日本サッカー30年の記録から、ある大きな出来事の真相を探っていくと、それに関連して、新たな疑問や闇の部分が浮かび上がってきます。
カズ選手がフランスW杯代表から土壇場で落選した時の衝撃を、当時の少し時間を巻き戻して、つぶさに検証してみると、ずいぶん違った真相が見えてきました。
すると、その落選劇のもう一人の当事者である岡田監督という人は、前年、突然、代表監督の座に押し上げられ、表舞台に登場した人ですが、では、なぜ表舞台に登場する立ち位置にいたのか、これもまた、当時の時間を巻き戻して、つぶさに確認してみると、サッカーの神様に導かれたとしか、いいようのない「代表監督としての決断力や戦略的資質」とは全く別の理由から、加茂監督のコーチに選任されていたことがわかりました。
そうした、流れから新たに浮かんできたのが、1995年11月に起きた、日本サッカー協会の加茂監督続投決定に至る、各方面を巻き込んだドタバタ劇でした。
1994年12月、ファルカン日本代表監督の解任を受けて、日本代表監督に就任した加茂監督は、フランスW杯出場権獲得のミッションを視野に入れながらも1年契約(95年11月30日まで)で、仕事ぶりを見て契約を更新するという状況でした。
仕事ぶりを評価するのは、日本サッカー協会の「強化委員会」というチームで、当時、現役を引退したばかりの加藤久氏が委員長に抜擢されていました。
加藤氏率いる強化委員会は、加茂監督の仕事ぶりをいろいろな角度から分析した結果「加茂監督の戦術と采配には、相手に応じ対応するという柔軟さと臨機応変さに欠けていて、特に加茂氏が採用しているゾーンプレスの戦術は、相手チームに研究された攻撃をされると対応できない弱さがある」と結論付け、第一候補にベンゲル氏、第二候補にネルシーニョ氏、第三候補にオフト氏を推薦しました。
加茂氏は、それら3人の候補がすべてダメだった場合、やむなく続投という位置づけだったのです。
それが1995年10月30日に行われた日本サッカー協会幹部会(長沼会長、岡野副会長、川淵副会長ほか2名の5名)で審議され、各氏に意向を打診して決めようということになりました。
長沼会長は加茂氏に電話を入れたところ、加茂氏は「自分の優先順位が低いことから続投の芽はないと判断して横浜Fにお世話になることに決めています。あとは契約を残すばかりです」と回答がありました。
川淵副会長がベンゲル氏と監督を務めるグランパス、そしてオフト氏と監督を務めるジュビロに電話を入れたところ、いずれも固辞の姿勢でした。
第二候補のネルシーニョ氏と所属のヴェルディは、すでに強化委員会レベルで打診した際に好感触を得ていたことから、候補者をネルシーニョ氏一本に絞り、条件面の詰めに入りました。それを任された加藤委員長がネルシーニョ氏側と条件面の交渉を行ない、11月18日に幹部会に報告されたネルシーニョ氏側の希望額は、協会が出せる限度額と1億円ほどの開きがありました。
翌11月19日、加藤委員長は再びネルシーニョ氏と接触して、条件のすり合わせを行なった結果、協会の提示額とほぼ一致させる条件を加藤委員長に伝えました。
同じ日、幹部会は、1億円もの開きがあるネルシーニョ氏の希望条件は受け入れ困難との観測を抱き「やはり加茂続投で行くしかない」と、加藤委員長の報告持ち帰りを待たずに、すでに横浜Fとの契約寸前まで行っている加茂氏に翻意を促すことに決めたのでした。
加藤氏が11月19日夜遅く「ネルシーニョ氏が協会条件を受諾意向」を長沼会長に報告したものの、それは「時すでに遅し」の徒労でした。
協会は11月20日、川淵副会長が電話で加茂氏に続投意思を確認しましたが、加茂氏は固辞します。しかし11月21日、幹部の話し合いであらためて加茂氏への要請を確認、当日、長沼会長が自ら加茂氏に面会して続投を要請しました。
そこでも一旦は固辞しますが、それは契約寸前までいっている横浜Fに詫びを入れてキャンセルを了承していただかないことには受けられないからです。
その時の様子を加茂監督は自身の著書「モダンサッカーへの挑戦」(1997年3月講談社文庫版)の中で、こう記しています。
「契約書にサインするばかりになったとき、日本サッカー協会のほうが大きく揺らぎ、急転して私と再契約する方向に傾いたのだ。」
