アギーレ監督解任が発表された。当然のごとく今朝のスポーツ4紙とも1面トップで報じている。
これについては、またの機会に書き込みしたい。
今回のテーマは「日本代表監督を解任する」という出来事に関する危機管理についてだ。
これまでも、時々、サッカー映像をビデオテープからHDDに取り込む作業についてご紹介しており、現在、1998年分を作業していることもご紹介した。
そして、1997年9月から1998年7月までの時期が、日本サッカーにとって、永遠に語り継がれる「伝説の年」であることを、あらためて実感しながら作業している。
「伝説の年、1997~1998年」
この期間に何が起きたか、日本サッカーを愛する多くの皆さんは、詳しくご存じでしょうけれど、かいつまんで書いておきます。
1997年9月上旬から、フランスW杯アジア最終予選が5ケ国総当たりホームアンドアウェー方式で始まった。5ケ国中、1位チームは自動的に出場権獲得、2位チームは別ブロックの2位と第三代表の座をかけた試合が残されている。
加茂監督率いる日本代表は、初戦ホームのウズベキスタン戦に快勝、日本中の盛り上がりを受けて上々の滑り出しを見せたが、第二戦アウェーのUAE戦に引き分け、第三戦ホームの韓国戦で痛恨の逆転負けを喫した。これで、それまでのワッショイムードから一転「大丈夫か?」という空気が蔓延した。なにしろ1位確保はおろか第三代表決定戦に進む権利を残す2位確保すらおぼつかなくなったからだ。
そして第四戦アウェーのカザフスタン戦、先制しながら試合終了近く同点を許して勝ち点1にとどまったことで、遠くカザフスタンの地で加茂監督が更迭された。最終予選のさなかだ。後任の選択肢は一つしかない。内部昇格だ。
真の「伝説のゴール」は第四戦目の井原のロングボール
急遽就任した岡田監督。続く第五戦アウェーのウズベキスタン戦、先制され敗色濃厚となった試合終了間際、自陣深いところからDF井原正巳が蹴ったロングボールが最前線にいた呂比須と相手DFが交錯する中、ゴールに吸い込まれるという劇的な形で貴重な勝ち点1を拾った。
帰国してUAEをホームに迎えた第六戦、勝てば自力2位を大きく引き寄せる一戦とあって、再び日本中が盛り上がったが、日本は勝ちきれず試合を終えた。長くつらいW杯への道のりの、まさに正念場、第7戦はアウェーの韓国戦。
しかし、このあたりから運が実は日本側に傾いていた。韓国はすでに1位で出場権を決めていた中での戦いだったこと、日本が韓国に勝って2位を争っていたUAEは敗れたのだ。
そして、いよいよ最終戦ホームのカザフスタン戦、韓国に勝って再び勢いを取り戻した日本の前にカザフスタンはもはや敵ではなかった。
そしてマレーシア・ジョホールバルでの第三代表決定戦である。岡野雅行選手の劇的なVゴールは、日本が初めてW杯という舞台に立てる鍵をこじあけたゴールとなった。
その結果、加茂監督の更迭、岡田監督による指揮は、なんの問題もなく正しいこととなった。
しかし、これほど「結果オーライ」の危機対応もないのではないか。まともな組織のやる危機管理といえるのか、そういった点は、その後の日本サッカーの順風満帆な航海の中で、触れられずにきていないか、そうした体質が、今回のようなアギーレ解任の遠因になっていないか、そういう視点で述べたい。
つまり「伝説の年、1997~1998年」とは、単に伝説として語り継がれるだけでなく、キチンとした検証を必要とする年でもあるというのが、わたしの見解だ。
危機管理の検証 その① 加茂監督で危機が訪れた場合の処方箋とは
まず、何といっても、加茂監督で戦績が思わしくない場合、どうするかというシュミレーションがあったのか、なかったのか。まぁ、当時も現在も、選んだ監督に不測の事態が発生した時どうするか、なんて、実は考えていないのではないだろうか。
