「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

久保建英選手、小柄なのは変わりませんが強く、速くなりましたねぇ。

2022年09月20日 18時38分36秒 | サッカー選手応援
8月末にWOWOWに加入しましたので、スペインリーグもヨーロッパリーグも見れる状態です。月額2500円を毎月というのは少しキツいので、今月一杯で、また契約休止するつもりですけれど。

ヨーロッパで活躍する日本人選手の中で、久保建英選手の活躍が群を抜いている感じがしました。
ヨーロッパリーグのアウェーでのマンU戦、直近のスペインリーグ・エスパニョール戦、サイどを駆け上がるスピードの速いこと、速いこと。止められずに推進するので余計に感じるのかも知れませんが、止められない強さも備わったように思います。

明らかに今シーズンの久保選手は、昨シーズン以前の久保選手と全く異なるスケールアップを感じます。スタメンで出て終盤までピッチに立ち続けていることも、それを証明しています。

そこで思うのは、このままカタールW杯まで調子を維持してくれれば、本番でのプレーが楽しみです。
小柄なのは変わりませんが、もともと技術的にはハイレベルな選手ですから、それに速さと強さが加われば、よくサッカー解説者が言う「早くて強くてうまい」三拍子そろった選手、世界の舞台で十分通じる選手に成長してきた感を強く持ちました。

あとは、久保選手の孤軍奮闘に終わるのではなく、ほかの誰かがうまく絡む形になればと願うばかりです。その「ほかの誰か」がいまのところ見えない状態です。
欧州チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグで戦う日本選手が増えてきましたが、これからは出場したというだけでなく、久保選手のように試合を動かせる選手が一人でも二人でも出てくることが待ち望まれます。

これも、カタールW杯開幕まであと2ケ月、楽しみにしていきたいところです。
こう書いてきますと、WOWOWの今月末契約休止は早すぎる感じがしてきました。

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フェルホーセン先生の慧眼

2022年02月14日 15時55分43秒 | サッカー選手応援
いろいろな事実関係を-確認するため頻繁にネット検索をしています。その検索の途中に思いがけない記事を見つけて寄り道をしてしまうことも頻繁にあります。

今回、2008年北京五輪サッカーのアジア予選突破や本大会の情報を検索していましたら、2つ新しい発見がありました。
二つともNumber-webサイトの記事で、
・北京五輪サッカー代表チームの反町監督が10年後の2018年にインタビューに答える形で語った記事「10年後に会おうと約束した年・・・」
・2018年ロシアW杯の主力選手となった本田圭佑選手、川島永嗣選手、吉田麻也選手が名古屋グランパス時代に監督として在籍していたフェルホーセン氏の慧眼を称えた記事「本田圭佑をVVVに推薦した"先生"。吉田と川島に通じる名古屋時代の秘話」
です。

このうち2つ目のフェルホーセン監督、この記事、4年も経った現在ではありますが、目にできて本当に幸運だと思いました。

といいますのは、いま当「サッカー文化フォーラム」のwebサイト「サッカーの世界にようこそ」で「ヒストリーパビリオン」というページの内容を一つひとつ吟味しているところで、さらにその中に「伝説のあの選手・指導者たち」というコンテンツがあります。

その「指導者」として誰が外せない人なのか、何を基準に選ぶべきなのか、明確な物差しを持っていないと、単なる「個人の好み」だけで選んでしまったり、優勝監督などの結果だけで選んでしまったりして、大切なことを見落としたり、見逃したりしてしまう恐怖を抱いています。

このフェルホーセン監督、名古屋の2年間の監督時代の実績だけを見れば、特筆できることは何もなく、監督当時、世間の耳目を集めるような話題もありませんから、到底「伝説のあの指導者」として拾い上げることがなさそうな監督さんです。

けれども、本当に「伝説の指導者」として当フォーラムが絶対外してはならない人とは、こういう人を指すのではないかと、さきほどのNumber-webサイトの記事が示しているような気がしてなりません。

当サイトは、一般的な名声を得た指導者もさることながら、よほどキチンと本質を見ていないと見逃してしまうような指導者の方も漏れなく網羅することが務めだと自負しています。

Number-webサイトのフェルホーセン監督の記事URLをそのまま貼り付けるのは、権利関係もあると思いますので避けて、記事タイトルを以下にお知らせしておきます。
関心を持たれた方は検索していただきご一読ください、
「本田圭佑をVVVに推薦した“先生”。吉田と川島に通じる名古屋での秘話。」

またフェルホーセン監督のWikipedia情報は以下のURLです。顔写真もついていますのでご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3

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宮市亮選手をずっとフォローし続けた元川さん、ネットメディア時代ならでは。

2021年09月12日 14時15分06秒 | サッカー選手応援
10日のYahooサイトに「FW宮市亮インタビュー 欧州で味わった「絶望」、そしてJリーグで感じる「奇跡」」と題するスポーツジャーナリスト・元川悦子さんのレポートが掲載された。

その後、宮市選手が加入した横浜Mで5日に行われたJリーグエリートリーグ清水戦にさっそく出場した際、最初のイエローカードから僅か25秒後に2枚目のイエローカードをもらい超スピード退場となった笑ってしまうようなニュースが報じられ、何かと話題に事欠かない選手だと実感しました。

宮市選手が名門アーセナルに電撃移籍してから10年、宇佐美貴史、柴崎岳選手らと「プラチナ世代」と呼ばれ将来を嘱望されていた選手が、相次ぐケガのため不本意な10年間を過ごしてきた。

