珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

好きなもの2

2019-04-18 | 趣味の話
私がパソコン台にしている机の引き出しには、実は大量のゲームソフトとDVDがギッシリと入っている。
全て夫のコレクションで、彼はその他に大量のCDとLDとレコードを所有していて、いつだったかその他にあったビデオとカセットテープを処分したらダンボール十数個になった。
できればこのゲームソフトも平成の産物として葬りたいが、だと
絶対にダメ言われた。

男のコレクション魂って何なん…( ̄▽ ̄;)

いや、私もコレクション魂はある。
洋服でも宝石でもなく、ご存じ食器やグラスは好きである。
でもそれは使える範囲で「たくさん」はいらない。
私は消してそんな「欲ばり婆さん」じゃない。(机ドーン!!)

例えば私は、何の場所もとらない、罪のない栓抜きを
三つ持っている。
栓抜きとは文字通り栓を抜くものだから、理屈から言えばCDなどと違って一つあればいいんだけど、私には三つとも大事なのものである。
ただ漫然と「あら三つあるわー」じゃない。
大切に存在する理由を
噛みしめている。
 

一つ目は、独身の時勤めていた会社のステキな先輩が、箱根にある「彫刻の森美術館」というところで、一つ千円もするステンドグラスの栓抜きを、デザインをバラバラにして女子社員全員にお土産にくれたものだから。
(その20年後に私が「他のデザインも見たい」と思って行った時には、その栓抜きはもう売ってなかった)
二つ目のドナルドダックは夫と結婚前に「生まれて初めてのディズニーランドに行った記念」だから。
(二度と行っていない)
三つ目の鋳物のものは、もうなくなると聞いたお気に入りのショップのものだったから。

ランチョンマットも私は好きで集めている。
宝石でもブランドのバッグでもない、その何万分の一の出費もかかっていない、ただの布キレで満足する奥ゆかしいコレクションが
引き出しのたった一列分。

好きなものはあれど、モノのない空間も好きなジレンマよo(T^T)o
ゆえに私のコレクションは数ではない。
海のような深く澄んだ愛よ。
(意味不明)




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ネットにまつわるあれこれ31

2019-04-18 | ネットにまつわるあれこれ
どこにも出かけなくても、椅子に座ったままでも、ネットで様々な情報が取れるようになった。
一方で、会ったこともない人を見て人脈が増えて、知識も経験も積んだように
錯覚する怖さも感じる。

ネット情報をあまり誇大に思うことなかれ。
膨大に読んでいるつもりのそれは
決して情報の全てではなくて、
価値観を覆すような世紀の発見でもなくて、
自分が都合よく共感できる、ほんの一部を選んでいるだけ。

人は確信をもつと、それをとことん強化したくなって、そればかりをこれでもかと読み漁る。
公平さをもって読んでいるつもりの反論記事でさえ、本心が求めているのは「確信」と思う。
論破して、批判して、自分の確信を強化するために読んでいる。

誰であれ、不安、迷い、疑心暗鬼は心地わるくて、確信に確信を重ねた「絶対的な安心」がうれしいからである。

会ったこともない人の都合のよいごくごく一部にのぼせたら(愛憎ともに)、人は無意識でもその都合のいい確信だけを巨大化させることをお忘れなく。
強化された心地よい確信が、一部を「すべて」とか「真実」とか「絶対」にしたら、また見覚えのある景色に戻っているかもしれない。
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平成の終わりに思う

2019-04-17 | S教団関係
私には、もうSを信じている人の気持ちはわからないけど、Sを信じていた頃の気持ちの一部すら肯定できないという人もわからない。
それから3人組のような人もわからないし、お寺に行った人もわからない。
教義論争する人もわからないし、Sを詐欺だMCだということもよくわからない。
いくら噛み砕いて説明されても、説得されてもわからない。

