遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

高橋杏村 晩年作『淡彩群鳫図』

2025年01月11日 | 文人書画

先回のブログで、実業家、原三渓の春景山水図を紹介しました。

今回は、江戸後期、美濃を代表する南画家、高橋杏村の花鳥画です。杏村は、三渓の母方、祖父です。

全体:71.6㎝x192.8㎝、本紙(紙本):58.6㎝x130.3㎝ 。元治元(1864)年。

【高橋杏村】文化元(1804)年―慶応四(1868)年。江戸時代後期の南画家。美濃國神戸(ごうど)村(現、岐阜県安八郡神戸町)生れ。名は九鴻、字を景羽、號は杏村、爪害、塵遠草堂等。画を中林竹洞、書を頼山陽に学ぶ。山水、花鳥画を得意とした。また、漢詩、漢学にも通じ、私塾「鉄鼎学舎」を開き多くの門人を育てた。長女、琴は、美術愛好家の実業人、原三渓の母。

 

穏やかで素直な筆致の日本画です。

高橋杏村は、山水画、花鳥画共によくしましたが、一般には、花鳥画が好まれたようです。

群鳫報聲
甲子桃花月寫於塵遠
草堂    杏村 印 印

雁たちが、互いに呼び合っている図です。

「塵遠草堂」は、杏村の号の一つですが、彼の住居(画室)に付けた名称でもあります。

桃花月とありますから、3月、北へ帰る頃の雁の群れですね。

優しいタッチは、温順高雅であったという杏村の人柄を反映しているのでしょう。

原三渓は、やはり祖父の血を引いているのですね。

この辺りの旧家は、美濃の南画家、高橋杏村の花鳥画と尾張の医師、儒家、永坂石埭の漢詩、山水画を蔵していることが多いです。

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祝!ブログ6周年!原三渓『淡彩春景山水画讃』

2025年01月08日 | 文人書画

いつのまにか、ブログ開設6年になりました。最近は文人書画を扱うことが多くなり、その中で6周年に相応しい品ということで選び出したのが今回の作品です。

全体:32.6㎝x128.7㎝、本紙(紙本):34.8㎝x204.6㎝。大正十三年春(三渓、56歳)。

【原三渓(はらさんけい)】慶応四(1868)年 ― 昭和十四(1939)年)。美濃國(岐阜県)佐波村生れ。実業家、美術品蒐集家、茶人。横浜に三渓園造設。若手画家を援助し、育てるとともに、自身も書画を嗜み、日本画や漢詩作品を多くのこした。

春の山里を描いた典型的な山水画です。

非常に透明感のある画面です。

山には、家々が身を寄せ合うように建っています。

あちこちに、梅の木が花を咲かせています。

実業家として成功をおさめた原三渓は、美術品コレクターであったと同時に、自らも書画をよくしました。これは、母方の祖父、高橋杏村の影響を強く受けたためです。杏村は三渓が誕生した年に亡くなっているので、直接指導を受けたわけではありません。しかし、三渓は高名な南画家であった祖父、高橋杏村を大変尊敬し、終始、心の師として、書画に研鑽しました。

原三渓は、書画集を出すなど、実業家の余技にはおさまりきらない質と量の書や日本画をのこしています。

そのうちで、今回の品は、彼の代表作の一つと言ってもよいでしょう。

通常の山水画は、雄大な山々が連なる山奥に谷川が流れ、ひっそりと佇むあずま屋が周りの自然にとけこんでいる情景が描かれています。これは、俗世間から離れ、精神の自由を求めて逍遊する文人の理想郷をあらわしています。

ところが、今回の山水画は、通常の山水画とは少し異なっています。奥深い山ではなく、何軒かの家屋、さらにはお寺が中央に描かれ、梅の花が咲きほこる山里の光景です。最下部の川面には、薪を運ぶ水夫・・・・世間から隔絶しているのではなく、人々の息づかいが聞こえそうな温かい画面です。

この絵を理解するには、どうしても、右上の讃(七言絶句)を読まねばなりません。

題春景山水図(私が作題(^^;)

