現代の貧困
現代文学の課題を岩渕氏は小林多喜二の言葉を引いて「貧困を書くのではなく、いかに貧困であるのかを書くのだ」と主張した。
小林多喜二がどこでどのような文脈でこのように述べているのか、わからないが、貧困がいかにしてつくられているのかを書け、と言ってるのだと私は理解した。
多喜二が生きた明治末から大正時代の初めごろの文学の課題が貧困の問題であった。それから百年後の現代も貧困の問題が文学の課題になっている。資本主義という経済の仕組みは貧困の問題を基本的には解決することができない。
いかに貧困が高度に発達した資本主義国・日本で、いやアメリカ合衆国にあってもつくりだされているのか、この問題に文学はとりくまなくてはならないようだ。
現代日本の貧困に対して文学者が発した言葉の中で力を持った言葉の一つが「生きさせろ」だ。若手作家・雨宮処凛のルポの表題である。処凛は主張する。「無条件で生きさせろ」。労働意欲も旺盛な元気な若者がホームレスとなり、生きられない現実がある。この現実に対して人間すべてを無条件で生きさせろと主張する。この日本の現実はアメリカの現実でもあるし、世界の現実でもある。この現実がいかに、どのように、もっともらしくつくられていっているのかを表現することが現代文学に課せられている。
憲法が保障する生存権が脅かされている。この生存権の実現が現代日本社会に課せられている。それはまた同時に現代文学の課題でもあるのだろう。多喜二が生きた時代には憲法が生存権を保障していなかった。主権在民、自由・平等を求める者に対して権力は剥き出しの暴力でもって弾圧したが現在はこのようなことはできない。現代の権力者たちは憲法二十五条が保障する生存権は実現すべき目標であって直ちに生活に困っている人々を救済できないことがあっても憲法に違反しないと主張して、生存権の実質的な実現を拒んでいる。
資本主義という経済システムの下では財政上、生存権を保障する予算がないという理由で貧困を政府は解決しようとしない。なぜなら生存権というものは抽象的な目標でしかないのだから直ちに実現しなくともよい。憲法に反するわけではないというのだ。
われわれ国民の課題は生存権の保障という抽象的な政府の課題を具体的に実現する課題にしなければならない。だから憲法は次のようにも述べている。
日本国憲法第十二条は、憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない、と述べている。
国民は不断の努力によって生存権の保持を実現しなければならない。国民の生存権を実質的に実現する不断の努力の一環として文学もあるのだろう。
今までのいつの時代も、社会も底辺に生きる弱者に社会の負担を背負わせようとする。強者は弱者に負担をしわ寄せし生き延びようとする。この実態を具体的な生活の場で表現し、訴えることが文学に課せられている。
文学は弱者同士の協力や連帯を表現することによって権力者を弾劾しなければならない。