源氏物語 篝火
五、六日の夕月夜は疾く入りて、少し雲隠るゝ景色、荻の音もやう/\哀れなる程になりにけり。御琴を枕にて、もろともに添ひ臥し給へり。 かゝる類ひあらむやと、うち嘆きがちにて夜更かし給ふも、人の咎め奉らむ事を思せば、渡り給ひなむとて、御前の篝火の少し消えがたなるを、御供なる右近の大夫を召して、灯し点けさせ給ふ。
いと涼しげなる遣水のほとりに、景色ことに広ごり臥したる檀の木の下に、打松おどろ/"\からぬ程に置きて、さし退きて灯したれば、 御前の方は、いと涼しくをかしきほどなる光に、女の御樣見るに甲斐あり。御髪の手あたりなど、いと冷やかにあてはかなる心地して、うちとけぬ樣に物をつゝましと思したる気色、いとらうたげなり。帰り憂く思しやすらふ。
「絶えず人さぶらひて、灯し点けよ。夏の月なき程は、庭の光なき、いとものむつかしく、おぼつかなしや」と宣ふ。
篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬ炎なりけれ
「いつまでとかや。ふすぶるならでも、苦しき下燃えなりけり」と聞こえ給ふ。女君、あやしの有樣やと思すに、
行方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば
「人のあやしと思ひはべらむこと」
とわび給へば、「くはや」とて、出で給ふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、箏に吹きあはせたり。
「中将の、例のあたり離れぬどち遊ぶにぞあなる。頭中将にこそあなれ。いとわざとも吹きなる音かな」とて、立ち止まり給ふ。
篝火を点けさせ給ひて
源氏
篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬ炎なりけれ
意味:この篝火の立ち昇る煙のような私の貴女への恋の思いは、絶える事の無い炎なのですよ
返し
玉鬘
行方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば
意味:貴方の人知れず恋い焦がれている想いは、行く方も知らない空で消えて下さい。篝火と同じ立ち上る煙と同じ思いならば。
※下燃えなりけり
夏なれば宿にふすぶる蚊遣火のいつまでわが身下燃えをせむ(古今集恋一 よみ人しらず)
篝火
右近大夫
源氏
童
秋郊鳴鶉図 署名及び落款 東京国立博物館蔵
(正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年))
江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
26cm×44cm
令和5年11月5日 九點零貳伍/肆