OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

島唐辛子とマイクロトマトの生育 状況報告(4) 硫黄島島唐辛子の緑の実

2009年08月11日 | 植物栽培
うちのプランターで育てている硫黄島島唐辛子の実です。

一番高いところの実のてっぺんに着いているのは、花びらが散ったあとの花の中央部分だったものです。
この大きさにまでなっていれば摘んで、食べれます。
この緑のが、香りが最も鮮烈で、ひきしまるような辛さです。

この緑の実を、摘まずにしばらくおいておくと、だんだんと、オレンジ色から赤にと色を変えていきます。3色混ざった実を摘むのが彩りとしては、一番映えると思います。

島唐辛子は夏が大好きですから、まだ、これからも葉を増やし花が咲き、実の数もどんどん増えます。隣と葉が重なろうが、全然、大丈夫なので、硫黄島で実を摘むときには下の方も探しますし、ギンネムの森の葉の下にも、実をつけている島唐辛子の木を見つけることができます。

うちでは、
前回紹介のマイクロトマトと隣同士のプランターで栽培していますが、
マイクロトマトが緑からオレンジ、赤と実の色を変えるのと逆に、
島唐辛子は、緑からオレンジ、やがて赤になります。
次回はオレンジや、赤の実になってきたら紹介したいと思います。

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島唐辛子とマイクロトマトの生育 状況報告(3) 色がついてきたマイクロトマトの実

2009年08月10日 | 植物栽培
マイクロトマトは、これまでに5個、収穫しました。ブルーベリーの実の大きさですので、5個では、、、さびしすぎます。

写真は緑、オレンジ、赤の色の実が、うまい具合に混ざったの昨日、撮影したものです。

緑からオレンジ、赤と色づいてきます。
今、すでに実ができているうちで、あと、25個ぐらいは、赤い実を収穫できるようになりそうです。

まだ黄色い花が咲いている株もありますので、今後もう少し、実が増えるかもしれないです。

失敗だったのは、「葉っぱが増えればいい」と、放置した結果、
隣の株と葉同士がからみあってしまって、うまく光合成栄養が届かなかった
箇所があって、そういう場所にも実はついたのですが、はるかに小さい
直径5ミリぐらいの実で、色も、緑に白濁色がはいってしまっています。
そういう実は、間っても、大きく赤くなることはないと思います。

初めての今年、種から育てて、ごく僅かですが、赤い実を作ることができました。
今年の失敗から学びましたので、来年は、たくさん、収穫できるように頑張りたいと思います。

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硫黄島のムカデ

2009年08月08日 | 硫黄島・小笠原村
6月の硫黄島、二日目の日程に向けて出発しようとバスを待っている時間に、記念館の近くにいたのを、私どもに見せてくれようとして、木の棒にひっかけて持ってきてくれたのが、このムカデです。
大きかったです。

持ってきて下さった人は、前の晩に、硫黄島と北硫黄島の話をしてくれた人で、
強制疎開の前年までは硫黄島在住で、北硫黄島に引っ越してから疎開をした方で、
前に、鶉石を取るのを、手伝って下さった方です。

ムカデ、全長は20センチぐらいあったと思います。

私が生まれ育った家も、裏が山だったので、たまに大きいムカデも現れましたので、大きさにはそれほど驚きませんでしたが、色にびっくりしました。

「しぶとい。きちんと息の根を止めないと危ないので要注意。
そのためには、途中ではなくて、頭をつぶすこと。」と、実演して
退治の仕方も教えてくれました。

動植物相は、いろいろ混ざってしまっている島だと思います。

・一昨年、巨大なイモ虫群が大量にいるのを見ました。
鶉石がある上陸海岸に下りる道でした。

・島唐辛子は、鳥によって、種が運ばれて増えるのだそうです。
「鳥には、辛い という感覚がないから平気でこれを食べる。」と
聞きました。島唐辛子は、強くてどんどん増えます。
うちのプランターのもどんどん、葉と実を増やしています。