そんな宮市選手をフォローし続け、今回、横浜M入団を機にインタビューをとっていただいた元川さんの業績に感謝したい。
また、今日、ネットメディアがゆえに、私たちも読ませていただける機会を得たという面も書いておきたい。
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吉田麻也選手、五輪代表の精神的支柱を証明した2枚の写真

2021年08月10日 18時28分15秒 | サッカー選手応援
「東京五輪2020」は終わりましたが、いろいろな意見はまだ続いています。私は一点の曇りもなく「開催してよかった」と思っていますし、堂々と申し上げたいと思います。

そもそも、オリンピックというイベントは、単にアスリートのためのものだけではなく、地球上に住む私たちすべての人々に何らかのポジティブな影響を与えずにはおかないイベントです。(ただし政治利用目的の、かつてのベルリン五輪、そして来年予定の北京冬季五輪は別扱いですが)

したがって、開催地に選ばれれば「中止」「返上」などの選択肢はあり得ないわけで、コロナ禍といっても、すでにサッカー欧州選手権そして南米選手権は開催されているわけで、それよりずっと感染リスクを低く抑えている日本(東京)が開催しないという選択肢はない、というのが私の明快な意見です。

そろそろ、この議論は終息して欲しいと思います。

さて本題ですが、我が五輪サッカー男子代表の戦いも終わって、サッカーシーンは新たな話題に移りつつあります。
その中で、手元に2つのスポーツ紙の写真がありますので、それをお見せしながら、キャプテンを務めたオーバーエイジ枠の吉田麻也選手が、いかにこのチームの精神的支柱であったかを書きたいと思います。

一つは、8月1日朝刊の「スポーツ報知」、もう一つは8月9-10日の「エルゴラッソ紙」です。
やはり写真は、文字で説明するより、かるかに雄弁に物語ってくれます。


2021.8.1「スポーツ報知」撮影・竜田卓氏


2021.8.9-10「エル・ゴラッソ」photo :Getty images

上の写真は、準々決勝ニュージーランド戦で勝負を決めるPKのキッカーとなった吉田麻也選手が、ゴールキーパーの谷選手のところに駆け寄った後を追うようにイレブンが集まり、ご覧のような歓喜の輪ができました。まるで年長の兄のもとに弟たちが先を競って集まっているようです。

下の写真は、3位決定戦メキシコ戦に敗れた後、ピッチにへたり込んで嗚咽を続ける久保建英選手に、吉田麻也選手ともう一人の選手が声をかけています。これも、まるで悲嘆にくれる弟を優しく慰める気丈な兄といった趣きです。

この2つの写真を見て私は、つくづく、このチームで吉田麻也キャプテンは、プレーもさることながら、そのキャプテンシーという精神的支柱としての存在を象徴していると感じました。

この2つの写真は、東京五輪サッカー男子代表を象徴する写真でもあり、吉田麻也キャプテンを象徴する写真でもあると感じてご紹介しました。



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「まな」と「まい」の応援日記

2021年06月22日 16時50分04秒 | サッカー選手応援
当ブログが「まな」と「まい」、つまり岩渕真奈選手と京川舞選手のことに触れるのは、2018年10月23日の書き込み以来です。
2018年10月の時は「日テレvs INAC神戸戦、まるで、なでしこ代表東西対抗戦のようでした。」というタイトルにしています。この時は、INAC神戸所属の「まな」と「まい」のスタメン揃い踏みが実現した試合のことを書き込みました。

あれから2年8ケ月、「まな」と「まい」の揃い踏みが「なでしこジャパン」のゲームでも実現することを願ってきましたが、東京オリンピックの代表メンバー発表では明暗クッキリの二人です。

でも、これからも「まな」と「まい」、二人揃って応援する書き込みは続けます。

はじめに「まい」つまり京川舞選手、3月のINAC神戸での健康診断で心電図異常が見つかり精密検査の結果、バセドウ病(甲状腺機能亢進症)の診断となり当分の間治療に入るとのことです。

ケガと病気、アスリートはこれがあるとどうしても選手生命を縮めます。こればかりは神のみぞ知る世界なので、私たちにできるのは「どうぞめげずにまた帰ってきて」と願い祈ることだけです。

ぜひ「あきらめないで立ち上がってください」その先に、きっと「続けていてよかった」と思える未来が待っています。
私がこう書くのは、自分に対して語りかけている面もあるからです。70歳台の「じぃ」になりながらも、まだ「あきらめず」に「サッカー文化フォーラム」の活動を続け、日本サッカー文化の萌芽から成長・進化・発展の流れを克明に記録して保存・継承、100年先に伝えていこうとしています。

こんな「じぃ」もいるので京川舞選手も、自分の思い描くサッカー人生を大切にして、決してあきらめずに帰ってきて欲しいのです。

次に「まな」つまり岩渕真奈選手、東京オリンピックの代表メンバー発表で高倉監督は背番号10番を託しました。高倉監督の発表会見をYou Tubeで見ましたが、彼女を10番にしたことについて記者に問われ「その時が必ず来ると信じて、それまでの間8番をつけてもらっていました。自分が引っ張っていくんだという自覚が行動に出てきている姿を見て、これならと思って託しました。」と話していました。

東京オリンピックのグループリーグ組み合わせは、初戦カナダ、第二戦イングランド主体のイギリス、第三戦がチリ。この難敵のグループを突破するためには「まな」の活躍が不可欠ですし、これを引き出す攻撃陣の出来が不可欠です。

攻撃陣のポイントは二つでしょう。一つは「まな」のパートナーとなるストライカーの出来。もう一つは、その二人の両脇で動く選手、左は長谷川唯選手の定位置ですが、もう一人、右の選手、この4人の出来一つでグループリーグの結果が変わってきます。