長嘯臨風客養仙
看梅最好欲明天
依微当認前宵月
砕在渓橋清瀬邉
     大正甲子春三渓併題

春景山水図に題す

長嘯、風に臨んで、客、仙を養う。
梅を看るに最も好(よ)きは、明なんと欲す天。
依微たりて、当(まさ)に認む前宵の月。
砕けて渓橋清瀬の邉り。

【長嘯(ちょうしょう)】声を長くひいて詩や歌を吟ずること。
【臨風(りんぷう)】風に向かう。
【依微(いび)】ぼんやりすること。
【前宵(ぜんしょう)】昨夜。
【渓橋(けいきょう)】谷に渡された橋。

風に向かって、朗々と詩を吟ずれば、旅人は術を得て、仙人になるかのようだ。
梅を観るのに最もよいのは、明けようとする空。
ぼんやりしているうちに、昨夜の月が天にあることに気がついた。
だが、それも砕けて、谷川にかかる橋や清瀬の辺りにある。

 

なんという幻想的で美しい詩でしょうか。

詩を吟じる旅人、そして長嘯するのも、おそらく、三渓自身。梅をみようと見上げれば、そこには夜明けの月が。やがてその月も落ちて、渓谷の橋や流れに消えていく。

原三渓は梅を愛した人です。三渓園には各地から名梅を移植して梅園が造られました(明治41年完成)。この梅をモチーフにした日本画の名作があります。三渓の支援によって才能を開花させた下村観山の代表作「弱法師(よろぼし)」です。彼は三渓園の臥龍梅に着想をえて、能に題材をとり、不朽の名作「弱法師」を描き上げたといわれています。

下村観山『弱法師』(大正4年、重文)

能『弱法師』では、人の讒言を信じた親に捨てられ、悲しみのあまり盲目となった俊徳丸が、四天王寺を彷徨います。そして、境内で梅の花の散る中、沈む夕日を心に留め、極楽浄土を想う日想観をなします。下村観山『弱法師』は、能『弱法師』のこの場面を描いています。作品からは、孤独と不安に苛まれながらも、心の闇を晴らそうとする俊徳丸の思いが伝わってきます。キーワードは、梅花と沈みゆく太陽。

一方、原三渓の今回の春景山水図の場合、画面からは山里の梅花が浮かびあがるのみです。しかし、添えられた讃(漢詩)を読むと、渓谷に沈んでいく夜明けの月が重要なモチーフであることがわかります。
下村観山の「梅花と夕陽」に対して、原三渓は「梅花と朝の月」。どうやら三渓は、観山の名作(大正4年)を意識して、今回の作品(大正13年)を書き上げたのではないかと思われるのです。また、大正12年9月には、関東大震災が起こりました。その半年後に製作された今回の作品は、震災復興に明け暮れていた三渓が、ふと、文人の世界に遊んでみたくなったのかも知れません。その際も、世捨人が隠棲する深山幽谷ではなく、人の温もりが感じられる山里を舞台にして書と画をしたためました。竹薮と梅花に埋もれた家々、川に浮かぶ小船、これらは三渓の故郷、美濃にごく普通にみられる風景です。大財界人として名をなした後も、彼の心は市井の人々や故郷の山河から離れた所にはなかったのです。

このように、原三渓の春景山水図では、漢詩『題春景山水図』が非常に重要です。よく、水墨山水画では絵と讃が表裏一体の関係にある言われます。恥ずかしながら、私はその意味がよく理解できませんでした。しかし、今回の作品に接して、讃の重要性がはっきりとわかりました。もし、この春景山水図に漢詩文が添えられていなければ、作品の魅力が半減するどころか、月並みな習作で終わっていたでしょう。

