(ウェッブリブログ 2010年02月14日~)
1 はじめに
元久詩歌合というのは、藤原良経が企画し、後鳥羽院が催した元久二年(1205年)六月十五日、院の五辻御所で行われた、漢詩と和歌の歌合である。漢詩と和歌という異なる詩同士を競わせるという変わった催しで、以後詩歌合の模範となり、建保元年内裏詩歌合などに引き継がれてゆく。
この詩と歌を競わせるという発想は、堀川貴司氏の「『元久詩歌合について』詩の側から」によると、元久詩歌合の前に、藤原良経が、詩と歌を合わせたものは、正治二年(1200年)閏二月二十一日法性寺邸、同年十二月九日法性寺邸と建仁三年(1203年)八月一日の三回あり、それぞれの試行錯誤を経て三回目の元久詩歌合と繋がって方式が固まったとある。[4]
元久詩合の経過は、藤原定家の明月記に詳しく載っており、元久二年四月二十九日に「参殿下、大僧正参給、頭弁伺候御前」とあり、良経邸で、良経、慈円、長兼の詩歌合の企画が持ち上がり、出題と歌人を定家に任され、題は「水郷春望」、「山路秋行」となった。
歌側は、慈円、良平、有家、定家、保季、家隆、雅経、具親、讃岐(欠席)、丹後
詩側は、良経、良輔、資実、親経、長兼、為長、宗業、成信、孝範、信定
と決まった。[9]
その後、五月三日、後鳥羽院が参加を望み、家長も参加を許された。院が参加するとなったので、今までの良経の私的な催しから、公的なものとなり、参加者も院側近などが加わり、
詩側は、在高、頼範、盛経、宗行、家宣、行長、宗親と不明者二人。
歌側は、通光、蓮性、大納言局、行能、業清、長明、秀能、俊成女、家長そして後鳥羽院(親定という偽名を使って参加)
五月十二日には良経によって結番も決まり、六月十五日に開催された。なお、この時定家は、蟄居と記載されており、当日は欠席したものと考えられている。
元久詩歌合は、内閣文庫本(写真)、群書類従本、彰考館蔵本、後藤重郎蔵本があり、いずれも作者名や詩、判が闕落している不完全な書写のものが、現在まで伝わっている。[1]、[11]
なお、全文は、元久詩歌合 その1 その2 その3 その4を参照されたい。
漢詩には、平仄があり、平仄が合わないという慣用句まであることから、それらの詩の平仄、韻により、闕落部分などを推測してみたいと思う。
なお、平仄や韻、孤平など漢詩のルールは、獅子鮟鱇氏の指導を仰いだので、感謝申し上げる。
2 元久詩歌合における漢詩の平仄
(1) 詩歌合 水郷春望 山路秋行 平仄等一覧
○=平、●=仄、山・陽=韻の種類
番 詩及び平仄、韻 氏名 勝負 備考
春一番 土俗地低春草底 海仙樓遠曙雲間 攝政対家隆 勝
●●●○○●● ●○○●●○山
春二番 沙村遥屬煙霞境 水澤半呑花柳山 〃 勝
○○○●○○● ●●●○○●山
秋廿七番 闕 〃 闕
秋廿八番 闕 〃 闕
春三番 渭北曉霞消雁陣 江南春柳隔漁郷 良輔対通光 負
●●●○○●● ○○○●●○陽
春四番 百花亭外胡天遠 五鳳樓前伊水長 〃 勝
●○○●○○● ●●○○●●陽
秋卅五番 闕 〃 闕
秋卅六番 闕 〃 闕
春五番 海燕翅低花嶼遠 潮鶏聲曙柳煙孤 資實対慈円 持
●●●○○●● ○○○●●○模
春六番 潯陽春色連鑪岫 抗縣風光屬鏡湖 〃 闕 地→岫
○○○●○○● ●●○○●●模
資実長兼百首詩合より
秋卅三番 闕 〃 闕
秋卅四番 闕 〃 闕
春七番 風頭松動客帆遠 雲外雁歸孤島賖 闕対有家 持
○○○●●○● ○●●○○●麻
春八番 江縣月清天又水 湖山春深浪將花 勝 平仄が