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お盆期間中に、書きたいこと一気にまとめ書き③ 日本人選手の欧州挑戦、次の10年(先輩たちの場合)

2019年08月18日 09時52分26秒 | サッカー選手応援
昨夜、19-20スペインリーグが開幕しました。驚いたのはWOWOWがスペイン2部の放映権を急遽獲得して、さっそくサラゴサvsテネリフェ戦という、普通なら極めてマイナーなカードを放送しました。

その理由は、開幕直前に香川真司選手がサラゴサに移籍、スペイン2部に、柴崎岳選手(ディポルティーボ・ラ・コルーニャ)、岡崎慎司選手(マラガ)に加え3人の新旧日本代表中心選手が揃ったためでした。

香川真司選手が加入したサラゴサは、以前は一部の常連だったチームですが、ここ7シーズンは2部暮らしが続き、これほど長く2部に居続けたことがなかったとのことで、一部昇格の起爆剤を香川選手に託したというWOWOWアナウンサーのコメントがありました。

アナウンサーは、こうも付け加えていました。長く2部暮らしを続けているサラゴサにはビックネームと言われる選手など一人もおらず、ドルトムント、マンチェスターU、ベジクタシュというビッククラブでプレーしてきた香川選手は、まさにビックネームそのもののようで、クラブからの正式入団発表の前日、監督が思わず名前を口にしたくなるほど嬉しくて仕方がなかったらしく「凄い選手が入ったぞ」とケムに巻くのがやっとだったようです、と。

さらに、試合開始前の現地映像では、香川選手のミニ特集というような紹介をしていたことについても、日本のファン向けではなく、それだけの期待をもっている表れとコメントしていました。

これは「日本人選手の欧州挑戦、次の10年」を見通す場合の、もう一つのカタチだと感じました。一つ前の書き込みでは、これから欧州挑戦を果たすであろう俊英たちを念頭においていましたが、すでに欧州挑戦を続けている先輩たちの新しいモデルを、サラゴサ加入の香川選手が見せてくれたように思います。

岡崎選手も香川選手も「まだ、やり残していることがある」という気持ちでのスペイン挑戦のようでした。香川選手はインタビューで言っていました。「それが2部だったとしても、心から戦えるリーグ、心から戦えるクラブでプレーしたいということで決断しました」と。

サラゴサでの入団セレモニーでは、和太鼓をたたいて歓迎してくれた現地サポーター。サッカー選手として、ビックネームとして迎えられるこうした歓迎は、どれほどうれしいことでしょう。
私たち日本で応援している「サッカーを愛する者たち」も、先輩選手たちのこうした表情は、うれしい限りですし、これから先も、こうした移籍が増えるでしょう。もしかしたら長友選手も近いうちに仲間に加わるかも知れませんね。
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お盆期間中に、書きたいこと一気にまとめ書き③ 日本人選手の欧州挑戦、次の10年

2019年08月14日 16時44分02秒 | サッカー選手応援
お盆期間中に、書きたいこと一気にまとめ書き、第三弾、最終テーマですが「日本人選手の欧州挑戦、次の10年」としました。さきの書き込みで「欧州サッカーの潮流、次の10年」ということで、2020年代、どのリーグが欧州サッカーを牽引していくか、これまでの各10年を振り返りつつ予測を立ててみました。

日本人選手の欧州挑戦については、西暦毎の10年刻みというよりは、日本サッカーの節目との関連で見ています。これまでも、このテーマで書き込んでいて、2018年09月26日に「日本選手の欧州サッカー挑戦、これまでと、この先(2)」と題して、その1年前の2017年9月14日に、いわば(1)にあたる書き込みをしました。

2017年9月14日の書き込み、つまり2年前の書き込みでは、Jリーグ以前とJリーグ以後という仕分け、例えていえば、紀元前と紀元後ということで、Jリーグ以後の欧州挑戦の流れを俯瞰して、さらには、今後、欧州で成功するということは、どういう姿なのかを予測してみました。

そして、それは1年前の書き込みでも、さほど大きな考え方の違いはありませんでした。すなわち、日本人選手が欧州で成功を収めるステップとして「第一段階として、欧州4大リーグといわれるトップクラスのリーグであれば、まずプロビンチャといわれる地方の小クラブで実績を残し第二段階でビッグクラブに引き抜かれ、そこで堂々とレギュラーを張れる選手になる、いわば、道のりが長い」という考え方でした。

日本人として欧州挑戦の最初の成功者と言われる奥寺康彦選手のケースは別にして、Jリーグ以後の最初の成功者と言われる中田英寿選手はもとより、最終的にセリエA・インテルのレギュラーとして成功を収めた長友佑都選手、同じくセリエA・ACミランの背番号10の座を勝ち取った本田圭佑選手たちは、皆、こうしたステップを踏んだ選手でした。

ところが、今年に入って、日本人選手の欧州挑戦の様相が劇的に変化しそうな出来事が起きました。久保建英選手のレアル・マドリッド移籍、安部裕葵選手のバルセロナ移籍です。さらにごく最近、ガンバ大阪の食野亮太郎選手のマンチェスター・シティ移籍も発表されました。

もちろん過去にも香川真司選手のドルトムント移籍や、稲本潤一選手、宮市亮選手のアーセナル移籍など、ビッククラブへの移籍劇がなかったわけではありませんが、今年の移籍発表は、明らかにその時とは意味合いが変わったように思います。