「もちろん、そんなことができるはずはない。横浜フリューゲルスに合わせる顔もないではないか」
「だが、日本リーグの全日空時代から部長としてサッカー部のめんどうを見、このころには、フリューゲルスの顧問になっておられた長谷川章さんがこう言ってくれた。」
「フリューゲルスでやらなければならない君の気持ちはわかった。しかし自分の思いどおりにやりなさい」
「長谷川さんは、理不尽な話をすべて飲み込み、私に日本代表監督を続けることを勧めてくれたのだ。この言葉がなければ、私は協会の要請を受けることはできなかっただろう。この恩に報いるためにも、何が何でも最後の結果をださなければと思っている。」
こうしたいきさつがあって、加茂監督は続投要請を受け入れました。しかし、奇妙なことに協会は、ネルシーニョ氏に「条件交渉断念、要請撤回」を伝える作業を怠ってしまいました。ヴェルディの森下社長に「加茂監督続投」の結論が知らされたのは、11月22日の午前、まもなく始まる記者会見の直前でした。
そのようにして、11月22日昼過ぎの記者会見で「加茂監督続投」が発表されたのです。
ネルシーニョ氏の「腐ったミカン」発言は、その日の夜、浦和レッズとの試合後の会見で飛び出しました。長沼氏、川淵氏の名をあげ「噓つきで腐っている。みかんの箱の中に何個か腐ったミカンが混じっているようなものだ」と非難したのです。
ヴェルディの森下社長は「ネルシーニョ監督のプライドを傷つけ、加茂監督の仕事をやりにくくして、一体何のためにこんなことをしたのか」と語ったそうです。
続投が決まった加茂監督も「自分は被害者だとは思わないが、決定に対しては疑問がある」と漏らしています。
この経緯について、週刊「サッカーマガジン」誌は、この11月22日発売の号(No.533,95.12.6)で「最終予選までネルシーニョ全権監督、本日正式発表へ」という特集を組んでいます。同誌も見事にハシゴを外されたクチでした。同特集の末尾には「次号からは『ネルシーニョ代表の青写真』を連載する」と予告も打ちましたが、掲載されることはありませんでした。
「サッカーマガジン」誌にしてみれば、当日発売の最新号に打った自信の記事を手にしながら、それが誤報だと知らされる会見を目の前で見せられる思いは、いかばかりだったでしょう。
ちなみに、当時、発売日が同日だった週刊「サッカーダイジェスト」誌は「ネルシーニョ監督、本日正式発表へ」といった類の記事は掲載しませんでしたが、これは、むしろサッカー協会への食い込み度が、「サッカーマガジン」誌のほうが圧倒的に強かった違いによるものではないかと推測しています。
「サッカーダイジェスト」誌は、当時、伝統的に海外サッカーを手厚く報じるタイプでしたから。
「サッカーマガジン」誌は、次号、11月29日発売号で「混迷の11月22日『フランスへの男を選ぶ』急転までの全真実」と題して、4ページの徹底リポートを掲載、協会の意思決定プロレスを痛烈に批判しました。
当ブログも、大部分をこの記事に依拠して書き込んでいます。
こうしてみると、おわかりのとおり、当時の日本サッカー協会の上層部がいかに代表監督人選を私物化していたか、ということです。
当時の登場人物や団体の立場、役割などをもう一度、簡略化してご紹介しましょう。
長沼会長、岡野副会長、 この方たちは、もともとが日本人監督派、加茂続投派だったが、報告書にもとづく監督選任を無視できず、最初は沈黙していたが。ネルシーニョで決まりかけた最後になって、加茂続投を持ち出し、結局ネルシーニョに仁義もきらずに押し切った。
川淵副会長、 この方もどちらかと言えば、加茂続投派だったが、自分が統括する強化委員会の報告書を無視できない立場でもあり態度が迷走。最後は続投を認める側に加担したことからネルシーニョから「嘘つき」といわれる羽目になった。
加茂監督、 強化委員会報告書で自分の評価がかなり低いことを知り、川淵氏に辞意を伝達して、横浜フリューゲルスへの復帰をコーチ陣とセットで準備、ほぼ契約直前までいっていたが、長沼会長の直談判を受け「続けるべきか、固辞すべきか」ハムレット状態に。しかし横浜フリューゲルスの恩人に背中を押されて、どうにか続投を受諾するという苦渋の選択でした。
