更科田毎の月 楊洲周延 画 明治24年(1891)
3枚続中の右1枚のみ
更科姨捨月之弁 松尾芭蕉
あるひはしらゝ・吹上ときくにうちさそはれて、ことし姥捨月ミむことしきりなりければ、八月十一日ミのゝ国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。なぐさめかねしと云けむも理りしられて、そヾろにかなしき に、何ゆへにか老たる人をすてたらむとおもふに、いとヾ涙落そひければ、
俤や姥ひとり泣く月の友 ばせを
十六夜もまだ更科の郡かな 仝
明治廿四年 月 日印刷
仝 年 仝 月 日出版
日本バシ区本銀丁一丁目十二バンチ
印刷並
発行人 武川卯之吉
(ようしゅう ちかのぶ、天保9年8月8日〈1838年9月26日〉 - 大正元年〈1912年〉9月29日)とは、江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。作画期は幕末動乱期の混乱を挟みつつも文久頃から明治40年(1907年)頃までの約45年に及び、美人画に優れ3枚続の風俗画を得意とした。
田毎の月
中図の棚田を歩く二人連れは、芭蕉と越人とされる。
参考
姨捨田毎の月 史跡名勝天然記念物 文化遺産オンライン
現在の境捨は,冠着山(1,252m)や三峰山(1,131m)などを中心とする聖山高原が善光寺平に臨む北東面の傾斜地のうち,標高約460mから約560mの範囲こ展開する約25haの棚田地帯である。棚田地帯め中央を千曲川の支流である更級川が北流し,三峰山から地滑りによって堆積し安山岩風化粘土の混じる砂礫層をを深く浸食している。この他滑りによって発生した姥石,姪石,子袋石,甥石などの顕著な巨石が棚田地域に散在している。
姨捨の棚田地域から南に展開する冠者山を含めた姥捨山の一帯は,平安時代頃から観月の名所として名高く,『古今和歌集』(913年成立)に所収する「わが心なぐさめかねつさらしなや壊捨山にてる月を見て」を最古の例として,『更級日記』や『新古今和歌集』などにも月を詠んだ約40首余りの和歌が撰じられている。天正6年(1578)の製作とされる狂言本『木賊』には嬢捨の「田毎の月」が初めて登場し,江戸時代になると棚田開発が不きく進展するのに伴って、姥捨山だけでなく棚田の一枚一枚の水田に映る月かげが俳諧や紀行文の題材として注目されるになった。とりわけ,芭蕉の詠んだ「おもかげや姥ひとりなく月の友」の俳句が,長楽寺境内に遺存する明和6年(1769)の紀年銘を持つ「芭蕉翁面影塚」なる石碑に刻まれて今日に伝えられているほか、安政年間以前の建立と考えられる別の句碑には、江戸時代の画家であった景山三千香が天保3~4年(1832~33)頃に月待ちのひとときを詠んだと思われる「青空を田島のいろや夕日影」の俳句が刻まれている。
俳諧だけでなく,「冠着山」「更級川「田毎月」「姥石」「小袋石」など,嬢捨を構成する13の風景や景物を措いた『信州更級郡姥捨山十三景之図』や『放光院長楽寺十三景之図』(善光寺道所図会」所収),あるいは観月の名所として痍捨の千枚田を情緒深く描く『信濃更科田毎月鏡台山』(広重「六十余州名所図会」所収)など,旅行や紀行のための絵画テーマとしても「姥捨の田毎の月」はさらに喧伝されるようになった。
近代には、平安時代の物語文学である「大和物語」に題材を得た井上靖の「姥捨」をはじめとして、農村の貧困状態を背景とする老女の遺棄伝説の舞台としても紹介されたが、堀辰雄の「姥捨記」にも代表されるように月の名所としての名声は衰えなかった。
以上のような,鏡捨における伝統的な「田毎の月」の景観を保護するためこ,姥石や芭蕉の句碑などが残る長楽寺境内を展望地点として,そこから望まれる四十八枚田と、姪石を展望地点として,そこからの望むことの可能な約3haの棚田地域を、それぞれ名勝に指定し保存を図ろうとするものである。
日本文化遺産 月の都千曲(千曲市歴史文化財センター)
令和3年7月16日 點伍八