私の 別のブログ にも書きましたが、劇作家の井上 ひさし さんが、4月10日に亡くなられました。
多くのメディアで、4月12日付にて井上 ひさし さんの業績を伝え死を惜しんでいます。
新聞は、12日が休刊日だったので、本日付で伝えています。
お悔み申し上げます。
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出身地である東北を拠点とする【河北新報】の記事をご紹介します。
「気さくな方だった」
仙台市民ら在りし日の井上さんしのぶ
井上さんの死を悼み、記帳所を訪れるファンら
=11日、仙台市青葉区の仙台文学館
宮城ゆかりの劇作家・作家の井上ひさしさんの突然の訃報(ふほう)。県内でも多くの足跡を残した文人の死を、関係者が悼んだ。
井上さんの母校、仙台市宮城野区の東仙台中では12日、新入生と在校生との対面式の中で、全員が黙とうをささげた。
井上さんは講演会などで、たびたび母校を訪れた。桜井健二校長(57)は「生徒と交流の場を設けたいと思っていただけに残念」と悔やんだ。
図書室には「井上ひさし文庫」と名付けた一角がある。2007年、創立60周年を記念し、同窓会と井上さんが贈った著書225冊が並ぶ。
「棚に並ぶ著作をうれしそうに眺めていました」と図書事務担当の学校職員吉沢明美さん(51)。人気があるのは「ひょっこりひょうたん島」。「パワーにあふれた作品。生徒にずっと愛され続けるはず」としのんだ。
井上さんは大正デモクラシーの指導者吉野作造に心酔し、大崎市の吉野作造記念館の名誉館長を務めた。「気さくな方だった」と田中昌亮館長(79)は懐かしむ。「昨年4月の講演会で自分の病気をおもしろおかしく語っておられた。わが人生に悔いなしの心境だったのだろう」
長年、井上さんを撮影した写真家佐々木隆二さん(69)=仙台市青葉区=は「表現者の気構えを教えられた」と言う。
撮った写真は数千枚。時に、満面の笑みが一瞬にして変わることがあった。「大切な何かを伝えようとする時、別人の顔になった」と思い返す。
1999年に開館した、仙台市の仙台文学館(青葉区)の初代館長も務めた井上さん。同館に設けられた記帳所には、多くのファンが訪れ、遺影に手を合わせた。奥山恵美子市長は「資料収集や企画展示に尽力していただき、館の礎を築いてくださった」と感謝した。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/20100413t13017.htm
【河北新報】 2010年04月13日火曜日
足跡多彩、東北見つめ
井上ひさしさん死去
ユーモアを交え、高校生に文章作法を教える井上さん
=2003年11月、仙台市青葉区の仙台文学館
仙台文学館(仙台市青葉区)の初代館長を務めるなど、東北地方でも多彩な活動をした劇作家・作家の井上ひさしさんが9日亡くなった。ゆかりの深い各地では12日も、多くの関係者やファンが記帳などに訪れ、温かい人柄や功績をしのんだ。
◎仙台/「人生の締めくくり共に仕事を…」
/元園長の願い届かず
井上さんが中学3年の秋から高校卒業までを過ごした児童養護施設「ラサールホーム」(当時・光ケ丘天使園)元園長の修道士、石井恭一さん(86)=仙台市宮城野区=は「人生の締めくくりとしてホームに戻り、子どもたちにかかわる仕事を手伝ってほしかった。早すぎた」と悼んだ。
井上さんは大人になってからも、石川さんを師と仰ぎ、文通を重ねた。
「丸みを帯びた柔らかな字体は、少年のころから変わらない」
手元に残された何通もの手紙をいとおしげにみつめた後、「今はただ、魂の安息を願うばかり」と2人が映った写真に両手を合わせた。
仙台文学館では18日まで、正面玄関に記帳台を設け、記帳を受け付けている。館長時代によく顔を出した館内の飲食店「杜の小径」の三山タエ子さん(66)は「ネギそばが好物だった。『今日も頑張ってね』と気さくに声を掛けてくれた」と涙目で語った。
市内の文章サークル「仙台文の會(かい)」の有地和子会長(62)は「先月、見舞いにトマトを送った。1日付の礼状が届いたばかりなのに」とショックを隠せない。
文の會はメンバー約80人。1995年に結成され、井上さんの指導を受けてきた。有地さんは「私生活の報告をしたためると、それをモチーフに短編小説をお書きになった。作品の中に、人生のアドバイスが潜ませてあった」と懐かしんだ。
仙台一高の同級生で、文具事務用品販売「庄文堂」(仙台市)の庄子英文会長(75)は「こんなに早く逝くとは思わなかった」と肩を落とす。