ネルシーニョ氏、協会から代表監督就任要請を受け、条件交渉に入った。代表監督は光栄であるものの条件面では希望額を提示、それが協会限度額と開きが大きいと知り譲歩したが、当初希望額が協会側に伝わったことで、ネルシーニョ断念の口実を作ってしまった。しかし、交渉継続中のまま「加茂監督続投」を発表され突然ハシゴを外されてしまった形になり「協会に腐ったミカンがある」と激怒した。
強化委員会(加藤久委員長)、加茂監督の1年間の仕事の評価についての結論として、先に3人の外国人監督との交渉を優先すべきという報告書を協会幹部に提出、後任選びに駆り出され、ネルシーニョ氏やヴェルディとの折衝役として舞台に上げられながら、最後にハシゴを外され、報告書も反故にされ面子を失った。
加茂氏との契約寸前までいった横浜フリューゲルスも監督人選をイチからやり直さざるを得なくなり、ネルシーニョを代表監督に送り出そうとしていたヴェルディも面子を失ってしまいました。
日本サッカー協会の一握りの幹部が、どれほど多くの人たちを振り回したのかを顧みることなく下した決定が「ネルーシニョ氏代表監督要請破棄」というドタバタ劇の顛末でした。
この一連の稚拙な組織の意思決定プロセスの反省が、このあとの教訓になったことは言うまでもありません。なにしろ代表監督選考の「諮問機関」にあたる「強化委員会」の報告書は、この当時は建前だけの紙きれに過ぎない扱いをされていたのです。
一応、組織的な意思決定の手続きを踏んでいるように見せかけて、その実、自分たちが恣意的に物事を決めてしまうという、協会を私物化したやり方が、まだ、この頃はまかり通っていたということです。
ただ、強化委員会報告書が問題提起した加茂監督の問題点は、2年後、アジア最終予選という真剣勝負の場で現実のものとなってしまいました。その結果、あの1997年10月、カザフスタンの地で長沼会長が発表した「加茂監督を解任して岡田コーチを昇格」という、まさに瀬戸際での発表となったわけです。
もし1995年11月の時点で、ネルシーニョ監督になっていたら・・・、というタラレバの話をしたいところですが、その可能性はなかったと見るべきでしょう。当時、協会幹部に加茂監督解任の選択はなかったのです。ネルシーニョへの要請という動きは、協会幹部が手続きを踏んだフリをするという、ハタ迷惑な態度をとったことによって生じた副産物であり、ネルシーニョ監督誕生はあり得ない話だったと言えます。
もし加茂監督が続投要請を固辞し続けたら・・・、というタラレバもありますが、それも「ない」と思います。加茂監督の著書から紹介した部分に「長谷川さんは、理不尽な話をすべて飲み込み、私に日本代表監督を続けることを勧めてくれたのだ。この言葉がなければ、私は協会の要請を受けることはできなかっただろう。」というくだりがありますが、長谷川さんという方にしても、日本代表監督と横浜フリューゲルスの監督を考えた場合、そう応じるしかないのではないでしょうか。
それが仮にベンゲル氏であったとしても、同じだったことでしょう。仮にベンゲル氏が前向きだったとしても、協会幹部はなんらかの理由をつけてベンゲル監督誕生を阻止したことでしょう。横浜フリーゲルスに合わせる顔がないぐらいに困ってしまった加茂監督の胸中などお構いなしに、加茂続投を強行した協会幹部ですから。
ということは、歴史の針は刻々と、加茂監督のもとアジア最終予選の土壇場まで、出場権獲得が風前の灯となるまで、引っ張られていくことに向かっていたということになります。
「ネルーシニョ氏代表監督要請破棄」事件は、協会一握り幹部による「多くの関係者振り回し事件」でしかなかった、ということがわかりました。
ヴェルディの森下社長ですが、この事件で「ネルシーニョ氏は協会からプライドを傷つけられ」とコメント、さらに2年半後の1998年6月、カズ落選発表では「岡田監督からプライドを傷つけられ」とコメントする役回りとなりました。ヴェルディがそういう立場になってしまったのも、何かの因縁なのかも知れません。
また一つ、30年の記録を紐解く中で、真相を知りました。
ありがとうございました。
【文中、週刊「サッカーマガジン」誌の「ネルシーニョ全権監督、本日正式発表へ」の特集関連のところを、本日1月12日、一部加筆しました。】
