珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

共通の敵

2018-08-04 | 思うこと
共通の敵を作れば仲良しになれる。
組織が団結をはかる時に、意図的にこれを工作することもある。
だから不仲の嫁・姑や夫婦に、これを勧める人もいると聞いた。

ずっと前の話だけど、ある夫婦の前でうっかり夫と言い争いをしてしまったことがあった。
すると、そこの奥さんがやけに熱を入れて親身になったので、他人の夫婦にここまでお節介なのは何かあるのかな?と思ったらやはり「何かあった」
奥さんは当時「夫婦仲が世界の争いごとの根源」「夫婦仲こそ世界平和」みたいな思想を掲げる団体にどっぷりハマっていて、こいつらにこそ、私やセンセーの愛と力で救いを!!を身を乗り出したわけである。

話が説法じみてきて、しまいには「一度二人でセミナーを」みたいになったので、その手に乗るかと夫婦喧嘩も一気に冷めてしまった。
あの夫婦のターゲットにされると思ったら、くだらない喧嘩もあっさり治まってしまった。
まさに団結するにはご立派な思想より、共通の敵である(笑)

しかし、もともと好きでもないタイプが利害関係で「共通の敵」をつくって一瞬は仲良くなったとしても、それは脆いと思う。
そんなふうに仲良くなった人たちが、いつの間にかもっと敵同士になった例を知っている。
あんなにベタベタとつるんでいたのに、今度は口もきかないんだ…

人間関係は自然体が一番。
相性の合う人と、無理せず、自然体で付き合うことに勝ることはないと思う。
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夏の会話

2018-08-03 | 娘と夫の話
運動部に入った娘に「勉強と部活のどっちが好き?」と訊いたら
「どっちも嫌い」と即答された。

「勉強きらいでも、部活になったら生き生きする子いるじゃない」
「いないよ。そんなのドラマだけだよ」

連日の猛暑をクールダウンさせるような、毎度の会話である。

「秋に新人戦があるんだけどね、明日その予選で初めての試合があるの。××は絶対残ってやる!!ってはりきってるけど…」
「ねえ、ピノコだって勝つのが嫌いなわけじゃないでしょ。勝ったらうれしいでしょ?」
「あのね、やったー!!とかそれほどじゃなくて、まあよかったくらい。負けたら、まあしょうがない、次は頑張ろうくらい」

ザ・ユル活である。
まあ私も、非活にならない程度の母親であるが。

「夏休みの宿題はどうなってんの?」
「天気とか雲の観察して感想書けって言われてるけど、私、そんなものどうでもいい」

雲なら、先日夫がややこしいこと言ってたぞ。
イギリスの科学者チームが雲の重さを調べたら数十トンもあったらしくて、なんでそんなに思いものが落ちてこないのかわかるか?って訊かれた。

知らん。
「何万トンの鉄の船が海に浮くんだから、雲も浮かぶ物理的な理由があるんでしょ」
「そう、その理由なんだけどね」
夫のうれしそうな笑顔を遮って
「ああ、理由はいいです。理由は知らなくても私、浮かんでればそれでいいから」
夫はつまらなそうな顔をした。

我が家は全員の期待と興味が、残念ながらちょっとづつずれている。
まあ噛み合ったら、それはそれで暑苦しいかもね。
この冷めた感は、オールシーズンのことであるが(笑)







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海レベル

2018-08-03 | 日記
女同士のめんどうくさい話を一つ。

私にはAさんとBさんという友人がいた。
二人とも同じくらい好きだった。(というより、深く考えたことがなかった)
AさんとBさんも仲良しだった。少なくとも私にはそう見えた。

ところが後に、実はAさんはBさんのことが一方的に大嫌いだったことを知った。
私はそういうことに鈍い上に(相当鈍い)、AさんはBさんのことが大好きなんだと思いこんでいたために、そこのことに、これっぽっちも気づかなかった。

のちに「あ、そういえば?!」「ふつう気づくでしょ!!」「私って頭おかしい!!」ということがいろいろ出てきて不思議でしょうがなかったんだけど、思い込みとはそういうものである。
更にAさんはBさんの悪口を随分言っていたのに、私が全くなびかなかったので、ものすごくイライラしていたこともわかった。
言い訳すると、私はその悪口さえも悪口に聞こえなかったのである。
本当である。

私の思い込みというのは、それほどのものなのである。

ある時Aさんは、Bさんへの不満と私の鈍さに怒りが爆発して去っていってしまった。
置き手紙を残して。

私はポカン!というかキョトン!として、やっと事情を理解した。
AさんはBさんより、悪口に同調しなかった私の方に、相当の憎しみを持っていたことも。
もうサバサバと笑うしかなかった。

実はこれ、私がある団体をやめた時と同じパターンなのである。
うすうす感じていたけど考えないようにしていたとか、時々疑問が頭をもたげた、とかではない。
何の疑いも持たず、無邪気に好きだったのが、或る時突然「ああ、そういうことだったのか!」と。
この時、私はもっと思慮深くなろうと誓って、実際思慮深くなったと思っていた後が、これである。
またしても強固な思い込みだった。

私がいかに鈍感で、おめでたく、人も物事も疑うことを知らず、想像力がない人間か、お解り頂けると思う。
こんなことはおそらく、私がそれをモノにするまで試練のように繰り返されるんだと思う。
これでも、少しはマシになろうと意識をもって、努力している身なのである。
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閑話休題(ラザリスさん)吉井和哉 斉藤和義 歌うたいのバラッド 2015 03 21