○●●○○●● ○○○○●○麻 合っていない
秋卅一番 闕 〃 闕
秋卅二番 闕 〃 闕
春九番 海岸孤松雲外見 江村遠柳雨初新 闕対蓮性 勝
●●○○○●● ○○●●●○真
春十番 意留何處放遊客 樂在其中漁釣人 〃 勝 鈎→釣
●○○●●○● ●●○○○●真 群書類従により改
秋廿九番 闕 〃 闕
秋卅番 闕 〃 闕
春十一番 千程春浪駅船路 一穂暮煙潮戸堤 長兼対定家 持
○○○●●○● ●●●○○●斉
春十二番 遠雁消霞湖月上 驚鵜拍水海雲低 〃 勝
●●○○○●● ○○●●●○斉
秋廿七番 闕 〃 闕
秋廿八番 闕 〃 闕
春十三番 沙村漁税輸霞色 浪駅棹歌和鳥聲 在高対家長 負
○○○●○○● ●●●○○●清
春十四番 青草湖遥舟一隻 紅桃浦遠路千程 〃 持
○●○○○●● ○○●●●○清
秋廿五番 峡猿一叫旅人思 雲雁幾行遊子心 〃 負
●○●●●○● ○●●○○●心
秋廿六番 闕 〃 闕
春十五番 雨展渚蒲裙帶葉 風翻江柳麹塵波 頼範対大納言局 持
●●●○○●● ○○○●●○戈
春十六番 煙村酒旆穿花見 夜岸漁舟篝火過 〃 負
○○●●○○● ●●○○○●戈
秋廿三番 旅店酒醒嵐拂面 樵谿草悴露霑衣 〃 負
●●●○○●● ○○●●●○微
秋廿四番 岩梯峰遠蹈雲過 巌洞霧開帶月歸 〃 勝 開が孤平
○○○●●○● ○●●○●●微
春十七番 杭酒酌花遊客盃 湓魚輸税釣郎船 宗業対保季 勝 盃は平仄が合わない。
○●●○○●○ ○○●●●○仙 鈎→釣 群書類従により改
春十八番 江心晩浪淸浮月 湖上春山靑倚天 〃 持
○○●●○○● ○●○○○●仙
秋廿一番 樵衣更薄嶺風響 鞭袖屢霑山雨音 〃 勝
○○●●●○● ○●●○○●侵
秋廿二番 虚牝埋蹤秋霧谷 羇雌覓宿夕陽林 〃 持
○●○○○●● ○○●●●○侵
春十九番 潮來海樹薺猶短 浪去汀松花不留 爲長対雅経 負 類従では、朝だが、
○○●●○○● ●●○○○●戈 大観の潮のまま
春廿番 春径草靑湖北岸 曉江月白郡西樓 〃 持
○●●○○●● ●○●●●○候
秋十九番 蝉聲滿耳商風急 猿叫斷腸巴月閑 〃 闕
○○●●○○● ○●●○○●山
秋廿番 寒雨聞鐘尋晩寺 白雲假路過秋山 〃 負
○●○○○●● ●○●●●○山
春廿一番 極浦風和遥渡岸 廻塘柳嫩僅無塵 盛經対丹後 持
●●○○○●● ○○●●●○真
春廿二番 霞光爛爛江村夕 草色靑靑湖水春 〃 持
○○●●○○● ●●○○○●諄
秋十七番 雲暗曉埋樵客跡 月晴夜照旅人夢 〃 負
○●●○○●● ●○●●●○東
秋十八番 巌扉露滴苔痕白 山館蝉鳴木葉紅 〃 負
○○●●○○● ○●○○●●東
春廿三番 松縣花芳輸酒地 浮梁風暖賣茶人 宗行対行能 闕
○●○○○●● ○○○●●○真
春廿四番 銭塘湖上曉霞薄 錦水橋邊宿草春 〃 闕
○○○●●○● ●●○○●●諄
秋十五番 黛色露來連岫曉 鈴聲嵐去故關秋 〃 負
●●●○○●● ○○○●●○尤
秋十六番 黔陽月滿行人路 隴上風閑遠戎樓 〃 勝
○○●●○○● ●●○○●●候
春廿五番 渭北煙靑斜岸草 湖東雲白遠山花 成信対具親 勝
●●○○○●● ○○○●●○麻
春廿六番 竜文水浄遥連漢 蜃気樓高半入霞 〃 闕
○○●●○○● ●●○○●●麻
秋十三番 落葉霜深人事少 荒榛露亂鹿蹤多 〃 持 韻が合わない
●●○○○●● ○○●●●○歌
秋十四番 幽情薊北千山月 行色巴南一嶂雲 〃 持 韻が合わない
○○●●○○● ○●○○●●文
春廿七番 長河浸月煙波遠 孤島帶花雲樹低 信定対業清 勝