香川選手や宮市選手の当時は、まだまだキホンは欧州の地方の小クラブへの移籍が主流という中でのレアケースというか、突出した才能を買われた稀有なケースという意味合いでしたが、今年の移籍は、もちろん彼らが突出した才能を持っていないとは言いませんが、もはやレアケースでも何でもない移籍の時代が到来したことを感じさせるものです。

たぶん、この先の10年間を考えると、日本人選手が欧州ビッククラブに引き抜かれることが珍しくなくなると考えていいでしょう。問題はその先です。これまでは、第一段階として、まずプロビンチャといわれる地方の小クラブに移籍して実績を残すという形から、第一段階として、ビッククラブに引き抜かれ、次に待っているのがレンタル移籍、ローン移籍といわれる、自分が選んだクラブではなく、ビッククラブの意向で生かされたチームで実績を残さなければならないという形がやってきそうです。

でも、それはそれで、欧州で名をあげていく一つのステップになることは確かです。というのは、仮にレンタルで行かされたチームでの活躍が、そもそものビッククラブに、あまり評価されず戻れない場合でも、欧州戦線で、そこそこの実績を積んでいれば、あらたなオファーを受けやすいという点です。これまでのように、プロビンチャといわれる地方の小クラブからスタートした場合、そこそこの活躍程度では、なかなか次のいいオファーが得られず、また日本に戻ってこざるを得ないということになりかねないからです。

おそらく、こうした形で、久保選手や安部選手は欧州で成長していくのではないかという気がします。
その先、つまり、日本人選手が直接ビッククラブに引き抜かれ、なおかつ、レンタル移籍にも出されず1シーズンか2シーズン、サブ程度の立ち位置で結果を残して
次に堂々たるレギュラーの座を勝ち取る時代、それは2020年代半ばまで待たなければならないような気がします。

それにしても、日本人選手たちは、次第次第に進化して、世界のトップクラスに何人もの選手が名を連ねる時代が来るに違いありません。その頃、近いところでは2024年ワールドカップで、ごく普通に日本代表はベスト8の壁を突破して、その後も「決勝トーナメントの常連」と言われる時代を迎えることとなるでしょう。

凄いぞニッポン。ニッポン、チャチャチャ。

お盆期間中に書きたいこと一気にまとめ書きシリーズは、こうしてドリームたっぷりのストーリーで締めくくります。
では、次はいつになるかわかりませんが、また。
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カズ選手が認めた天才・望月重良選手が健在だったなら。(その2)

2019年03月07日 19時53分46秒 | サッカー選手応援
TBS番組「消えた天才・サッカー選手編」の4人目から書き進めます。
④4回目にサッカー選手が取り上げられたのは、2018年11月14日放送でした。この時はロシアW杯戦士2人が「消えた天才」を紹介しています。

まず宇佐美貴史選手。彼自身が「ガンバ大阪が生んだ最高傑作」と称されたほどの天才でしたが、その彼をして「勝てなかった」と言わしめた選手は、ガンバジュニアユース当時の1年先輩、河本光喜善さんとのこと。中学2年でガンバジュニアユースの10番を背負いU-15日本代表では埼玉の天才・原口元気選手を控えに回していたほどの実力の持ち主だったようです。

その彼がユース年代に突然表舞台から姿を消したのです。その訳はユース年代になっても、ついつい自分だけでボールを持ちたがるクセが抜けず、球離れが悪く、たびたび監督やチームメートから指摘を受けているうちにサッカーが面白くなくなり、とうとう辞めてしまったからだそうです。

確かにユース年代ともなれば、独りよがりのプレーから脱却しチーム戦術を身につける時期ですが、彼の長所を活かしつつ育てる方法はなかっただろうかという気がしないでもありません。それこそ「たられば」論かもしれませんが・・・。

次に登場したW杯戦士は吉田麻也選手。早くから将来を嘱望されていたディフェンダーの彼でも「止められなかった」と言わしめるほどの天才選手とは、グランパスユース時代のチームメートで、一緒にトップチーム昇格を果たした新川織部選手とのこと。

グランパスユースの2年生ですでに10番を背負っていた新川選手か、なぜトップチーム昇格からまもなく消えてしまったのか。

トップチームの選手として3シーズン、出場試合はリーグ戦、カップ戦合わせてわずか4試合、戦力外通告を受けて引退した新川選手。未練の残るサッカー人生を吹っ切らせてくれた光景を、引退した2009年に見ることになったのです。

それは日本代表に選ばれた、かつてのチームメート本田圭佑選手の行動でした。平山相太選手のところでも本田圭佑選手でしたが、ここでもまた本田圭佑選手です。

その光景とは、今もよくテレビで流れる場面です。日本代表の国際親善試合での出来事、当時の絶対的10番、中村俊輔選手が蹴って当然のフリーキックの場面、代表に入りたての本田圭佑選手が「オレ蹴っていいっすか、オレ蹴りたいっす」と名乗りをあげたのです。

これをテレビで見ていた新川選手、「オレはこういう自己主張をしたことがない、この差がプロでやっていけるか、いけないかの差だ」と痛感したと言います。

宇佐美貴史選手が紹介した河本光善さんは、自己主張が過ぎて「独り善がり」になりプロになれなかった「天才」で、吉田麻也選手が紹介した新川織部さんは、自己主張が足りずにプロを去った「天才」というわけです。

⑤次の「消えた天才」は、スポーツ名門校特集ということで、2018年11月18日放送。サッカーの名門校・市立船橋の長い歴史のなかで歴代No.1ストライカーと認められながら、消えていった天才を紹介しています。

その選手とは、第73回全国高校サッカー選手権で得点王に輝き、決勝ではハットトリックを達成して市立船橋を優勝に導いた森崎嘉之選手です。前年度の72回大会で優勝した清水商の川口能活選手、準決勝で清水商に破れた鹿児島実の城彰二選手がJリーグ入りして人気を集めた次の選手権でした。

