せんゆうじ
泉涌寺

せんゆうじそうもん
泉涌寺惣門
しんくまのやしろ
新熊野社

東山泉涌寺は大和大路一の橋の東にあり。當寺の初は弘法大師の開
基なり。其後文徳帝の御宇齊衡三年に左大臣緒嗣公再建あつ
て天台宗となし仙遊寺と號す。此山に仙人遊びしゆへなり。中興の
開山は俊芿法師號は我禅。それより以來天台眞言禅律の四宗を
兼学す。當山の麓に霊泉涌出しければ號を泉涌寺と改む。
抑俊芿法師は肥後國飽多郡の人なり。仁安元年八月に誕し四歳にて
天台池邉寺の珍暁が弟子となり十八才にて落髪し十九歳にして
太宰府の観音寺にて具足戒をうけ三十三才にて律宗を傳ん
ため宋國にわたり四十六才にして嘉定四年二月廿八日帰朝せり。
建保六年に和州の刺史中原信房が崇敬によつて我領地泉涌寺を
寄附せり。夫より當寺に住職して後掘川院の御宇嘉禄三年
閏三月八日六十二才にして遷化せり。
天子の官寺となる事は八十六代四條院を権輿とせり。此帝降誕の時

我禅々々と宣り。俊芿我禅和尚再生して天子の位に昇り四條院と
出誕し給ふよし人の夢に見えけるとぞ。是より以来代々の帝當山へ
葬り奉る。陵は前帝神主殿の前にあり。
佛殿の本尊は勒弥釋迦阿弥陀の三尊を安置す。東山といふ額は
張即之の筆なり。
舎利殿の本尊は佛牙の舎利なり。二重の金塔に安置す。抑此佛
牙の由来を尋に佛涅槃に入り給ふ御時羅刹足疾鬼ひまを窺ひて
佛牙を掠奪たりしを韋駄天降伏をくはへ取とゞめ昼夜に敬て
身を放し給はず。然して佛滅後一千六百余年を經て大唐の白蓮寺道宣
律師戒香薫修の威徳冥感にも通じけるにや。韋駄天かたちを顕し
三皈八戒をうけ得て其報恩に此佛牙をさづけ給へり。夫より人間に傳り
白蓮寺に納め金閣の寳函に秘しおけり。日本に渡り給ふ事は當山中
興の開基俊芿法師の末弟湛海我師の宋國に渡りし芳蹟を慕ひて

白蓮寺に詣し赤栴檀を供じて佛牙を恭礼し仰信のあまり竊に舎
利を懇望のよし述けれども叶はずして空しく本朝に帰しが猶志願やむ事なく
かさねて入唐し二階の楼門三重の塔婆をかまへて舳艫を滄溟にうかべ事ゆへ
なく紅隠軍に至りしかば白蓮寺の修造成就し大衆等甚深の志を感じ其
徳の凡人にあらざる事を知りて酬答たゞ来賓に任すべきよし衆命一同なり
しかば是以万里渡海の本懐は偏へに佛牙の求請にあり、二度來朝の素願
しかしながら舎利の利益を思ふよし具に述ければ忽佛牙の付属をゆるし
けり。歓喜の涙をおさへて帰帆の纜をときことゆへなく彼御舎利を本
朝にうつし當寺の本師と崇奉る。
観音堂の本尊聖観音は玄宗皇帝楊貴妃に別れ給ひて追善のため
妃の貌をうつして作り給ふ。補陀落山の額もこの帝の筆也。(洛陽観音
巡りの其一也)
新熊野観音は弘法大師の作なり。西國巡礼観音の其一なり。
新熊野社は後白川法皇の御願にして紀州熊野三所権現を勧請せり。