○○●●○○● ○●●○○●斉
春廿八番 江岸晴沙靑爲草 湖田春水白無畦 〃 勝 為? ×
○●○○○○● ○○○●●○斉
秋十一番 渓鳥一聲秋霧暗 峡猿群宿暮雲閑 〃 勝
○●●○○●● ●○○●●○山
秋十二番 秦呉路遠月猶月 巴蜀境移山又山 〃 勝
○○●●●○● ○●●○○●山
春廿九番 鑪岫雁歸波月白 蘇州柳暗水煙靑 孝範対長明 持
○●●○○●● ○○●●●○青
春卅番 江南春樹千茎薺 湖上晩船一葉萍 〃 持 船が孤平なので
○○○●○○● ○●●○●●青 晩が間違いか
秋九番 林館題書紅葉紙 巌扉同宿碧蘿帷 〃 勝
○●○○○●● ○○○●●○脂
秋十番 二崤路僻秋雲色 八字山垂曉月眉 〃 闕
▼●○●●○○● ●●○○●●脂
春卅一番 春山斜繞湖三面 夜泊先聞湖一聲 家宣対良平 持
○○○●○○● ●●○○○●清
春卅二番 岸勢半添堤柳力 郡圖初記海花名 〃 持
●●●○○●● ●○○●●○清
秋七番 雁陣過林風物遠 鹿蹄踏葉雨聲幽 〃 持
●●○○○●● ●○●●●○幽
秋八番 卷舒深洞白雲夕 管領空山蘿月秋 〃 持
●○○●●○● ●●○○○●尤
春卅三番 海隅求泊雲無跡 湖上停船月作隣 行長対秀能 闕
●○○●○○● ○●○○●●真
春卅四番 楊柳一村江縣緑 煙霞万里水郷春 〃 闕
○●●○○●● ○○●●●○諄
秋五番 鳥路煙均河漢上 竜門水冷洛陽西 〃 闕
●●○○○●● ○○●●●○斉
秋六番 行人随月過鑪岫 旅客與雲宿碧嵆 〃 闕 雲が孤平
○○○●○○● ●●●○●●斉
春卅五番 長堤草縷展草毯 斜岸柳絲宛麹塵 宗親対俊成女 持 草同字重複で六字目の
○○●●●●● ○●●○●●真 草●の平仄。絲が孤平
春卅六番 渡口呼舟霞隔夕 潭心成字雁歸辰 〃 持
●●○○○●● ○○○●●○真
秋三番 眼疲胡雁參雲翅 腸斷巴猿叫月聲 〃 持 韻が合わない
●○○●○○● ○●○○●●庚
秋四番 碧澗過來猶碧澗 紅林行盡又紅林 〃 闕 韻が合わない
●●○○○●● ○○○●●○侵
春卅七番 湖南湖北山千里 潮去潮來浪幾重 親経対親定御製 闕
○○○●○○● ○●○○●●鐘
春卅八番 風緑杭州春柳岸 煙靑呉郡暮江松 〃 闕
○●○○○●● ○○○●●○鐘
秋一番 麋鹿無蹤村葉滿 樵蘇有路峡煙開 〃 闕
○●○○○●● ○○●●●○灰
秋二番 雲歸巌岫共誰宿 月自家山送我來 〃 持
○○○●●○● ●●○○●●灰
(2) 誤字考察
① 春六番は、資実長兼百首詩合によると潯陽春色連鑪地ではなく、潯陽春色連鑪岫とある。少なくとも資実長兼百首詩合は、漢詩に精通した藤原教家が収集し、書写していると考えられることから、岫(シュウ)とした。
② 獅子鮟鱇氏によると、春八番の「湖山春深浪將花は、平仄があっておらず、深が淺の誤字であろう」としている。また、春が深かったら将に花ならんとすではなく、もう春の花は散っている頃であり春淺が正しいとしている。
③ 春十番、十七番のは、群書類従には釣とあり、獅子鮟鱇氏も漁鈎人(うおはりひと)じゃ意味が通じないとしている。従って釣の誤写と考えられる。
④ 春十七番の杭酒酌花遊客盃は、○●●○○●○となり、獅子鮟鱇氏は、盃について「仄声でなければなりません。正しくは,盃(さかずき)○ではなく,盞(さかずき)●ではないでしょうか」とあります。書写した者が、同じさかづきであれば、どちらの漢字を使っても良いと勘違いした可能性が大きい。