その彼も大きな注目を浴びてジェフ市原に入団します。1年先に入団していた城彰二選手が、森崎嘉之選手を見て「ずば抜けた天才、日本の宝だった」と番組のインタビューに答えていましたが、これは思い切り優等生的コメントで、かえって変な感じでしたね。
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カズ選手が認めた天才、望月重良選手が健在だったなら。(その1)

2019年03月01日 20時04分07秒 | サッカー選手応援
2月24日放送のTBS番組「消えた天才」では、カズ選手が紹介する形で、望月重良選手のことが取り上げられました。

さっそくネット版スポーツ誌「スポニチアネックス」が翌日、その内容を紹介してくれました。ありがたいことです。録画していたのですが、いつになったら見れるかわからない状態でしたから・・・。

この「消えた天才」という番組、これまでも多数のサッカー選手を取り上げてくれています。そのうちキチンと整理しておきたいと思っていましたので、いい機会ですから、拾い出しておきます。

①番組ホームページに記録されている「過去の放送内容」によりますと、最初の回が2017年8月27日放送で、この時はサッカー関係では前園真聖さん、現在サッカーコメンテーターとして一番人気の方と言えるでしょう。「その彼が出会った天才」いうことで、小学校から高校まで同じチームでプレーした天才を紹介しています。

その人は知る人ぞ知る遠藤保仁選手、遠藤彰弘選手両兄弟のお兄さんで、地元では遠藤三兄弟として知られていた長男の「遠藤拓哉さん」。弟の保仁選手も彰弘選手も「兄弟の中で一番うまい」と証言した拓哉さんはなぜJリーグを目指さなかったのかを本人に聞いています。

前園真聖選手や遠藤拓哉選手が高校を卒業した年は1992年3月、Jリーグ開幕を翌年に控えて、最初のタイトル戦となるナビスコカップが始まった年です。まだ何の結果も出ていないJリーグに身を投じるのは長男の自分の選ぶ道だろうかという迷いがまさって、結局、大学進学を選択、サッカーは趣味程度のものになったのだそうです。

弟たちは口を揃えて「プロを選択していれば上にいってた」と語る「消えた天才」の、これが①です。

②2018年7月8日放送「大迫や本田圭佑より半端ない歴代最高の天才」という触れ込みです。折しもロシアW杯での大迫勇也選手の活躍で、やたら「半端ない」というフレーズが使われた時の放送です。これはサッカーファンはよく知っている平山相太選手を紹介していました。

もともと福岡県出身の平山選手でしたが、中学時代に、高校サッカーの名門、長崎県立国見高校の小嶺忠敏監督の指導を受けたことから2001年に入学。小嶺監督から、同じ長身F Wとして活躍した同校の先輩・船越優蔵選手より上と評価され、高校2年、3年の高校選手権で連続得点王に輝き、選手権通算17ゴールという歴代1位の記録も達成した、まさに「怪物」だった選手です。

この平山選手を紹介したのは、高校の先輩でありJリーグ歴代最多ゴール記録を、今なお更新し続けている大久保嘉人選手なのですから、国見高校という学校は、まさに「怪物F W」が育つところといえます。

その平山相太選手、ユース世代の日本代表歴は当然、華々しいのですが、フル代表歴となると国際Aマッチ出場4試合という淋しさです。彼の同世代は、南アフリカ W杯、ロシアW杯と2度にわたって決勝トーナメント進出を果たした本田圭佑選手、岡崎慎司選手、長友佑都選手たちということですから、怪物・平山相太選手が順調に伸びていれば、という「たられば」の対象になる選手であることは間違いありません。
2018年7月という時期の放送で取り上げられたのも、そうした意味があってのことだと思います。

平山選手は2018年1月にベガルタ仙台で現役を引退したあと、指導者を目指して仙台大学に入学したそうです。国見高校を卒業したあとも多くのJクラブからの誘いを断り筑波大学に進学しています。筑波大学のほうはオランダリーグ挑戦のため休学、結局中退していますので、果たせなかった勉学の志に再挑戦というところでしょうか。

190cmの身長に足元の確かなテクニックを備えた将来性抜群の選手も結局のところ、プロ向きの性格ではなかったようです。それを象徴するようなエピソードが番組で紹介されました。

それは平山選手がオランダのクラブ「ヘラクレス」を2006年、唐突ともいえる形で解雇された2年後、今度は本田圭佑選手がオラン「V V Vフェンロ」に移籍します。その時の入団会見を見た平山選手は自分との違いをまざまざと感じたそうです。本田選手はいきなりオランダ語で「車のHONDAとは違うホンダです」とジョークを交えて挨拶したからです。

平山選手は言いました。「自分はオランダに行くことだけしか考えておらず、何の準備も心構えもなかった。彼は3歩先まで考えていたんですね」

平山選手とて聡明な人ですから「プロとして絶対成功するんだ」という気持ちがあれば何が何でも準備したことでしょう・・・。

③2018年10月21日放送「サッカーなでしこジャパン元代表・丸山桂里奈が衝撃を受けた天才ドリブラー」というタイトルで紹介されたのは、井坂美都さんという、なでしこジャパンで丸山桂里奈選手にスタメンを奪われた立場の選手でした。

埼玉県出身の彼女は、1994年浦和レッズレディースに入団、その年の日本女子サッカーリーグで新人賞を獲得、翌年には当時最強チームと謳われたプリマハムFCくの一に移籍、1997年には日本代表に初選出、1999年には日本女子サッカーリーグ最優秀選手賞と得点王のダブル受賞を果たし、澤穂希選手も一目置く日本のエース格に成長した選手です。