カズ選手がフランスW杯代表から土壇場で落選した時の衝撃を、当時の少し時間を巻き戻して、つぶさに検証してみると、ずいぶん違った真相が見えてきました。
すると、その落選劇のもう一人の当事者である岡田監督という人は、前年、突然、代表監督の座に押し上げられ、表舞台に登場した人ですが、では、なぜ表舞台に登場する立ち位置にいたのか、これもまた、当時の時間を巻き戻して、つぶさに確認してみると、サッカーの神様に導かれたとしか、いいようのない「代表監督としての決断力や戦略的資質」とは全く別の理由から、加茂監督のコーチに選任されていたことがわかりました。
そうした、流れから新たに浮かんできたのが、1995年11月に起きた、日本サッカー協会の加茂監督続投決定に至る、各方面を巻き込んだドタバタ劇でした。
1994年12月、ファルカン日本代表監督の解任を受けて、日本代表監督に就任した加茂監督は、フランスW杯出場権獲得のミッションを視野に入れながらも1年契約(95年11月30日まで)で、仕事ぶりを見て契約を更新するという状況でした。
仕事ぶりを評価するのは、日本サッカー協会の「強化委員会」というチームで、当時、現役を引退したばかりの加藤久氏が委員長に抜擢されていました。
加藤氏率いる強化委員会は、加茂監督の仕事ぶりをいろいろな角度から分析した結果「加茂監督の戦術と采配には、相手に応じ対応するという柔軟さと臨機応変さに欠けていて、特に加茂氏が採用しているゾーンプレスの戦術は、相手チームに研究された攻撃をされると対応できない弱さがある」と結論付け、第一候補にベンゲル氏、第二候補にネルシーニョ氏、第三候補にオフト氏を推薦しました。
加茂氏は、それら3人の候補がすべてダメだった場合、やむなく続投という位置づけだったのです。
それが1995年10月30日に行われた日本サッカー協会幹部会(長沼会長、岡野副会長、川淵副会長ほか2名の5名)で審議され、各氏に意向を打診して決めようということになりました。
長沼会長は加茂氏に電話を入れたところ、加茂氏は「自分の優先順位が低いことから続投の芽はないと判断して横浜Fにお世話になることに決めています。あとは契約を残すばかりです」と回答がありました。
川淵副会長がベンゲル氏と監督を務めるグランパス、そしてオフト氏と監督を務めるジュビロに電話を入れたところ、いずれも固辞の姿勢でした。
第二候補のネルシーニョ氏と所属のヴェルディは、すでに強化委員会レベルで打診した際に好感触を得ていたことから、候補者をネルシーニョ氏一本に絞り、条件面の詰めに入りました。それを任された加藤委員長がネルシーニョ氏側と条件面の交渉を行ない、11月18日に幹部会に報告されたネルシーニョ氏側の希望額は、協会が出せる限度額と1億円ほどの開きがありました。
翌11月19日、加藤委員長は再びネルシーニョ氏と接触して、条件のすり合わせを行なった結果、協会の提示額とほぼ一致させる条件を加藤委員長に伝えました。
同じ日、幹部会は、1億円もの開きがあるネルシーニョ氏の希望条件は受け入れ困難との観測を抱き「やはり加茂続投で行くしかない」と、加藤委員長の報告持ち帰りを待たずに、すでに横浜Fとの契約寸前まで行っている加茂氏に翻意を促すことに決めたのでした。
加藤氏が11月19日夜遅く「ネルシーニョ氏が協会条件を受諾意向」を長沼会長に報告したものの、それは「時すでに遅し」の徒労でした。
協会は11月20日、川淵副会長が電話で加茂氏に続投意思を確認しましたが、加茂氏は固辞します。しかし11月21日、幹部の話し合いであらためて加茂氏への要請を確認、当日、長沼会長が自ら加茂氏に面会して続投を要請しました。
そこでも一旦は固辞しますが、それは契約寸前までいっている横浜Fに詫びを入れてキャンセルを了承していただかないことには受けられないからです。
その時の様子を加茂監督は自身の著書「モダンサッカーへの挑戦」(1997年3月講談社文庫版)の中で、こう記しています。
「契約書にサインするばかりになったとき、日本サッカー協会のほうが大きく揺らぎ、急転して私と再契約する方向に傾いたのだ。」
「もちろん、そんなことができるはずはない。横浜フリューゲルスに合わせる顔もないではないか」