⑤ 孤平は、近体詩において、巌洞霧開帶月歸○●●○●●○の様に、四字が仄音に挟まれた平は良くないとされております。しかし、梁の沈約が定めた詩病と言われるものは、平韻、上尾、蜂腰、鶴膝、大韻、小韻、正紐、旁韻の八つであり、孤平はそれに含まれていない。従って、鎌倉時代に孤平を意識していた形跡が無いことから、春卅番、秋廿四番はそのままの可能性が大きい。晩船という単語も杜荀鶴の登石壁禅師水閣詩が和漢朗詠集にあり、帯月帰というのも茶道用語にあるので、そのままとべきであろう。
⑥ 秋十三番と十四番(成信)、秋三番と四番(宗親)は、韻が合わない。これは、堀川氏によると、「異なる韻で二首作ったのだろうか」いくつかの聯の内、異なる聯を出詠した可能性があるとある。(4)
3 書写者
書写者の性格を推察してみると。
① 漢詩をあまり知らない。漢詩にあまり興味がない。
② 漢字をあまり知らない。
③ 山路秋行 廿六番以降の漢詩は書写すらしていない。
④ 出泳者の役職などは、詩側はほとんど記載されていない。
となる。つまり書写者は、和歌を書写しようとしたが、元久詩歌合の場合、漢詩も書写しなければならない。面倒なので適当に書写した。
4 作者闕
(1) 闕者1
春七番、八番、秋卅一番、三十二番の作者を便宜的に闕者1として、その者を考察する。
この闕者1は、出席者名にもない、良経らが当初企画した参加者にもない。詩にも氏名が無いことから、後鳥羽院が参加するということで、後から追加された者で、詩歌合の披講にも名前が伏せられていたと思われる。従って記録にも残さなかったと推察される。
闕者1の成績をみると一勝一持二不明となっており、身分の下位者がまず一勝するというのは、通常考えられない。また、春八番は、明らかに平仄が合っていない。この詩歌合は、当代一の漢詩人と和歌歌人が集まって行われたことから、平仄が合っていない様な素人が出詠するとは思えない。しかも、その平仄が合っていないのを勝ちとしている。
そういった事を考慮すると、闕者1は特別な身分の人、つまり後鳥羽院を置いて他には考えにくい。
後鳥羽院は、歌、蹴鞠、刀、今様など何でも興味を示し、それぞれ達人の域まで達したと言われる。蹴鞠では、古今著聞集 蹴鞠第十七 414に、「後鳥羽院を御鞠の長者と號し奉るべき由按察使泰通等表を奉る事」に、
「後鳥羽院は、御鞠無雙の御事なりけり。承元二年四月七日、此道の長者と號し奉るべきよし、按察使泰通卿、前陸奥守宗長朝臣、右中將雅經朝臣連署して表をたてまつりけり。」とある。
しかしながら、こと詩に関しては、そういった事が聞こえてこない。公卿の必須の教養であるのは、間違いない。あの定家ですら、良経の詩会に何度か出詠しており、とても苦手だと名月記に記載している。
後鳥羽院は、和歌でもこの詩歌合に左馬頭藤原朝臣親定(横に御製と記してある)として、出詠しているが、後に後鳥羽院の歌を代表する
見渡せば山本かすむ水無瀬川夕は秋となに思ひけん
を出詠し、新古今和歌集に撰歌された。歌の成績は三不明一持であるが、番で合わされたのが、当代随一で新古今和歌集の真名序の作者でもある左大辨の藤原親経であり、良経が番を合わせた時、院は勝てないかもしれないと明月記に記載されている。
もし、実際は負けであると仮定した場合、勝敗を記するのは不敬だということかもしれない。もともと主催者の氏名は、女房とか他の名前で登録されているのは、古来勝敗などで御名に傷が付くとかだがが、その場にいたものは、誰の詠か分からないと大恥を掻くといことになる、無記名の場合は大変気を遣うものと推察される。