丸山桂里奈選手と日本代表を共にしたのが2002年10月のアジア大会、当時、日体大2年で代表初選出された丸山選手は、初戦、スタメンを外れた井坂選手を尻目に途中出場で代表デビューを果たします。二人の軌跡がここで交差したようです。

井坂選手は、第3戦からはスタメンに復帰したものの、最終第5戦、相手選手のチャージを受けて右膝靱帯断裂のいう大ケガを負ってしまい、丸山桂里奈選手に後を託してピッチを後にしたのです。

井坂選手は、ちょうど丸山桂里奈選手にポジションを明け渡す形で代表から消えたことから、しばらく屈折した気持ちで過ごしていたそうですが、2011年の女子W杯で、準々決勝ドイツ戦、延長後半に丸山桂里奈選手が決勝ゴールを叩き込み、優勝に大きく貢献した活躍を見て、ようやく気持ちが吹っ切れたそうです。

因縁に縁取られていたのですね。井坂選手は再度サッカーへの情熱を取り戻し、現在はクーパーコーチングスクールで子どもたちの指導にあたっているそうで、丸山桂里奈選手との16年ぶりの再会もとてもポジティブな再会だったようです。

そもそも「カズ選手が語る『消えた天才・望月重良選手』」の本題になかなか入らず、それまでに放送された「消えた天才・サッカー選手編」をひもといているうち、ずいぶん長くなりました。

ここらで一旦区切りにして、ここまでを(その1)とします。
ではまた、次回。






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【至言】ミシャは選手を「戦士」に変えてくれた人by都倉賢選手

2019年02月21日 18時27分32秒 | サッカー選手応援
今日、スマホでサッカー情報を流し見していたら、タイトルに書いた言葉に出会いました。スポーツナビサイトの対談企画でライター・元川悦子さんのレポートです。

題して「J開幕直前対談・ベドロヴィッチ×都倉賢」「深い絆を感じる教え子への宣戦布告」とあります。二人の対談形式で書いてあり、取材日は2月14日とあります。

この中で元川さんが最初につけたキャプションが「都倉『ミシャさんは選手を「戦士」に変える』」という至言です。

つまり、どんなに技術が優れた選手が揃っていても「選手」でしかないなら勝負には勝てない。「戦士」が揃ったチームにはかなわない。こんな当たり前のことなのに、「ミシャが指揮を執るクラブはどうして皆強くなるんだろう」と不思議に思っていた面があります。

ミシャことベドロヴィッチ監督は、常に攻撃的なチーム作りをすることで知られています。ともすれば、その戦術的な分析などに目を奪われ、彼が、選手の意識を変えてしまう「モチベーター」であることは、ほとんど知られていないかもしれません。

現に、この対談でも、都倉選手が「ミシャ監督から学んだことは?」と問われて「戦術的な部分はもちろんですけれど、ミシャさんは選手を『戦士』に変える指導者。マインドをリセットしてくれたと思うんです。」と答えています。

この「戦士」に変える指導、マインドをリセットする指導についてベドロヴィッチ監督はどう語っているかというと、実は何も語っていません。「毎日練習に来られてうれしい、という気持ちを抱いて活動してもらうことが大事だ」とか、「ミスを恐れずトライしなさい」とか、特別な言葉のようには思えないことを、ただ口を酸っぱくて言い続けました」と言っています。

都倉選手は「戦士」に変わった、そのココロについて次のように付け加えくれています。「ミシャさんに僕ら以上の情熱があったからだと思います。その熱量は今もよく覚えていますし、ありがたい1年だったと強く感じますね」と。

何も「君たちは試合という名の戦争をしているんだ」とか「生きるか死ぬかの瀬戸際にいる戦士なんだ」などと言われなくても、ミシャに「そこでどうしてトライしないんだ。なぜミスを恐れているんだ」といった言葉を毎日、毎日それこそ、大変なエネルギーを振り絞って言われ続けることによって、「あぁ、トライしなかった自分というのは、本気で戦おうとしてない自分だった」ということに思い至ったんだと思います。

これまで漠然とですが「ミシャ教信者」という言い方をするのを聞いたことがあります。サンフレッチェ広島時代に教えを受けた柏木陽介選手、槙野智章選手、森脇良太選手たちが、ペドロヴィッチ監督の後を追うように浦和レッズに移籍した頃だったと思います。

彼らは口々に「やはりミシャのサッカーがしたい」というような言い方をしていましたが、それは戦術的に攻撃的なサッカーをしたいということもさることながら、ペドロヴィッチ監督の持つサッカーへの情熱、都倉選手の言う「その熱量」に圧倒され信者になったが故の言葉だったのだと思います。

広島でも浦和でも、ミシャ監督が去って次の監督が優勝をもたらす結果になりましたから、なんとなくペドロヴィッチ監督の「結果を出せる力量」というものに懐疑的でしたが、選手と監督のしあわせな関係という意味では、ミシャの持つ魅力を思い知らされるレポートでした。

今回、私は、都倉選手の「ボキャ力」つまり見事な表現力にも舌を巻いています。「ミシャ監督は「選手」を「戦士」に変えてくれた」。優秀な監督であることを表す言葉として、いろいろな角度から表現されますが、今回のようなキーワードで見事に言い表わしてくれた都倉選手、そして、その言葉をしっかりと拾って活字にしてくれた元川悦子さんに最大限の賛辞を送りたいと思います。