本日、西馬込の「のんぺねこ」に、硫黄島訪問の時にお世話になっている小笠原村議会の方が、ご来店下さいましたので、
自宅で栽培の島唐辛子を初収穫して、持って行きました。
私とは比べ物にならないほど、硫黄島訪問回数が多い方で、私達が訪問する時には
パパイヤ(青いのは果物としてでなく、野菜として食べます。祈念館の食卓にならびます。)取りも担当して下さっている方です。島唐辛子の辛さは十分ご存知です。
たくさんの、アドバイスと、はげましのお言葉をいただきました。


また、ブログのプロフィール写真を変えました。
我が家のパンダマウスです。小さくて、手がかかりません。
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平和祈念館建物 全景

2009年08月07日 | 硫黄島・小笠原村
2002年にできた硫黄島平和祈念館の建物の全景です。
この施設ができたおかげで、年に一度の小笠原丸での慰霊墓参帰島の時に
私たちが、硫黄島に一泊できるようになりました。

上陸地点からの釜岩からも遠くなく、正面に監獄岩が見える位置です。
大阪山砲台跡、壁画、医務課壕が近くにあります。


この写真は、平和祈念館前の周回道路を渡って、海側に下りたところが
草が生えて広場のようになっている場所から撮影しました。

写真の左後ろ側が、大阪山砲台に続く壕の入り口や弾痕痕が多く見られる、
赤い土が露出していて急な斜面になっているあたりです。


建物前左側に二つ、テントが張ってあります。
二つのうちの右側のテントの下に、先輩たちが植えた
がじゅまるの木があります。

左側のテント。
今年の6月硫黄島1日目の夕方、私が走っていた時に、大きな島唐辛子の木に、先輩方数人が群がって、長い時間をかけて、実だでけではなく葉っぱを丁寧に取る作業をしていて、「島唐辛子の葉の醤油煮」にしてもらった話を先に紹介しました。
その木が持ち込まれて、新聞紙に葉っぱが摘み取られて重ねられ作業がされていたのが、左側のテントの下でした。
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平和祈念館前のがじゅまる

2009年08月06日 | 硫黄島・小笠原村
慰霊墓参訪島歴が多い先輩方が、私たちが宿泊することができる平和祈念館の前に植えたがじゅまるの木です。

この木の写真を、昨年もブログに投稿しました。

1年で、それほど目立つような急成長で大きくなってはいないな、と感じました。南国ですから、植物が大きくなるのは早いのですが、1年で、「こんなに大きくなったのか」というほどではありません。

ということは、
森で目にするがじゅまるたちは、相当年数経っているということだと思います。巨大な木はがじゅまる以外にも、かなりあります。

激戦終結から64年半です。

おそらく、立派ながじゅまるなどは戦前から残ったものだと思います。64年は長い時間ですが、戦後だけであれだけ大きくなったとは考えにくいです。

戦争が終わった時に、どれぐらいの植物が焼かれて島が丸裸にされてしまっていて、どれぐらいが米軍によって戦後植栽されたものかは分かりませんが、今の硫黄島は、巨大な戦前からの木々と、戦後の植物とが混在しているのではないかと思います。


祈念館のこの、がじゅまるが立派な大きな木になる頃まで、戦前硫黄島在住島民のコミュニティが活発に活動を続けていて帰島という夢がかなっているようにと、そういう祈りで、先輩たちがこの木を植えたのだと思います。

このがじゅまるの木の上に、私たちの滞在の時には、休憩日よけ用にテントが張られています。
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アオウミガメの「雄優」と「たわし」の里親カードが届きました。

2009年08月05日 | 硫黄島・小笠原村
小笠原「海洋センター」から 「雄優」と「たわし」の「里親カード」2枚を郵送いただいたのが、本日、届きました。


海洋センター、オリジナル・デザインのウミガメ柄Tシャツを2枚
買ったのですが、とても好評です。
来年の8月まで、海洋センターでお買い物、10%off特典と、カードの裏にあります。
それに、それぞれの固体識別番号と里親名として私の名前を書いてあります。

「6月に見て写真も撮ってきた子ガメたちのうち、できれば、赤っぽい色のを「雄優」、黒っぽい方を「たわし」にしてもらいたいという希望があります。」とお伝えしていたのですが、センターのスタッフの方は、ちゃんと、聡明そうな顔のを「雄優」に、ちょっととぼけた顔の方を「たわし」に、と選んで下さったようです。