後に催された建保元年内裏詩歌合(1213年二月廿六日)は、出泳者の役職、詩、歌、勝敗ともほぼ完璧記載されおり、元久詩歌合も本来はこの様に書かれていたと推察される。しかし、建保内裏歌合でも女房(順徳天皇)の歌の判は、一カ所闕となっており、おそらく相手方が勝ったのだが、判は畏れ多いと記載しなかったものと推察される。
ちなみに慈円、資実の春六番も闕となっており、おそらく大僧正という格上の慈円が負けたのであろう。行長、秀能も四番とも闕となっている。
この歌の勝敗三不明一持からして、詩の方で勝ちにしないと院の御機嫌を損ねる可能性もあったと推察すべきであろう。
(2) 闕者2
春九番、十番、秋廿九番、卅番の作者を便宜的に闕者2としする。当初メンバーではなく、後から追加されたものとされる。この成績をみると、二勝二不明である。
氏名を明らかにせず、勝ちに出来る者は、よほどの身分の高い者である。しかも漢詩としては、平仄も合っており、韻も一致している。秋廿九番と卅番の詩が書写者の怠慢で闕となっているのは、残念なことである。
ここで、突拍子もない説を上げると、近衛基通が考えられる。
近衛家は、九条家のライバルであり、基通は、藤原氏の氏長者として、平家政権時代の関白、摂政となり、木曽義仲によって一旦は解任され、再び復職し、義経院宣事件で解任、篭居。叔父の九条兼実を隠居に追い込み、良経の左大将を解任、慈円も延暦寺座主を追われた建久七年の政変で再び関白となり、土御門天皇践祚によって摂政となった人物である。
もう一人可能性として考えたのは、基通の子家実である。家実は、元久当時左大臣、つまりナンバー2となっており、良経が急逝して摂政を引き継いでいる。
彼の日記である猪隈関白記には、自邸で度々作文を開いており、この詩歌合に後からメンバーとして加わった漢学者を招いている。自邸で度々作文を開いており、この詩歌合に後からメンバーとして加わった漢学者を招いている。
良経家の私的行事であれば、当然招かれるはずもないが、後鳥羽院が参加となった以上、公の行事となり、基通も参加資格はあったと考えられる。もちろん、会場に姿は見せることなく、近衛家側の漢詩人より届けられたのであろう。参加の決断は、もちろん後鳥羽院にあるが、摂政の良経の機嫌を損ねてはいけないとの判断もあってのことと推察する。
(3) 信定
春廿七番、廿八番、秋十一番、十二番の信定は、明月記にも名前が時々出てくる者ではあるが、六百番歌合における慈円の伏名でもある。
信定が業清に対し4勝無敗である。
明月記に記載がある官位の低い信定であれば、四勝はしない。つまり、慈円座主が漢詩でも参加したのではないだろうか。慈円であれば、四勝は当然である。
5 闕詩
元久詩歌合には、山路秋行の廿六番から欠落しているのは前に述べたが、大伏晴美氏の「元久詩歌合について」によると、資實長兼百番詩合の題の水江(水郷)春望の両者の詩が一致すること(両書を比較すると資実の詩の地が岫となっていた)、建保内裏詩歌合の時の詩も一致する事から、その詩合の山路秋行がおそらく元久詩歌合の時の欠落した詩であろうとしている。ただ、山路秋行の題と二聯の一つが合わないので、結論を保留している。
資實長兼百番詩合とは、藤原資実と藤原長兼の二人の聯を藤原良経の次男教家が百首撰んで記載し、判は畏れ多いので消したとあります。また、両者の詩の題が必ずしも一致しない、番形式になっていないというものである。