「だが、日本リーグの全日空時代から部長としてサッカー部のめんどうを見、このころには、フリューゲルスの顧問になっておられた長谷川章さんがこう言ってくれた。」
「フリューゲルスでやらなければならない君の気持ちはわかった。しかし自分の思いどおりにやりなさい」
「長谷川さんは、理不尽な話をすべて飲み込み、私に日本代表監督を続けることを勧めてくれたのだ。この言葉がなければ、私は協会の要請を受けることはできなかっただろう。この恩に報いるためにも、何が何でも最後の結果をださなければと思っている。」
こうしたいきさつがあって、加茂監督は続投要請を受け入れました。しかし、奇妙なことに協会は、ネルシーニョ氏に「条件交渉断念、要請撤回」を伝える作業を怠ってしまいました。ヴェルディの森下社長に「加茂監督続投」の結論が知らされたのは、11月22日の午前、まもなく始まる記者会見の直前でした。
そのようにして、11月22日昼過ぎの記者会見で「加茂監督続投」が発表されたのです。
ネルシーニョ氏の「腐ったミカン」発言は、その日の夜、浦和レッズとの試合後の会見で飛び出しました。長沼氏、川淵氏の名をあげ「噓つきで腐っている。みかんの箱の中に何個か腐ったミカンが混じっているようなものだ」と非難したのです。
ヴェルディの森下社長は「ネルシーニョ監督のプライドを傷つけ、加茂監督の仕事をやりにくくして、一体何のためにこんなことをしたのか」と語ったそうです。
続投が決まった加茂監督も「自分は被害者だとは思わないが、決定に対しては疑問がある」と漏らしています。
この経緯について、週刊「サッカーマガジン」誌は、この11月22日発売の号(No.533,95.12.6)で「最終予選までネルシーニョ全権監督、本日正式発表へ」という特集を組んでいます。同誌も見事にハシゴを外されたクチでした。同特集の末尾には「次号からは『ネルシーニョ代表の青写真』を連載する」と予告も打ちましたが、掲載されることはありませんでした。
「サッカーマガジン」誌にしてみれば、当日発売の最新号に打った自信の記事を手にしながら、それが誤報だと知らされる会見を目の前で見せられる思いは、いかばかりだったでしょう。
ちなみに、当時、発売日が同日だった週刊「サッカーダイジェスト」誌は「ネルシーニョ監督、本日正式発表へ」といった類の記事は掲載しませんでしたが、これは、むしろサッカー協会への食い込み度が、「サッカーマガジン」誌のほうが圧倒的に強かった違いによるものではないかと推測しています。
「サッカーダイジェスト」誌は、当時、伝統的に海外サッカーを手厚く報じるタイプでしたから。
「サッカーマガジン」誌は、次号、11月29日発売号で「混迷の11月22日『フランスへの男を選ぶ』急転までの全真実」と題して、4ページの徹底リポートを掲載、協会の意思決定プロレスを痛烈に批判しました。
当ブログも、大部分をこの記事に依拠して書き込んでいます。
こうしてみると、おわかりのとおり、当時の日本サッカー協会の上層部がいかに代表監督人選を私物化していたか、ということです。
当時の登場人物や団体の立場、役割などをもう一度、簡略化してご紹介しましょう。
長沼会長、岡野副会長、 この方たちは、もともとが日本人監督派、加茂続投派だったが、報告書にもとづく監督選任を無視できず、最初は沈黙していたが。ネルシーニョで決まりかけた最後になって、加茂続投を持ち出し、結局ネルシーニョに仁義もきらずに押し切った。
川淵副会長、 この方もどちらかと言えば、加茂続投派だったが、自分が統括する強化委員会の報告書を無視できない立場でもあり態度が迷走。最後は続投を認める側に加担したことからネルシーニョから「嘘つき」といわれる羽目になった。
加茂監督、 強化委員会報告書で自分の評価がかなり低いことを知り、川淵氏に辞意を伝達して、横浜フリューゲルスへの復帰をコーチ陣とセットで準備、ほぼ契約直前までいっていたが、長沼会長の直談判を受け「続けるべきか、固辞すべきか」ハムレット状態に。しかし横浜フリューゲルスの恩人に背中を押されて、どうにか続投を受諾するという苦渋の選択でした。