2018-08-03 | 閑話休題
吉井和哉 斉藤和義 歌うたいのバラッド 2015 03 21





この歌、やはり歴史に残る名曲だと思います。
いろんな人がカバーしていますが、この二人のテイクがこころに刺さりました。

先日紹介しました透き通る声のシンガー、uruさんの「大空と大地の中で」のカバーの評価のコメントに、「この歌を聴いて、自殺をやめることにしました。ありがとう」とか書かれてあって、歌の影響力はすごいものがあると改めて思いました。
いい歌は、未来ある子供達に伝えていかなくてはいけないと感じています。






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コミュニケーション能力2

2018-08-02 | 日記
私が、世の中というものを全く知らなかったガラスの十代の時。
お茶くみもコピーも「さっぱりわからない」まま会社に入って、もっとわからなかったのが、上司への接し方だった。
ある日、上司へ電話をつないだらうまくつながらずに、電話が切れてしまった。
上司が私を怒鳴った時、先輩の女性がクスクス笑いながら私を見た。
後で理由を尋ねたら
「だってあなた、露骨にふくれ面してたから」
「私ちゃんとつなぎました」
「そうであっても、すみませんと言っておくのよ」

そのくらい上下関係も知らず、コミュニケーション能力もなく、怒られ笑われ、一から常識を覚えていった次第である。

あれからウン十年…
お茶くみもコピーも電話もパソコンもできるようになっても、コミュニケーションはやはりむずかしい。
だけどこれが一番大切と思う。

「それは自分は違うと思う」となった時、世の中には様々なタブーが立ちはだかる。

目上である、お世話になった、思いを寄せている、無勢に多勢である、利害がある、言いにくい空気、波風が立つ…

そんな時に、うまく言える人で、言ってもらえる人(できれば優し~~く♡)でありたいと思う。
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違和感

2018-08-02 | 日記
「子どもがこうなったのは私の育て方かしら…」
親なら一回や二回は、言ってみる言葉かもしれない。
ちゃんと自己反省のできる母親を意識して。

最近も、ママ友がつぶやいているのを聞いた。
子どもなんて、思った通りに育つわけでもないのにね。

私はその時なんとなく感じた違和感を、ずっと考えていた。

似たような感じで、私が母親に
「私がもっとこうしてあげればよかったのに、ごめんね」
などと言われるのが好きじゃなくて、どうも落ち着かなかったことを思い出した。

反抗期にそんなこと言われようもんなら
「うっとうしいわ!!私は私。好きでこうなってん!!誰が親の影響なんか受けるかー!!」
くらい言い返していたかもしれない。

何だろうこの感情……そう。
「こうなったのはアンタが悪い」と言われると、腹は立つけど一人前に扱われてる気がするのに対して、
「あなたがこうなったのは私が悪かったせい」みたいに言われると、自分が無力で支配されている感じがするのである。

以前、友人を変な会に入会さてしまったことを悔いて、メールで
「私のせいでとんでもないことをさせて、本当に本当に申し訳ないと思っている」
みたいなことを書いて送ったことがあった。
それは正直な気持ちに違いないんだけど、打ちながら何かこう、やはり違和感があった。
友人は憤慨して
「そんなの私の自由。海ちゃんに言われる筋合いではない!!」
と返してきた。
その時は、ああまだ伝わらないんだ…とだけ思ったけど、今はうっとうしいこと書いたな、と思う。

「私のせい」って一見しおらしいけど、全部が全部自分の責任なんて実際そんなことあるのだろうか。
自分をやたら責めすぎるのも、なんだかそれもどこか思い上がった話というか、自己防衛?自己満足?のような気がして…

ただの自分の違和感である。
これが正しいなんて思わない。

私は娘に「ママの育て方がわるくてごめんね」とは一度も言ったことがない。
実際、立派な育児なんかしてないけど、日々「アンタが悪い!!」と怒鳴りまくっている。
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ネットにまつわるあれこれ12

2018-08-01 | ネットにまつわるあれこれ
私はネットに来るまで、ストーカーというのは好きな人にするものと思っていたけど、意外に多いのが嫌いな奴を追っかける方と知った。

人は「好き」より、「憎しみ」の感情の方が何倍も強いからだそうである。
リアルでストーカーをするというのは、労力も手間も経費もかかるけど、椅子に座ってキーボードやスマホをいじるのは簡単。
だからネットではふつうの人が、リアルだったら異常者くらいのストーカーをふつうにやる。

野次馬や冷やかし程度で、好きでもないサイトを覗くことはあるにしても、そんな程度ではなく、わざわざ
罵る言葉を書き込みせずにいられないほど、嫌いなのに見る。

少なからず興味があって、でもここは賛成できないなというレベルではなく、勘に触り、精神を消耗し、罵倒することが目的である。
 最初はこれにびっくりして、「そんなに嫌いなのになんで見るの?」と素朴な疑問を尋ねたら
「嫌なら書くな」という理屈がまかり通っていることを知った。

へえええええ、ネットってこんな理屈なんだ?!

以来
文句をいうために見る人への「嫌なら読むな」
文句を言いたいがために見る人の「嫌なら書くな」
のモヤモヤがずっとスッキリせずにいた。

まあ人によるんだろうけど、ブロガーからしてみたら
「そんなに嫌なら読まなきゃいいじゃない」が常識である。

発信したら、それは自分の手元を離れて、どうなろうと責任は負えない。
でもアンチである執着は、シンパのそれを凌駕することだけはわかった。

私が愛読してるあるブログは、ブロガーさんの半端ない記事の書き方が大好きである。
足腰の強さというか、誰にも媚びることのない、一貫した姿勢に惚れ惚れする。
そんな引きこまれる説得力のある文章を、あえて私はさらりと読む。
そうすると面白さが倍増するからである。

なぜなのか?
これがわかったら、ネットがもっともっと楽しめると思う。
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