はやうよりわらはともだちな
りし人にとしごろへて行きあひ
たるがほのかにて十月十日のほど
月にきほひてかへりにければ
めぐりあひてみしやそれともわかぬ
まに雲がくれにしよはの月かな
※紫式部集、新古今和歌集では、「月かげ」となっているが、ドラマでは百人一首の「月かな」となっていた。
光る君へ 「めぐりあひて」考察
ー大石静氏の着想は?ー
1 めぐりあひて
NHK大河ドラマ光る君へ「最終回 物語の先に」に、まひろが紫式部集を賢子に託すシーンがあった。
(53:03)
賢子 新しい物語?
まひろ いいえ。これは私の歌を集めたものなの。貴女の手元に置いてちょうだい。
賢子 めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よはの つきかな
賢子 幼友達を詠んだ歌なのですね。
まひろ ええ。。。
賢子 母上にも友達がいたなら、フフ、良かったは。
この歌の中に、「雲隠れ」と言う詞がある。これは、源氏物語の巻名のみ残されている光源氏の崩御を描いた「雲隠」でもあり、雲隠には貴人の死と言う意味がある。この詞の歌を紫式部集の冒頭にもってくるのは、不吉と忌まれるものと思われる。
この詞書の「はやうよりわらはともだちなりし人」とは、どんな人だろう?と大石氏は考えたのではないだろうか?これを、道長であるとすれば、まったく歌の解釈が違ってくる。
三郎と巡り会って、私の人生が変わったのに、今から思うとほんのひとときで、逢ったのかも分からない短かった。それなのに貴方は雲隠してしまった。月の光のような道長様。
と、道長と歩んできた人生を振り返る哀傷歌となると推察する。
これを、道長とで出来た娘である賢子に託し、「これが私と貴女の父である道長様と生きて来た人生なのよ」と言わんばかり。「まひろ ええ。。。」にも複雑な表情をしていた。
ドラマでは、何度も月のシーンが出てきた。しかも十日月が多く、この歌を意識しての挿入だと思う。
紫式部と藤原道長が幼友達だったと言う発想が、このドラマの着眼だと推察する。そしてタイトルの「光る君へ」とは、月影、道長を指すと考える。ただし、ドラマでは、「月かな」としており、「月影(月光)」としないと、「光る君へ」の「光る」とはならない。
2 菅原孝標女登場の意味
菅原孝標女は、更級日記の作者で、少女時代に源氏物語に触れ、文学少女として光君に傾倒した者である。ここに何故孝標女を登場させたのか?について考えて見た。
(22:27)
ちぐさ 物思いばかりして、月日が過ぎた事も知らず、この年も、我が生涯今日で尽きるのか?一日からの行事を格別なものとするよう親王、大臣への御引出物、様々な身分の者への禄などを、またとない程御用意された、とか。(※源氏物語 幻)
ナレーション この娘は、菅原孝標の娘で、後に更級日記の作者となる。
ちぐさ こんな所で終ってしまうなんて、可笑しくありません?
まひろ そうかしら。
ちぐさ 光る君の最後を書かなかったのは、何故だと思いになります?
まひろ さあ?
さぐさ この作者の狙いは、男の欲望を描く事ですわよ、きっと。それ故、男達の心も引きつけたのです。
まひろ フッ、なるほど。
ちぐさ 男達に好評でなければ、これほど世に広まりませんもの。
ちぐさ それと、読み手の女達が、作中の誰かに、己を重ね合わせられるよう、様々な女を描き出したのでしょう。その為に、女たらしの君が、次から、次へと、女の間を渡り歩く事にしたです。
ちぐさ つまり、光る君とは、女を照らし出す光だったのです。
まひろ ふふ。
続いて現れた清少納言との会話で、孝標女との出会いは、市で偶然落とした源氏物語の本を拾ったからと、将に取って付けた樣な理由となっていて、不自然ではある。
源氏物語は、架空の男女それぞれを描き出す事によって、読み手に重ね合わせる事を目的としているのでは?との大石氏の推察ではないだろうか?