当時の日本サッカーの体制を考えれば、例えば国家の危機管理とか企業の危機管理というレベルの対処システムは、ほぼなかっただろうし、ここで検証が必要だと議論すること自体、ないものねだりかも知れない。
そういう意味では、むしろ未来に向けた検証材料という位置づけで述べたい。
加茂監督をカザフスタン戦のあと更迭した。すると選択肢は岡田コーチの昇格しかない。となると、もし岡田コーチでなかったら、どうなったことやら、という話になる。たまたま岡田コーチが、日本人最高の指導者資質を持った人だったから、日本サッカーは救われた形になったが、加茂監督を選び、その加茂監督が岡田コーチを選んだのは、どういう経緯だったのか、検証しておきたい。
危機管理の検証 その② 岡田コーチ昇格決定は、出場権獲得に失敗した時のエクスキューズにもなるという意識の有無
岡田コーチを昇格させた結果、日本は出場権を獲得できた。しかし、昇格させる時、どれほどの成算があったのか、成算があったかどうか問い詰めるのが酷だとしたら、出場権獲得に失敗しても、協会としてやるだけのことはやったのだというエクスキューズになる、という意識があったのではないかを検証する必要があると思う。
なぜなら、監督経験ゼロの人を、いきなり代表監督、しかも、のるかそるかの正念場に投げ込む荒療治だ。成算があったとしたら、どうして最初から岡田監督でいかなかったのか、という話になりかねない。成算の有無など聞かれても困るというのが本音だろう。
むしろ、私は、その時のメディアが、カザフスタンで協会が発表したのに対して、どういう反応をしたのかを問いたい。「協会としては、監督経験ゼロの人を、こんな修羅場に起用するということは、ダメモトという気持ちなんですね?」という質問をキチッとしたかどうかを。
危機管理の検証 その③ 「蚕室での勝利」に、日本代表の実力以外の有形無形の「力」が働いたのではないか
第六戦、アウェーの韓国戦、0-2で日本は勝利した。すでに書いたが、韓国は日本を迎え撃つ前に出場権を決めていた。あとは消化試合だ。しかし、通常の日韓戦に手心を加えるシナリオは考えられない。
にもかかわらず、ホームの韓国は日本に屈した。果たして本当のガチンコだったのだろうか? 何か有形無形の「力」が働いたのではないか、漠然と語られることは、いくつかあってもキチンと検証された形でのものはないと思う。この部分も避けて通れないと思う。
危機管理の検証 その④ 第七戦ホームのカザフスタン戦、そしてジョホールバルのイラン戦、負ける気がしない流れがある
日本が韓国に勝って、UAEが負けたというニュースが入った途端、日本中が「いける、大丈夫だ」という気になった。あればなぜなんだろう。カザフスタンにも負ける気がしないで、そのとおり大勝した。ジョホールバルでのイラン戦も、勝ち負けは五分五分だったはずなのに、負ける気がしない雰囲気の中で劇的な勝ち方をした。
イラン戦などは、実は、延長に入って絶体絶命の場面があったにも関わらず、見ている多くの日本国民が負ける気がしないで応援していたと思う。それはなぜか? いわゆる「試合の流れ」「勝負の流れ」というのもなのか、つまり、勝負の女神はもはや日本に微笑んでいたのだろうか、そういうことが実はあるのだろうか、今後も勝負とはそういうものだと心に決めておいたほうがいいのか、一度は検証しておきたい。
「伝説の年、1997~1998年」には、こんなにも多くの検証すべき事柄が残っている。当時の記録を丹念に掘り起こすと、おそらく相当のことが浮き彫りになるに違いない。わずか17~18年前のことだが、すでに歴史の中に少しづつ埋没しつつある。しかし、今回のアギーレ解任問題にも共通する検証結果が導き出せると思っている。
私は「伝説の年」シリーズを、そういう切り口でまとめていきたいと思っている。どうか、楽しみにしていただきたい。
