尾張廼家苞 五之上
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五十首哥めし時 慈圓大僧正
秋をへて月をながむる身となれりいそぢの闇を何なげく覧
月をながむると、やみをたゝかはせたる也。四ノ句は、浮世のやみに
まよひて、五十年をへたるよし也。、佛經に、生死長夜と
いふ故也。以上たがひたる
ふしもなし。 上句は、世を遁れてまぎるゝ事
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なく、心しづかに月をみる身の上なれる物をといふ意也。さては
五十有
餘にて出家したる新発意也。此僧正の御うへにあはず。初句秋をへて
は、多年修行してといふ事。月をながむる身となれりは、覚道發明したる事。
いそぢの闇を何なげくらんは、今かくさとりぬる上は、五十
年來いまだ悟らざりしをなげく事もなしと也。 されど詞たらず。
誤解せら
れたる故也。三ノ句もいうならず。真率にて
つよし
百首歌奉しに 藤原隆信朝臣
近ミノ
詠てもむそぢの秋は過にけりおもへば悲し山端の月
初句もゝじはかろし。さる事畢竟
は嘆辞なり。下句は、月の山端近く
なりたるを見て、思へば我身も末近しといふ心也。ちかしといふ本
によられたる
説なり。今見あはせし本どもみな悲し也。悲しとある本は誤なりといはる
れど、必しもしからず。山端の月に近き意はたれゝは、近しとある本ぞ誤には
あるべき。一首の意は、月をながめ/"\するほどに、六十年の秋をもへたる事、
我身年老て、山端の月のやうなる物なれば、思へば悲しき事と也。