また、清少納言との会話で、一条帝の心を枕草子と源氏物語で掴み、時代を動かしたと自慢し合う所に、この物語らの意味を見い出したと思う。
つまり、孝標女とは、かつて文学少女だった大石氏そのものであり、彼女の源氏物語の感想を、孝標女に語らせたのではないだろうか。
3 源氏物語 雲隠の解釈
まひろが、北の方倫子から法成寺に呼ばれ、道長の為に、余命を伸ばしてくれと依頼され、道長に会う事になる。そこで、源氏物語の雲隠のタイトルのみの秘密を打ち明ける。
(34:43)
道長 先に、、、行くぞ。
まひろ 光る君が、死ぬ姿を書かなかったのは、「幻」が、何時までも続いて欲しいと願った故です。
まひろ 私の知らない所で道長様が、お亡くなりなってしまったら、私は「幻」を追い続けて、狂っていたやも知れません。
道長 清明に寿命を十年やった。やらねば良かった。幾度、も悔やんだ。いや、そうではない。俺の寿命は、ここまでなのだ。
※清明に寿命を十年やった。 第30回「つながる言の葉」で、安倍晴明の雨乞祈祷に、道長の寿命を10年与えた。
ここで、紫式部の言葉として、雲隠の題名のみの理由を告白される。もちろん大石氏の推察である。
布線として、隆家がまひろを訪問した時、まひろは白居易の長恨歌を読み返していた。もちろん、その前に、ちぐさ(菅原孝標女)が訪問し、読み上げ、解釈したのは、源氏物語の幻帖である。この源氏物語の幻とは、桐壺からの本文(参考とした漢詩)は長恨歌である。
4 その後の後書
その後の展開から、いくつか思った事がある。
道長 もう、物語は、書かんのか?
まひろ 書いておりません。
道長 は~。新しい物語があれば、それを楽しみに生きられるやも知れんな。
まひろ では、今日から考えます故、道長様は生きて、私の物語を世に広めて下さいませ。
道長 フッフッフッ。お前は、何時も俺に厳しいな。
この後、三郎と鳥を逃がしてしまった少女の物語を、まひろは語る。源氏物語を作った紫式部しては、少し稚拙な物語だなと思った。そして、毎日物語を道長に聞かせて、延命を図るまひろを見て、同じく中世物語の崇高の千夜一夜物語を思い出した。
千夜一夜は、女性に不審を思ったシャフリヤール王は、街の生娘を宮殿に呼び一夜を過ごしては、翌朝にはその首をはねた。大臣の娘シェヘラザードが、妻の名乗りを上げ、一夜一話の物語を話し、「続きは、また明日」と次の日まで、シェヘラザードの命を繋いだ。そして千日目、遂にシェヘラザードはシャフリヤール王の悪習を止めさせる。この話を、逆に相手の命を繋ぐために、まひろが物語を、道長に聞かせるとしたのでは無いだろうか?
また、道長臨終後、まひろと道長とが結ばれていた手を、倫子がそっと布団の中に入れる。言葉では、道長とまひろの恋情を許しても、本心では許していない。そう言う風に思えた。
(56:04)
乙丸 双寿丸!
双寿丸 こんな所で何をしているんだ?
まひろ 何にも縛られずに生きたいと思って。
双寿丸 東国で戦が始まった。これから朝廷の討伐軍に加わるのだ。
まひろ 気を付けてね。
双寿丸 そっちこそな。はっ!
まひろ 道長様。。。
まひろ 嵐が来るわ。
唐突に終るのは、源氏物語でも同じ。この「嵐が来るわ」を見ていて、平忠常の乱(長元元年(1028年)6月)の勃発から、これから武士の時代が来ると予見するものとされる。しかし、この場面を見て、私はターミネーターの最後のシーンを思い出した。ターミネーターとの戦いに勝ち、メキシコに向かうサラ・コナーが、これから始まるスカイネットとの戦いを思い、「嵐が来る」と伝えられたサラの「わかってるわ」と答えて終る。唐突な終り方だが、道長との物語の後には、武士がいないと、世の中が治められない時代となる予兆と捉えている。源氏物語の終り方より、意味深である。
今まで、ドラマの小道具として使ってきた和歌、漢詩、催馬楽、雅楽などを紹介して、少しでもドラマに違う興味を持って欲しいと思って来たが、最終回と言う事で、自分の考察を感想を述べる。最終回なので、愚考にご容赦を。