ネルシーニョ氏、協会から代表監督就任要請を受け、条件交渉に入った。代表監督は光栄であるものの条件面では希望額を提示、それが協会限度額と開きが大きいと知り譲歩したが、当初希望額が協会側に伝わったことで、ネルシーニョ断念の口実を作ってしまった。しかし、交渉継続中のまま「加茂監督続投」を発表され突然ハシゴを外されてしまった形になり「協会に腐ったミカンがある」と激怒した。
強化委員会(加藤久委員長)、加茂監督の1年間の仕事の評価についての結論として、先に3人の外国人監督との交渉を優先すべきという報告書を協会幹部に提出、後任選びに駆り出され、ネルシーニョ氏やヴェルディとの折衝役として舞台に上げられながら、最後にハシゴを外され、報告書も反故にされ面子を失った。
加茂氏との契約寸前までいった横浜フリューゲルスも監督人選をイチからやり直さざるを得なくなり、ネルシーニョを代表監督に送り出そうとしていたヴェルディも面子を失ってしまいました。
日本サッカー協会の一握りの幹部が、どれほど多くの人たちを振り回したのかを顧みることなく下した決定が「ネルーシニョ氏代表監督要請破棄」というドタバタ劇の顛末でした。
この一連の稚拙な組織の意思決定プロセスの反省が、このあとの教訓になったことは言うまでもありません。なにしろ代表監督選考の「諮問機関」にあたる「強化委員会」の報告書は、この当時は建前だけの紙きれに過ぎない扱いをされていたのです。
一応、組織的な意思決定の手続きを踏んでいるように見せかけて、その実、自分たちが恣意的に物事を決めてしまうという、協会を私物化したやり方が、まだ、この頃はまかり通っていたということです。
ただ、強化委員会報告書が問題提起した加茂監督の問題点は、2年後、アジア最終予選という真剣勝負の場で現実のものとなってしまいました。その結果、あの1997年10月、カザフスタンの地で長沼会長が発表した「加茂監督を解任して岡田コーチを昇格」という、まさに瀬戸際での発表となったわけです。
もし1995年11月の時点で、ネルシーニョ監督になっていたら・・・、というタラレバの話をしたいところですが、その可能性はなかったと見るべきでしょう。当時、協会幹部に加茂監督解任の選択はなかったのです。ネルシーニョへの要請という動きは、協会幹部が手続きを踏んだフリをするという、ハタ迷惑な態度をとったことによって生じた副産物であり、ネルシーニョ監督誕生はあり得ない話だったと言えます。
もし加茂監督が続投要請を固辞し続けたら・・・、というタラレバもありますが、それも「ない」と思います。加茂監督の著書から紹介した部分に「長谷川さんは、理不尽な話をすべて飲み込み、私に日本代表監督を続けることを勧めてくれたのだ。この言葉がなければ、私は協会の要請を受けることはできなかっただろう。」というくだりがありますが、長谷川さんという方にしても、日本代表監督と横浜フリューゲルスの監督を考えた場合、そう応じるしかないのではないでしょうか。
それが仮にベンゲル氏であったとしても、同じだったことでしょう。仮にベンゲル氏が前向きだったとしても、協会幹部はなんらかの理由をつけてベンゲル監督誕生を阻止したことでしょう。横浜フリーゲルスに合わせる顔がないぐらいに困ってしまった加茂監督の胸中などお構いなしに、加茂続投を強行した協会幹部ですから。
ということは、歴史の針は刻々と、加茂監督のもとアジア最終予選の土壇場まで、出場権獲得が風前の灯となるまで、引っ張られていくことに向かっていたということになります。
「ネルーシニョ氏代表監督要請破棄」事件は、協会一握り幹部による「多くの関係者振り回し事件」でしかなかった、ということがわかりました。
ヴェルディの森下社長ですが、この事件で「ネルシーニョ氏は協会からプライドを傷つけられ」とコメント、さらに2年半後の1998年6月、カズ落選発表では「岡田監督からプライドを傷つけられ」とコメントする役回りとなりました。ヴェルディがそういう立場になってしまったのも、何かの因縁なのかも知れません。
また一つ、30年の記録を紐解く中で、真相を知りました。
ありがとうございました。
【文中、週刊「サッカーマガジン」誌の「ネルシーニョ全権監督、本日正式発表へ」の特集関連のところを、本日1月12日、一部加筆しました。】
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