山岸徳氏の群書解題によるとこの両者の百詩の聯は、「律詩中の頷聯か頸聯かの一つの聯を取り出して合わせた。」とあり、頷聯、頸聯であれば、二聯で韻を踏み、前後の句は対になり、平仄もそれに従うこととなる。
資実
桂子落峯秋月靜 松涼滿澗晩蝉稀
●●●○○●● ○○●●●○微
紅林風葉向人冷 白帝霜輿載隠歸
○○○●●○● ●●○○●●微
長兼
渓流澹薄向江落 嶺樹蒼茫與澤連
○○●●●○● ●●○○○●先
万里曉行隨隴月 千山秋路接巴天
●●●○○●● ○○○●●○先
これを見ると、韻が揃い、対句も合致していて、平仄も合っている事から、一つの七言律詩の頷聯、頸聯の関係にある事が判る。
堀川貴司氏の「『元久詩歌合について』詩の側から」によると、元久詩歌合の前に、詩と歌を合わせたものは、正治二年(1200年)閏二月二十一日法性寺邸、同二年十二月九日法性寺邸と建仁三年(1203年)八月一日の三回あり、それぞれの試行錯誤を経て三回目の元久詩歌合と繋がって方式が固まったとある。その正治二年閏二月の詩歌合では、「詩不書発落句、胸腰句合和歌二首」と各頷聯、頸聯とそれぞれ和歌と勝負がなされたとあり、元久詩歌合の形式はこれを踏襲したものと推察する。この事からも、資實長兼の聯は頷、頸の関係にある。
堀川氏の論文には、律詩各聯の名称と役割として「作文大体」を引用して
発句 亦名題目
胸句 亦名破題
腰句 亦名譬喩亦云比興亦名本文
落句 亦名述懐
と記載されている。つまり、初句(起聯)は、その詩のテーマとなる情景を表し、胸句(頷聯)は、そのテーマを字を変えて違う角度から捉え、腰句(頸聯)は、比喩とか本質を表現し、落句(尾聯)は思いを述べるとしております。
6 結論
漢詩のルールは、平安時代にも厳格に守られていたと考えられ、大江匡房の江談抄には、「三連を避けざる句なり」と平仄として下三連は避けるべき、「四韻の法は同字を用ゐず」と律詩に同字を入れない、「両音の字をもって平声に用ゐて作れる詩は憚るや」と平仄両字は避けなくても良い、「両音の字通用」で、平仄の両音でも義により、使える場合と使えない場合があるとしている。
このように、漢詩にとって平仄は、大事なルールであり、漢詩を作る上で基本となっているが、そのルールを知らない者が書写すると誤字となり、知らない者の詩が勝ちとなることはない。
平安鎌倉時代には、和歌とともに漢詩の作文は公家の必須の教養であったと考えられるが、漢詩について、その記録を喪失してしまったものも多数ある。歴代の天皇が勅撰漢詩集を求めなかったことが、その原因の一つと考えられる。
7 謝辞
獅子鮟鱇氏には、漢詩が分かっていない小生に対し、懇切丁寧に、示唆頂き、感謝を申し上げる。
8 参考文献
(1) 新編 国歌大観 第5巻 歌合編歌学書・物語・日記等収録歌編
(2) 羣書類従 第13輯 塙保己一 編 続群書類従完成会
(3) 群書解題 第8 巻 続群書類従完成会/編 続群書類従完成会
(4) 「元久詩歌合」について―「詩」の側から 堀川貴司著 国語と国文学 71巻1月号 1994年1月
(5) 詩歌合の世界―『元久詩歌合』をめぐって 大伏春美著 新古今集と漢文学
(6) 元久詩歌合の和歌について 斎藤純 解釈
(7) 元久詩歌合私見 斎藤純 解釈
(8) 元久詩歌合について 大伏春美 和歌文学研究 39号 1978
(9) 名所歌小考―「元久詩歌合」臆断― 田尻嘉信 国文学研究 1978
(10) 元久詩歌合の一考察―特に新古今和歌集撰修との関連において― 有吉保著 文学・語学
(11) 大日本史料 第四編 東京大学史料編纂所 東京大学出版