先に述べたように、三渓は、母方の祖父、南画家、高橋杏村の影響を強く受け、祖父の子、高橋杭水について絵画を学びました。
では、漢文、漢詩はどのようにして習得したのでしょうか。
原三渓は、慶応4年(明治元年) 、美濃国厚見郡佐波村(現、岐阜市柳津町佐波)の青木家長男(名、富太郎)として生まれました。幼少から非常に勉学を好んだ富太郎少年に、学問を手ほどきしたのが、近くの山田省三郎という人物です。青木家と山田家は、庄屋ー名主の関係(交代で担った?)にあり、省三郎は、勉学好きの富太郎の相談にのり、世話をしていました。そして、富太郎が14歳の時、大垣の儒者、漢詩人、野村藤蔭の鶏鳴塾で学べるよう計らいます。富太郎は、8㎞の道のりを徒歩で通いました。この時期に、原三渓は漢詩、漢文の素養を身につけたのです。
なお、この辺りは、洪水が頻発する地域でした。三渓の勉学の師、山田省三郎は、当時から治水事業に奔走していました。そして、生涯を治水にささげ、後に、「治水王」と呼ばれました。しかし、今ではほとんど忘れられています。
なお、私の母(故人)は、隣村の古刹の生れ、山田省三郎は伯父にあたります。

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古伊万里文字尽小皿

2025年01月06日 | 故玩館日記

酒田の人さんぽぽさんのブログで、梵字がデザイン化された江戸前期古伊万里皿が、相次いで紹介されました。例によって、一足遅れで参入の遅生です(^^;

径 14.1㎝、高台径 9.2㎝、高 3.1㎝。重 177g。江戸前期。

高台に小欠けがありますが、釉がのっています。

裏底には角福、そこに針支え跡一つ。

造りや染付の色調から、いわゆる藍九谷に分類される品といってよいでしょう。

今回の品の特徴は何といっても文字。

見込みには大きな文字。

周囲には、4種類の文字が、中央の大きな文字を取り囲むようにびっしりと配置されています。

裏面にも2種類の文字がグルっとめぐらされています。

この皿に描かれた文字は、いったい何を表しているのでしょうか。

文字には意味があるはずです。今回の文字尽小皿には多くの文字が書かれているので、何か手掛かりが得られるかと思い、色々調べましたが、全くダメでした(^^;

梵字という確証さえ得られませんでした。

以前に、同じように中央に文字が書かれた初期伊万里小皿(下写真、右)を紹介しました。

両者を並べてみても、謎は深まるばかりです。

これまで、この手の文字は、梵字とされてきました。

しかし、案外、他の文字、例えば、篆字をデザイン化したものかもしれません。Dr.Kさんの陽刻輪花皿の是武字などは、その例でしょう。いずれにしても、中国の陶磁器を含めて、さらに検討が必要ですね。

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珍品!村瀬秋水、村瀬藤城『霊芝若松画織部手付四方皿』

2025年01月04日 | 文人書画

そこそこに時代のある箱です。

中に入っていたのは、織部焼の四方皿です。

 

縦 21.0㎝、横 22.5㎝、高 4.5㎝。重 1072g。幕末。

分厚い正方形の器体に耳(手)が付いています。

両隅に厚く織部釉が掛かっています。

左右の辺が歪んでいて、織部焼の作風(破調)をのぞかせています。

透明感に乏しく少し暗い緑釉は、江戸後期~明治にかけての織部焼の色調です。

鉄釉で松と霊芝が描かれています。

「秋水老人」「藤城」の銘も。

これは、美濃の文人、村瀬秋水、村瀬藤城兄弟の絵付けになる陶磁器と考えて良いでしょう(第三者が名前をかたって品を作るほどの有名人ではない(^^;)。

【村瀬藤城】(寛政三(1791)年ー嘉永六(1853)年)。儒学者、漢詩人。美濃の大庄屋(郡代)村瀬家当主。弟の秋水とともに、家業に従事。頼山陽の高弟として、全幅の信を得、山陽の死後、秘蔵されていた田能村竹田の名作『亦復一楽帖』(現、重文)を引き継いだ。他の弟、村瀬立斎は尾張藩医で、犬山藩校教授をつとめた。奇人、村瀬太乙は、従弟の子。

村瀬一族は、秋水の子、雪峡、藍水も含めて、多くの文人を輩出しています。その中で、中心となったのは、当主の藤城と弟の秋水でした。

今回の作品は、忙しい家業の合間に、二人が手すさびで作った品かも知れません。

村瀬藤城は漢詩人でしたが、秋水や太乙に較べて、残された品はわずかで、私はまだ作品を手にしたことがありません。

今回の織部皿は、その意味でも私には感慨深い品です(^.^)

 

 

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故玩館ブログ、本年もよろしく

2025年01月01日 | 故玩館日記

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