都倉選手はもう一つ「マインドのリセット」という言い方もしてくれました。言語能力の大変高い人だと思います。

今回もう一つ面白い状況があります。広島から浦和には、ミシャ監督を慕って移籍がありましたが、今回、都倉選手は「ミシャ監督から独り立ち」するような形で移籍しました。ミシャ監督と選手の関係が新しい次元に入ったのかもしれません。

ミシャ監督を巡る話は尽きないのですが、今日はこのへんで。
では、また。
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サッカー情報のパソコン取り込み、その先について

2019年02月19日 18時51分18秒 | サッカー選手応援
さる1月28日の書き込みで「サッカーのビデオ画像、紙媒体情報、パソコン取り込み再開です」とお知らせしました。

なにぶん、日本サッカー25年のあらゆる情報をデータ化する作業ですので、まだ、いつ頃完了できるか見当がつきませんが、その先のことは夢と希望を持っています。

一つは、インターネット上で誰もがアクセスして、試合画像や番組画像、雑誌・新聞等の情報を検索して自由に楽しんでもらったり、調査研究の資料に活用していただいたりすることです。

もう一つは「サッカー情報アーカイブス」の拠点をどこかに確保してカフェを併設して、そこのマスターとして余生を送ることです。拠点といっても個人レベルのことです。よく長年のコレクションを、私財を投じて展示している個人資料館のような施設がありますが、せめて、それぐらいの拠点にはしたいものです。

最初の構想を具体化するため「サッカーの世界へようこそ」というサイトを開設して、そこでどんどん公開していく考えなのですが、画像一つとっても権利関係の問題で、すぐ削除されてしまうようで、なかなか難しいらしく、3年ぐらい前から全くメンテナンスしていません。

もう一つの拠点構想も、すでにデータ化されているものを皆さんに活用していただきたいのですが、私財などない身ですので拠点がなく、公開できておりません。

ですから、今はただコツコツとパソコン取り込みの作業を続けることしか出来ない状況です。
もう数年前から、こうした構想に共感してくださり、何らかの参加を希望してくださる方を呼びかけていますが、いまだ、名乗りをあげてくださる方はいません。

あらためて、呼びかけさせていただきます。
関心を持たれた方のご連絡をお待ちしております。

拠点で思い浮かんだことがあります。
静岡県東部、駿東郡長泉町というところに「静岡県サッカーミュージアム」という施設がありますが、ご存知でしたか?

ここは、最近、経営問題が指摘されているスルガ銀行が開発した「クレマチスの丘」という美術館などもある観光地の一角にあり、ミュージアムもスルガ銀行が設置、運営を静岡県サッカー協会が行なっている施設です。

静岡県最大のサッカースタジアム「エコパ」ができてからは、そのスタジアム内にあるミュージアムがメインになっていると思いますので、こちらの施設は次第に忘れ去られるのてはないかと思っていたところにスルガ銀行の経営問題です。

施設を処分する話でも出ているのではないかと思い、ホームページをのぞいてみましたが、まだ存在しているみたいです。

あそこなどは、気の利いた民間事業者なら集客の仕掛けをいろいろ講じて、立派な収益事業にできそう施設です。ただ何となくある、というだけではもったいないと思っています。


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2019年Jリーグキックオフカンファレンスから

2019年02月18日 19時23分45秒 | サッカー選手応援
先週、2019年Jリーグキックオフカンファレンスが開催されたようで、Jリーグ全クラブの監督さんたちが勢揃いしたようです

NHK-BS土曜夜のサッカー情報番組「Jリーグタイム」がJ1全クラブの監督インタビューを放送してくれました。18クラブ(最初16クラブと書いてしまいました)ですから一人あたりのインタビュー時間は微々たるものでしたが、経験豊富な外国人監督と若手有能な日本人監督という図式が見えて興味深く見ました。

つくづく思うのは、外国人監督も誰でもいい時代は完全に終わり、アジアトップクラス、欧州リーグに肉薄しようかというレベルの高いリーグで仕事をするに相応しい監督さんが自然に集まる時代になったということです。

神戸・リージョ監督やセレッソ・ロティーナ監督などスペインを主戦場にしてきた監督さんが増えてきた理由はよくわからないのですが、選手もそうですから、何となくJリーグが世界最高峰のリーグからも認められてきた感じがして、うれしいものです。

いま、過去のビデオ映像のデジタル変換作業の中で、98-99欧州チャンピオンズリーグの試合を見ていますが、この頃のレアル・マドリー、ラウル、ロベカル、レドンド、イエロなどのキラ星のような選手たち、その当時は別世界のリーグという感じでしたし、そのあとまもなく、城彰二選手や西沢明訓選手がスペイン挑戦を果たしたとはいえ、スペインを見る目が今とは全く違っていたと思います。

まさに、彼らの挑戦を皮切りに、多くの選手がスペインで戦いを続けた20年の積み重ねの末、ここまで接近したということだと思います。また当時、浦和レッズにベギリスタイン選手というスペインの選手が在籍したことがあります。

当時とすれば極めて珍しいスペインリーグ経験者であり、不思議に思ったぐらいですが、彼なども日本とスペイン、日本と欧州の架け橋になってくれて、今のつながりに結びついているのだと思います。

やはり20年もの積み重ねというのは、いろいろな変化をもたらすものだと痛感します。

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トルシエ元監督から届いた「闘争心に欠ける日本の文化」敗因論

2019年02月05日 17時46分47秒 | サッカー選手応援
敗因というのは、もちろんアジアカップ決勝カタール戦のことです。森保監督のチーム作りが、ここまて順調に来ていたことに気持ちが行き過ぎて、敗因を的確にイメージ出来ないでいたところに、トルシエ元監督からのコメントが届きました。

