしょう。このときに「日本」という国号へ変更したものと考えます。
 さらに、現地での裁判が、「不正」(賄賂などの受け渡し)の場になることを懸念していたものであり、そのような「不正」に対し強く臨む態度であることを示すのが「六人奉『法』。二人違『令』。」という言葉に表れています。
 ここでは「法」と「令」というものがあることが示され、それに対し「罰則」規定も存在していたことも推定される筆致です。
 ここで、「罪」として問われているのは特に「莫因官勢取公私物。」というものであり、「公私混同」を厳しく諫めていると思われ、「公」というものの重要性を強く知らしめ、理解させようとしているように見えます。このような「力」を背景にした統治行為の一環として「東国国司の詔」やそれに基づく「賞罰の詔」、「品部」などの「接収」の「詔」などかなり「強引」な手法があったものと考えられます。
 それに対し東方諸国からの反撥が予想以上に強く、またそのような中で強行しようとした倭国王に対し、身内とも言える筑紫王権からの支援勢力も離反した結果、難波朝廷に権力の空白が生まれ、近畿勢力に「難波朝廷」がいわば「乗っ取られる」形となったものとおもわれますが、それが『書紀』に書かれた以下の記事です。

「是歳。太子奏請曰。欲冀遷于倭京。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟等。往居于倭飛鳥河邊行宮。于時公卿大夫。百官人等皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位。令造宮於山碕。乃送歌於間人皇后曰。舸娜紀都該。阿我柯賦古麻播。比枳涅世儒。阿我柯賦古麻乎。比騰瀰都羅武箇。」((六五三年)白雉四年条)

 これによれば筑紫からの支援勢力は旧都である筑紫の首都である「倭京」に帰ったと推定され、筑紫において新たな人物を王として選び「筑紫王権」が存続していたものとみられる。ただし「倭国」から「日本国」への「国号変更」は、倭国王が直接統治を実行しようとした時点で「倭国」自ら行っていたものです。
(以下の記事が相当すると思われる。)

(六四五年)大化元年秋七月丁卯朔…
丙子。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟調使兼領任調那使。進任那調。唯百濟大使佐平縁福遇病。留津館而不入於京。巨勢徳大臣。詔於高麗使曰。『明神御宇日本天皇詔旨』。天皇所遣之使。與高麗神子奉遣之使。既往短而將來長。是故可以温和之心相繼往來而已。又詔於百濟使曰。『明神御宇日本天皇詔旨』。始我遠皇祖之世。以百濟國爲内官家。譬如三絞之綱。中間以任那國屬賜百濟。後遣三輪栗隈君東人觀察任那國堺。是故百濟王隨勅悉示其堺。而調有闕。由是却還其調。任那所出物者。天皇之所明覽。夫自今以後。可具題國與所出調。汝佐平等。不易面來。早須明報。今重遣三輪君東入。馬飼造。闕名。又勅。可送遣鬼部率意斯妻子等。

(六四六年)大化二年…
二月甲午朔戊申。天皇幸宮東門。使蘇我右大臣詔曰。『明神御宇日本倭根子天皇詔』於集侍卿等。臣連。國造。伴造及諸百姓。…。

 この「日本」という名称は上に見るように「詔」つまり天皇の言葉として現れるものであり、書き換え等の造作が考えにくいことがあり、また「根子」がある地域の権力者を指す用語として『書紀』で使用例がありその意味で「倭根子」が「倭国王」の称号であったとみれば、この時点で「日本」が冠せられた意味として「日本」への国号変更が推察できるものです。
 「倭根子」つまり「倭国王」としての立場の拡大あるいは延長として「東国」を直接統治することを明確にすることを意識して「日本」と国号を変更し「倭国王」から「日本国王」へとステージアップしたという宣言とみられるわけです。このことは難波朝廷」が副都として存在していたものが、難波から倭国王以外が一斉に「倭京」へ移動した結果権力の空白が生じ近畿勢力にいわば乗っ取られた結果「難波朝廷」の権力者達が「日本国」を名告る理由とも事情ともなったと考えられます。
 ただし「筑紫朝廷」も「日本」と名乗ったという可能性を示唆するものです。なぜなら「日本」という国号変更は「倭国」つまり「筑紫朝廷」が行ったものであり、「難波」への進出がその契機であったとしても「筑紫」に戻った後においてもその国号変更が有効であった可能性が高く、そのまま「日本国」を名乗っていた可能性が高いと思われます。ただし、これは対国内的なものであり、遣唐使を送っていないため「唐」では「倭国」としての認識が継続していたものみられます。
 結果的に国内には「日本」という国が二つ存在していたことになります。「難波王権」としての「日本」と「筑紫王権」としての「日本」です。
コメント