友人思いで、15年ほど前に亡くなった同級生の葬儀では、井上さん自ら下足番を買って出た。庄子さんは「友人の役に立ちたい気持ちが強かったのだろう」と、しんみりと語った。
◎山形/古里の友「逝くのが早すぎるよ」
井上さんの古里・山形県川西町では、井上さんが寄贈した書籍などを所蔵する「遅筆堂文庫」がある町フレンドリープラザに記帳台が設けられ、ゆかりの人たちが次々と訪れた。
「ちょっと逝くのが早すぎるよ。病院に押しかけてでももう一度会いたかった」と悔やむのは、小学校時代の同級生の後藤正さん(75)。「いつもおとなしいのに、自習時間におどけて落語をすることもあった。作家になってからも遊びに行けば、締め切り間際でも2、3時間、相手をしてくれた」と振り返った。
井上さんは、農作物の輸入自由化に不安を募らせた農家を元気づけようと、1988年からほぼ毎年「生活者大学校」を開催。91年当時、若手農業者として参加した原田俊二町長(53)は「弱い立場の人間を支援する先生の指導を引き継ぎ、まちづくりに生かすのが役目」と胸に刻んだ。
山形市にある遅筆堂文庫山形館も、記帳台を設置した。同館は18日に予定しているジャズピアニスト小曽根真さんと神野三鈴さん、井上芳雄さんのコンサート「お芝居と音楽の素敵(すてき)な関係」を、井上さんの追悼コンサートとして開催するという。
山形県の吉村美栄子知事は「寄贈された蔵書の遅筆堂文庫での公開など、山形県文化の振興に多大なお力添えをいただいてきた。生前のご功績に敬意と感謝の意を表し、心からご冥福をお祈りします」との談話を発表した。
◎岩手/交流深く「協働の大切さ学んだ」
井上さんは人気作家となった後も、中学時代の一時期を過ごした一関市で、市民による「文学の蔵」(2006年開館)設立運動に協力した。
設立委員会で事務局を務めた佐藤晄僖さん(68)=一関市=は「言葉が見つからない」と、悔しそうに話した。
佐藤さんが忘れられないのは運動の一環で開いた1992年秋の作文教室。井上さんは参加者の作文約140点を徹夜で添削し、句読点から語句の使い方まで丁寧に直した。「おごらず、誰でも大事にする人だった」と惜しんだ。
岩手県大槌町は、大槌湾に浮かぶ蓬莱(ほうらい)島が「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされるほか、ベストセラー「吉里吉里人」でも脚光を浴びた。82年の「吉里吉里国」の誕生宣言は全国のミニ独立国の先駆けともなった。加藤宏暉町長は「両作品は街づくりには『協働』そのものが必要だと教えてくれた」と功績をたたえた。
このほか、井上さんは上智大在学中に2年間休学し、釜石市でも生活。国立釜石療養所(現国立病院機構釜石病院)の臨時事務員として働いた。
岩手との深い結び付きから、02~06年には在京岩手県人連合会の第5代会長も引き受けた。達増拓也知事は「岩手県民にとってかけがえのない方だった。心からご冥福を祈りたい」と話した。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/20100413t73013.htm
【河北新報】 2010年04月13日火曜日
作家の井上ひさし氏が死去
劇作家・作家で平和運動にも取り組んだ井上ひさし(いのうえ・ひさし、本名廈=ひさし)氏が9日午後10時22分、肺がんのため死去した。75歳。山形県川西町出身。葬儀は近親者のみで行う。喪主は未定。
テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」(共作、1964年放送開始)で注目を集め、72年に戯曲「道元の冒険」で岸田国士戯曲賞、小説「手鎖心中」で直木賞を受賞した。
84年、自身の戯曲を上演する「こまつ座」を旗揚げ。代表作に戯曲「父と暮せば」「人間合格」、小説「吉里吉里人」「四千万歩の男」など。護憲を訴える「九条の会」呼び掛け人の一人。戦争責任や平和、農業など多岐にわたる発言で知られた。
2004年文化功労者、09年日本芸術院会員。読売文学賞、吉川英治文学賞、菊池寛賞などを受賞し、03~07年に日本ペンクラブ会長。99年に開館した仙台文学館(仙台市青葉区)では、07年まで初代館長を務めた。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/20100411t75031.htm
【河北新報】 2010年04月11日日曜日