フランス語ならこの人・田村修一氏がトルシエ氏のインタビュー記事をまとめてくださいました。この後、いろいろ示唆に富んだ部分をご紹介しますが、N umber webの「トルシエ、カタール戦の森保Jを嘆く。『優しさに満ちて無味無臭だった』」の原文もぜひお読みください。

カタール戦の敗因について、モヤモヤしていたことが、霧が晴れるようにスッキリしました。やはり日本代表を率いた経験と、その後の世界を見続けた経験によって、実に的確な指摘です。

もちろん、それは田村氏が「トルシエ氏かく語りき」と、自分の納得のもと活字にしているので、田村氏も的確に敗因を認識できたことを意味します。

私は試合中、原口選手、南野選手、堂安選手の2列目に大迫選手を加えた4枚の前線が、1-2でリードされた局面で、どうしてもっと強引にドリブルで仕掛けていかないのだろうかと気になっていました。ペナルティエリアの中あるいは直前なのに、まだパスでばかり崩そうとしている、誰かがリスクを負って突っかける場面も織り交ぜればいいのに、と感じていました。

これなどは、まさしくトルシエ氏の言う「ヨーロッパでプレーする日本人が、帰国して日本の環境の中に入ると日本の価値観を再度身に纏う。鋳型から出ることをヨーロッパでは求められるが、日本では自分たちの価値観の虜になっている。そこに私は問題があると思う」ということなのだろう。

また、あれだけ多くのCKを得たのに、こぼれ球をミドルシュートで叩き込もうという意思はどこへ行ったのだろうと思いました。

塩谷選手が今度こそ打つかとずっと見ていましたが、ピッチ上の塩谷選手は、どうだったのでしょう。繋ぎに徹しなければ、という気持ちだったのでしょうか。こぼれ球は絶対キャノンシュートだと決めていたら3本か4本は打てたのではないでしょうか。

でもトルシエ氏に言わせれば、森保監督という「日本的な価値観とシステムの体現者」のもとでは、個人主義的なプレーは生まれないだろう」ということであり、それを打ち破るほどの規格外の選手がいない限り無理だろう」というわけです。

やはり現時点では、そういう規格外のプレーをする選手がいないことも含めて力不足だったということです。
「これが敗因です」

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香川真司選手、新天地で再び輝きを取り戻したぁ。

2019年02月04日 20時14分40秒 | サッカー選手応援
冬の移籍市場最終日にトルコの強豪クラブ・ベジクタシュへの移籍が決まった香川真司選手。たった3日後には早速リーグ戦デビューを、ド派手に飾りました。

なんでも、香川真司選手の投入は後半も残り少ない36分、まぁ顔見せ程度の出場だったのかもしれませんが、たった1分ご、ファーストタッチをゴールに結びつけたばかりか、その2分後、今度はF Kを叩き込んで、あっという間の2ゴール、名刺がわりにしては、あまりにもド派手なデビューでした。

私は、香川真司選手の持っている能力の高さに、あらためて驚嘆しました。この選手は働き場所にさえ恵まれれば、とてつもない能力を発揮する選手であり、問題は、その働き場所になかなか恵まれなかったところにあります。

恵まれなかった理由は、といえば、ある意味「運」ではないでしょうか。

香川真司選手本人は、欧州での仕事が、まだまだ不完全燃焼でしょう。まずはベジクタシュで、目覚ましい復活を遂げないことには、何も始まらないと思います。

その上で、日本代表でも「若手三銃士」プラス「香川」という存在に甦って欲しいものです。このまま世代交代では、あまりに寂しいですから。

これから、しばらく目が離せないですね。
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南野選手、汚名挽回したね、値千金のボールキープ。

2019年01月29日 00時18分27秒 | サッカー選手応援
アジアカップ天王山、準決勝イラン戦。
ここまで期待を裏切る結果になっていた南野選手、気落ちすることなく攻め続けた姿勢が、後半11分、値千金のプレーを生み出しました。

そのプレーを含めて、大迫の2得点をもたらした主役は南野選手です。
明日のスポーツ紙も一面すべて「大迫」の文字が躍るのは仕方ないのですが、あのヒリヒリするような0-0の均衡を破る先制点をもたらした南野選手の、あのボールキープをキチンと評価してくれることを求めます。

原口選手も、私の懸念が聞こえたかのようなタテへの仕掛けで、イランの息の根を止めるゴール。まるで浦和に入団した頃のようなゴールでした。

森保監督も、信念を貫いて結果も掴んだ感じです。あれだけ固定メンバーにこだわって戦い続け、負けた時の猛烈な批判も織り込んだ上で勝利を掴むのですから、これ以上、批判を黙らせる結果はありません。

そのかわり、というか案の定というか、遠藤航選手、酒井宏樹選手が壊れてしまいました。たまたま同じぐらいの力のある選手を交代できたから良かったですが、センターバック2枚のどちらかあたりまで壊れたら大変でした。

今回、本チャンの大会を初めて戦う森保監督のマネジメントというものを、私たちも初めて知ることになりました。ですから、ある意味「そうなんですかぁ、森保さ〜ん」という感じもあります。

こういう大会になれば、一人や二人壊れることも「あり」の采配を振るうんだ、ということです。柔和な表情をしている方ですが、相当苛烈な指揮官のようです。私などは、表情に騙されているところがあります。

さぁ、決勝は金曜の夜、テレビ視聴率が少し高くなりそうな状況になりました。
未だ負けなし。驚異的な船出の森保ジャパン。大坂なおみ選手に続く快進撃か。
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