珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

学校事情24

2021-04-30 | コロナ騒動
子供(学校)にマスクを強要させている大元を辿ったら
文部科学省にたどり着いて、茶番はわかっているけど、圧力からデタラメなマニュアルを作ってでも、生活のためにそれに従わせなければならないということがわかった。

ちなみに学校へは、子供の名はもちろん、私の個人情報は一切伏せての問い合わせをしたが、学校のホームルームの時間に
「父兄から『マスクの強要はやめて頂けないでしょうか』というお願いがありましたが、それはできないことをご理解頂きたい」という話があったそうである。

今言われている、飲食店の時短やら、デパートの休館やら、遊園地の無観客開催(意味不明)やら、連休は出歩くなという号令やら、あくまで2類感染に据え置く諸々、感染対策と称する一切は
茶番はわかっているけど、逆らえない圧力により推し進めることをご理解頂きたいということである。

ちなみに学校と教育委員会には、従わない場合は犯罪ですか?罰則を課しますか?と訊いたら、
「犯罪にはなりませんが、指導は致します」と言われた。
教師という立場を使って、パワハラや圧力をかけるくらいはするということである。

「大人はしょうがないわ。でも未成年にまでこんなことして恥ずかしくないの?」と訊いたら押し黙った。
マニュアルにないことは答えないのである。
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学校事情23

2021-04-30 | コロナ騒動
文部科学省に電話したら委託された窓口担当者という田中という人が出た。
名前は?と訊かれたら「田中」と名乗るようにされているしい。

率直に問うてみる。
「いいですか?あなたの返答は全て録音されています。今後答えることは一切を世界発信させて頂いますが、よろしいですか?いいならいい、ダメならダメと言ってください、いきますよ。3、2、1」
「はい、よろしいです…」
「OK。確認のために再度、大きい声で言ってください」
「はい、よろしいです」
「OK。ではいきます。私は世界で誰も分離していないウイルスでありながら、あなた方文部科学省の公文書のために、全国の小中高学生がマスクをしなければならない事実について真向から問いたいのです。この真意を問いたいんです、あなたのような委託業者をすっとばして、責任者に取り次いで頂きたく、お願いしたいんですがそれはでいませんか?」
「マニュアルに従ってできません」
「イエスノーではっきりお答えください。それはそういう圧力が掛かってできないのですか」
「はい、そういうことです」
「田中さん、重要なことなので再度確認します。世界発信しますよ?それはそういう、不都合による圧力が掛かって言えないのですか?」
「はい、そういうことです」
「了解。じゃあアナタ自身は文部科学省に勤めるほどの頭も学もある方ですね?この茶番を知らないはずがない。正直全部わかっているけど、生活のために本当のことは言えない。このようなアンサーをするしかない。ここがギリギリ、そういうことでよろしいですか?」
「はい、そういうことです」
「声が小さいよ。もっとはっきり言ってくれる?配信してあげるから、もう一回言って。否定してもいいから本心を言って」
「はい、そういうことです…」

私はありがとうといって電話を切った。
03-5253-4111
(内線)8309
のやりとりである。

電話したい人は試しに「田中さんお願いします」と言ってみてください。田中さんて実在するのかなーw
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何度でも言われるこれ3

2021-04-30 | S教団関係
チョイ活という言葉が変に広がったのはいいけど、同時にその解釈も広がって、宗教が宗派によって枝分かれする原理を知るような感じ??
で、それが同志の間はいいけどアンチになるとVSな関係になるのがつくづくも厄介と思う。

が、基本、ユル活がバリ活の活動ぷりというか「バリ活ゆえ」を批判したことはないと思う。
(人によってはあるのかもしれないけど、私はそんなことを書いた覚えはない)
バリ活の方がユル、チョイスを「面倒なことを人に押し付けてお客さんとしてのうのうとしていた」とか「不都合は見て見ぬふりをしていた」とか「たいしたことやってないくせにやってから言え」「やらなかったことがやましかったに違いない」
人によっては最低野郎、身勝手とまで批判することをなぜ?と言っているだけである。
自分の悔いのようなものが、そういうことを任命したり、ハッパをかけたり、指導した上でなくて、末端の同志へ行くことを違うと言っているだけである。

幽霊部員の数を合わせるために新聞を無駄にとったり、読みたいならいいけど、読みたくもない書籍を買ったり、仕事や家庭をおかしくしてまで活動をすることが信心強情のようにされた風潮を批判するのは、熱心に活動する「信仰心」を批判しているのではない。
それが愚直な信仰心だという指導があったのならば、それこそインチキで、私にはそうは思えなかったし、それをやらなかった=信じてなかったと一蹴されるのは、違うと思うだけである。

ていうか、これってバリ活の問題?
個人の良心や価値観の話あって、バリ・ユルは関係ないよね?

手を合わせて祈る人は皆誰でも、ひたぶるな信仰心はあったと思う。
だから今も私は、信仰心を以て在席している会員を、騙されているだけのカモみたいな言い方をしないし、したくないのである。
教団の醜聞やノルマを使った利権のシステムと、信仰心は別だと何度も書いているのはそのためである。
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