9月に入間基地から自衛隊輸送機での日帰りの硫黄島墓参に行く(3年に一回のペースで申込はがきで案内されます。)ことにしました。年に二回、硫黄島に行くのは初めてです。

平和祈念旧島民墓地公園にある、「島民戦没者の碑」、
そこには5人の親類を含む82人の島民で軍属として残って犠牲となった人たちの名前があります。
5人の親類の中に、18歳で戦死した2人の、母の従兄弟で、同じ年齢、学年で、
卒業写真に肩を並べて仲良さそうに写っていた「雄」の字を祖父の甥と、
「優」の字を含む祖父の甥、の名前があります。

その碑に向かって、
「硫黄島には産卵できる浜がないから、寄らないだろうけれど、この
あたりの小笠原の海を泳いでいるから、お二人のお名前から一字ずつもらって名づけた「雄優」の無事を見守って下さい。」と、手を合わせてお祈りしてくることにします。

あ 、  
「ついでに「たわし」というのも、泳いでいますので、そっちも、よろしく。」と、お祈りの時に良い忘れないようにしないと。

ラミネート加工されたカードをスキャナーで読み込んだものです。
上が「雄優」で、下が「たわし」、どちらもたくましく育ちました。
アオウミガメの手(前肢)が全身に対して、かなり大きいことが分かります。

あらためまして、放流と
里親カード送付いただき、ありがとうございました。
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硫黄島神社 祠と 手前のがじゅまる

2009年08月04日 | 硫黄島・小笠原村
もう少し、今年6月訪問で撮影してきた硫黄島の写真を
紹介したいと思います。

硫黄島神社の祠と、その前の、大きいがじゅまるの木の枝の
写真です。

戦前の硫黄島神社がこの場所だったかどうかは、いろいろな
人たちに訊いていますが、「戦前の神社の正確な場所が分からない」という
答えでした。

この場所には、自衛隊の方が 鳥居と祠を復元建立して
下さったのだそうです。

鳥居の次に 左右に大きながじゅまるがあって、その奥に
ややのぼりがあって祠があります。

まるで、神社の左右の狛犬のような位置にある
がじゅまるの木が立派で印象的な配置になっています。
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これまでの投稿記事の「北硫黄島」「南硫黄島」取り違えミスについてのお詫びと訂正

2009年08月03日 | 硫黄島・小笠原村
この写真は、前回紹介の栗林壕の中です。
これより奥に広くなっている場所がある、入っていける部分の中間部分です。
暗くて分かりにくいですが、壕が途中で分岐しています。
硫黄島の壕の全体が複雑にはりめぐらされています。
照明整備されている、この壕と、医務課壕以外のいくつかにも、
これまでに懐中電灯を持って、いくつか入りましたが、分岐と勾配とがあるので
ごくわずかな部分しか行けません。

まだ調査、遺骨収拾が済んでいない壕には、私たちは行きませんが、
そういう壕や危険な壕は、「立ち入り禁止」表示があります。


「北硫黄島」と「南硫黄島」を私が、混同・勘違いしていて、
これまでに投稿した記事のうちの、昨年と今年の少なくとも三つで、
取り違えて写真紹介したり、紹介の文を書いたりしてしまっていることが
分かりました。
ミスがあり混乱させてしまい申し訳ございませんでした。
お詫び申しあげます。

今年の6月訪問の時にも一緒に行った者などから「 北いおう と 南いおう
が、ごっちゃで混乱しているようだ。」と指摘されました。

昨日、過去の記事を確認して気がついたのですが、
昨年6月訪問の時に撮影してきた写真を
「南硫黄島が見えました。」と、紹介したのから間違っていて、
あの記事の写真は北硫黄島のものでした。

「お椀を伏せた形が海から浮いて見える形」を「南硫黄島」と
勘違いしていたせいもあります。

「北硫黄島には戦前人が住んでいて、昭和19年の強制疎開時の
住民は90人」 「南硫黄島は戦前から無人島」
は正しいです。

「あのお椀をひっくり返したように頭を出している島は、
火山の上の部分だけ海上に出ている。人が住める土地などないのも
あの形からも分かる」と思ってしまっていたことから勘違いでした。
正しくは、「南北に二つの峰がある。」そうです。