これについては、またの機会に書き込みしたい。
今回のテーマは「日本代表監督を解任する」という出来事に関する危機管理についてだ。
これまでも、時々、サッカー映像をビデオテープからHDDに取り込む作業についてご紹介しており、現在、1998年分を作業していることもご紹介した。
そして、1997年9月から1998年7月までの時期が、日本サッカーにとって、永遠に語り継がれる「伝説の年」であることを、あらためて実感しながら作業している。
「伝説の年、1997~1998年」
この期間に何が起きたか、日本サッカーを愛する多くの皆さんは、詳しくご存じでしょうけれど、かいつまんで書いておきます。
1997年9月上旬から、フランスW杯アジア最終予選が5ケ国総当たりホームアンドアウェー方式で始まった。5ケ国中、1位チームは自動的に出場権獲得、2位チームは別ブロックの2位と第三代表の座をかけた試合が残されている。
加茂監督率いる日本代表は、初戦ホームのウズベキスタン戦に快勝、日本中の盛り上がりを受けて上々の滑り出しを見せたが、第二戦アウェーのUAE戦に引き分け、第三戦ホームの韓国戦で痛恨の逆転負けを喫した。これで、それまでのワッショイムードから一転「大丈夫か?」という空気が蔓延した。なにしろ1位確保はおろか第三代表決定戦に進む権利を残す2位確保すらおぼつかなくなったからだ。
そして第四戦アウェーのカザフスタン戦、先制しながら試合終了近く同点を許して勝ち点1にとどまったことで、遠くカザフスタンの地で加茂監督が更迭された。最終予選のさなかだ。後任の選択肢は一つしかない。内部昇格だ。
真の「伝説のゴール」は第四戦目の井原のロングボール
急遽就任した岡田監督。続く第五戦アウェーのウズベキスタン戦、先制され敗色濃厚となった試合終了間際、自陣深いところからDF井原正巳が蹴ったロングボールが最前線にいた呂比須と相手DFが交錯する中、ゴールに吸い込まれるという劇的な形で貴重な勝ち点1を拾った。
帰国してUAEをホームに迎えた第六戦、勝てば自力2位を大きく引き寄せる一戦とあって、再び日本中が盛り上がったが、日本は勝ちきれず試合を終えた。長くつらいW杯への道のりの、まさに正念場、第7戦はアウェーの韓国戦。
しかし、このあたりから運が実は日本側に傾いていた。韓国はすでに1位で出場権を決めていた中での戦いだったこと、日本が韓国に勝って2位を争っていたUAEは敗れたのだ。
そして、いよいよ最終戦ホームのカザフスタン戦、韓国に勝って再び勢いを取り戻した日本の前にカザフスタンはもはや敵ではなかった。
そしてマレーシア・ジョホールバルでの第三代表決定戦である。岡野雅行選手の劇的なVゴールは、日本が初めてW杯という舞台に立てる鍵をこじあけたゴールとなった。
その結果、加茂監督の更迭、岡田監督による指揮は、なんの問題もなく正しいこととなった。
しかし、これほど「結果オーライ」の危機対応もないのではないか。まともな組織のやる危機管理といえるのか、そういった点は、その後の日本サッカーの順風満帆な航海の中で、触れられずにきていないか、そうした体質が、今回のようなアギーレ解任の遠因になっていないか、そういう視点で述べたい。
つまり「伝説の年、1997~1998年」とは、単に伝説として語り継がれるだけでなく、キチンとした検証を必要とする年でもあるというのが、わたしの見解だ。
危機管理の検証 その① 加茂監督で危機が訪れた場合の処方箋とは
まず、何といっても、加茂監督で戦績が思わしくない場合、どうするかというシュミレーションがあったのか、なかったのか。まぁ、当時も現在も、選んだ監督に不測の事態が発生した時どうするか、なんて、実は考えていないのではないだろうか。
