昨日、学校の様子を見ていて、多くの人は感染対策を心から信じているわけではないんだと思った。
もし本気でソーシャルディスタンスを信じているなら、激込みのバスや電車には誰も何も言わないことに疑問を持たないわけがない。
「室内は換気が必要」を真に受けているなら、屋外で犬の散歩をしている時もマスクをする矛盾を問わないわけがない。
真剣に信じていればこんな「ちぐはぐ」が気にならないわけがなく、そこに戸惑わないはずがない。
考えないはずがないのである。
だから「信じているから従っている」は嘘だと思う。
テレビと同じくらい嘘だと思う。
それは信じているのではなくて「めんどくさいゆえ、何も考えてないか、或いは深く考えてないだけ」と思う。
自分の頭で考えたり、それを人に問うたりするのは、疲れるし波風が立つから敢えてやらないだけなのでは?
要は「自分の頭で考えて行動するなんてシンドイ思いをするくらいなら、例え理不尽でも、人の号令に従って、それに合わせている方がマシ」という人が相当居るのである。
言われるままを鵜呑みにするラクチンさは好きだけど、疲れるし面倒くさい「自分の頭で考えて調べて、人が何を言おうが、それに基づいて行動する」は極力やりたくない。
自分の頭で考えるのは、よほど、本当によほど、精神も肉体も疲弊して追い詰められてボロボロになる場合に限り。
自分の頭で考えるというしんどさとそれを天秤にかけて、人の号令の方が辛くなった時、やっとこさね。
ここまでになってやっと、面倒くささを払いのけて、気力と行動力をもって自分で考えるようである。
ソーシャルディスタンスとか、密とか、マスクとか、外食に行かないとか、ワクチンとか、人生を賭けるくらい本気で信じたの?
正直、メンドクサイから自分の頭で考えないことを「信じている」という美しい言葉ですり替えているような偽善?を感じなくもないわ。
「信じる」という意味を、私は本気で知っている。
騒動を通じて「信じた」という重みのある言葉と、「何も考えてなくてなんとなく空気に従った」の違いと誤魔化しを考える……
あなたは「本当は」どっち?