「おがししょ」さんのブログ「おがさわら ちいさなとしょしつ」の
小笠原丸皆既日食便の記事に北硫黄島の形が分かる写真を載せてくれてい
いますが、確かに二つ峰がある様子が分かります。

二つの峰が南北に並んである北硫黄島が、真南の硫黄島からは、
「一つの山が浮いている形」に見えるのだということを、
やっと、きちんと理解できました。


今年の二つの間違いの記事も、写真を撮った場所と方角を
きちんと確認すれば、「おかしい」ことに気がついていたはずのミスでした。

バロン西の碑のある海岸は島の東側でしたからそこから右手側の崖の横に
うっすら写っていた島のある方角は、北ではなく南。

硫黄島の一番南にある擂鉢山の山頂から、小笠原丸係留場所、釜岩方面
を撮影したのは、北側を撮っていたのですから、その写真の監獄岩の
後に写っていたのは北硫黄島。


勘違いと理解不足混乱から、
長い間、ミスに気がつかないままで、すいませんでした。

間違っている記事の箇所と内容を昨晩確認したのですが、
写真をミスで掲載しただけとかではなく記述文章ごと
間違えているので、
投稿済のミスの「北」と「南」を入れ替え、
では、訂正できないことが分かりました。

既に投稿したオリジナルの記述と写真はそのまま手を加えずに、
それぞれの記事の冒頭に訂正と訂正した日時を入れる形で
なおそうと思っています。


9月の東京都による入間基地から輸送機での硫黄島日帰り墓参の
案内が届きました。参加申込して決まりましたら、
またお知らせいたします。

今年の6月の訪問の硫黄島の写真はたくさんありますが、
紹介したかった内容は、だいたい終わりましたので、
これからは、行き帰りに寄った父島の様子なども
紹介していきたいと考えております。

引き続きよろしくお願い申しあげます。

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栗林壕の入り口

2009年08月02日 | 硫黄島・小笠原村
栗林壕とも呼ばれる兵団司令部壕の入り口の写真です。

この壕も、照明器具があります。
入り口から下っているところは、石段になっています。

下って少し進むと、狭くて低い部分がありますので、
そこではすれ違いができません。

大人が中腰にかなりかがんでやっとという高さですが、
間違えて腰を上げた背中をぶつけたり、頭を上げたりすれば
後頭部をぶつけたりするぐらいです。
狭い場所にも入るので、帽子と長袖は必須になります。

中腰歩きが苦手な私は、一昨年入った時には、ひざをついて
這ってその箇所を進みました。

狭い場所を通過して照明が惹かれている一番奥の部分には
司令官栗林中将(後、最終位階は陸軍大将)が執務をした広い
場所になっています。

低く狭い、すれ違いができない箇所の距離はそれほどではないので、
両側で声を掛け合えば、途中で鉢合わせになることはありませんが、
今年は、壕の中の人が全部出るのを入り口で確認してから
私たちの班が入りました。

私たちの前に入っていたのは、中学二年生のグループでした。
中学生のグループへの解説は、毎年参加しているおなじみの
硫黄島協会の一番のベテランの方で、
彼の後から、引率の先生と生徒たちが全員出てくるのを待ってから
入りました。



皆既日食が硫黄島から生中継されたことで注目を集めたこともあり
これまでにない多くの方が、このブログに来てご覧下さいました。
ありがとうございました。

また、
マイクロトマト、里子の子ガメについてなども含めて、
Dream Farmの仲間の皆様方などから多くのコメントをいただきました。ありがとうございました。
一人でも多くの方に硫黄島について知ってもらいたいと願っていますので、本当に嬉しく思います。



高校一年生の男性の方からは、メッセージをいただきました。
「このブログをみて改めて戦争について考えさせられました。その戦争によって今も島に帰れない島民の方もいらっしゃる。大変なことだと思います。」

こらからを担う若い人からこのメッセージが届いたことは、
何より嬉しく、心強く思いました。ありがとうございました。



なお、次は、同じ栗林壕の中間部分の写真を紹介する予定ですが、
昨年と今年の当ブログの記事の「北硫黄島」「南硫黄島」について、
勘違いから、取り違えて写真掲載、文章記述をしてしまっていたことが
分かりました。そのお詫び、訂正をあらためて載せようと思っております。
ミスがあり申し訳ございませんでした。
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