当時の日本サッカーの体制を考えれば、例えば国家の危機管理とか企業の危機管理というレベルの対処システムは、ほぼなかっただろうし、ここで検証が必要だと議論すること自体、ないものねだりかも知れない。
そういう意味では、むしろ未来に向けた検証材料という位置づけで述べたい。
加茂監督をカザフスタン戦のあと更迭した。すると選択肢は岡田コーチの昇格しかない。となると、もし岡田コーチでなかったら、どうなったことやら、という話になる。たまたま岡田コーチが、日本人最高の指導者資質を持った人だったから、日本サッカーは救われた形になったが、加茂監督を選び、その加茂監督が岡田コーチを選んだのは、どういう経緯だったのか、検証しておきたい。
危機管理の検証 その② 岡田コーチ昇格決定は、出場権獲得に失敗した時のエクスキューズにもなるという意識の有無
岡田コーチを昇格させた結果、日本は出場権を獲得できた。しかし、昇格させる時、どれほどの成算があったのか、成算があったかどうか問い詰めるのが酷だとしたら、出場権獲得に失敗しても、協会としてやるだけのことはやったのだというエクスキューズになる、という意識があったのではないかを検証する必要があると思う。
なぜなら、監督経験ゼロの人を、いきなり代表監督、しかも、のるかそるかの正念場に投げ込む荒療治だ。成算があったとしたら、どうして最初から岡田監督でいかなかったのか、という話になりかねない。成算の有無など聞かれても困るというのが本音だろう。
むしろ、私は、その時のメディアが、カザフスタンで協会が発表したのに対して、どういう反応をしたのかを問いたい。「協会としては、監督経験ゼロの人を、こんな修羅場に起用するということは、ダメモトという気持ちなんですね?」という質問をキチッとしたかどうかを。
危機管理の検証 その③ 「蚕室での勝利」に、日本代表の実力以外の有形無形の「力」が働いたのではないか
第六戦、アウェーの韓国戦、0-2で日本は勝利した。すでに書いたが、韓国は日本を迎え撃つ前に出場権を決めていた。あとは消化試合だ。しかし、通常の日韓戦に手心を加えるシナリオは考えられない。
にもかかわらず、ホームの韓国は日本に屈した。果たして本当のガチンコだったのだろうか? 何か有形無形の「力」が働いたのではないか、漠然と語られることは、いくつかあってもキチンと検証された形でのものはないと思う。この部分も避けて通れないと思う。
危機管理の検証 その④ 第七戦ホームのカザフスタン戦、そしてジョホールバルのイラン戦、負ける気がしない流れがある
日本が韓国に勝って、UAEが負けたというニュースが入った途端、日本中が「いける、大丈夫だ」という気になった。あればなぜなんだろう。カザフスタンにも負ける気がしないで、そのとおり大勝した。ジョホールバルでのイラン戦も、勝ち負けは五分五分だったはずなのに、負ける気がしない雰囲気の中で劇的な勝ち方をした。
イラン戦などは、実は、延長に入って絶体絶命の場面があったにも関わらず、見ている多くの日本国民が負ける気がしないで応援していたと思う。それはなぜか? いわゆる「試合の流れ」「勝負の流れ」というのもなのか、つまり、勝負の女神はもはや日本に微笑んでいたのだろうか、そういうことが実はあるのだろうか、今後も勝負とはそういうものだと心に決めておいたほうがいいのか、一度は検証しておきたい。
「伝説の年、1997~1998年」には、こんなにも多くの検証すべき事柄が残っている。当時の記録を丹念に掘り起こすと、おそらく相当のことが浮き彫りになるに違いない。わずか17~18年前のことだが、すでに歴史の中に少しづつ埋没しつつある。しかし、今回のアギーレ解任問題にも共通する検証結果が導き出せると思っている。
私は「伝説の年」シリーズを、そういう切り口でまとめていきたいと思っている。どうか、楽しみにしていただきたい。