自分と同じじゃないことは、正直わからない。

でも、そういう人もいるんだなあとはわかる。
自分とは違うけど、皆が自分と同じだったら大変だし、危険だし、気持ち悪いことはわかる。
そしてそれぞれが、自分の信じることは大切にしているということはわかる。
だから、安易に軽んじてはいけないということはわかる。
迷惑行為などされない限り(例えば人の作り話を見たように話すなど)、そんなことは放とけばいいこともわかる。

何故なら自分がこうだと思わない限り、人は思うことは変えないから。
自分や誰しもがそうであるように。

なんで?とも思わなくなった。
なんで?って道に咲いている花が一色ではなくていろんな色があるように、そういうものだから。

 あたりまえのことだけどね。
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何をいれる?2

2019-04-17 | 趣味の話
コーヒーは普段はたっぷり入るマグカップで頂く。
一杯づつ淹れることが多いので、必然的にそうなる。
でも世の中にはデミタスカップという、日本茶でいえば玉露のような濃いものをちょっぴり飲むための、上品なサイズのものがある。

私的には限りなく出番は少ないのに
可愛すぎて素通りできない故に、幾つも集まったそれら。
うっかりすると食器棚のコヤシにならないように、しまいこまないでどんどん使いましょう!!

今日だけで用途は三つ。
おやつのジャムを入れたヨーグルトをこれに。
夕飯のサバの塩焼き用のレモン入れに。
家庭教師に出すお茶菓子に使う。

高級レストランに生まれてきたら糊の効いたテーブルクロスの前にかしこまっていただろうに、人生はそれだけじゃつまらない。

私はどうも「それにしか使えない」が、好きじゃないのかもしれない。
かつて仏壇も、曇りガラスの付いたキャビネットを代用していて、今は娘の本箱として現役活躍中である。



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好きなもの

2019-04-16 | 趣味の話
一人都会に出て、輸入雑貨ショップを夢中で見て歩いていたウン十年前のある時。
私はそれまでの田舎の実家生活では見たことがなかった「ブリロ」という洗剤に出会った。

まあ洗剤入りの研磨タワシですね。
それはタワシと洗剤が一緒になった、使い捨てタイプのものだった。
頑固な汚れを落とす時に「スクラブ洗剤を使ってタワシで落とす」ということは知っていたけれど、このピンクの洗剤入りのタワシに私は魅了された。

なんと合理的な!!
そしてなんてよく落ちるのか!!


今はスーパーやドラックストアで似たようなものが気軽に買えるけど、当時は新鮮で、以来これは私の必需品になった。
鍋も釜もシンクも電子レンジも、これ一つでピカピカになる。
そして先日、ここにも使えると気づいたのが木のデーブルである。

材質にもよるけど、油を吸う木材は毎日拭いても少しづつ油が染み込んで、放っておくとベタベタが取れなくなる。
私もたまに洗剤を使っていたけど、これもこの洗剤入り研磨タワシを使ったら素晴らしい効果が発揮された。
汚れ具合によっては一回や二回では無理だけど、数回試してみるべし。
先日頑張ってみたら、その頬ずりしたいスベスベ感に感動した(゚▽゚*)♪
テーブルを拭くとその軽さにびっくりする。

そのスベスベに置きたくなった灰皿。


私は喫煙者じゃないけど、この灰皿は薄いグリーンのガラス素材に一目惚れして「観賞用」に購入したものである。
10代で初めて横浜に行った時、場所は忘れたけどマリンタワーの近くのショップで見つけた。
当時は本当に何も知らなくて、ファイヤーキングのようなミルクガラスの存在も知らなかった。
ガラスというのは透明なものと思っていたけど、こんな色合いのものがあるんだ?と、洋服や宝石より、こんなものに魅かれたのは昔から変わらないもんだと思う。

そうそう、タバコといえば夫と知り合ったばかりの時、
「元カノにお土産で貰った」というある人形を見せてもらった。
それは手の平に乗る人差し指くらい小さな水兵さん?のような人形で、ミニチュアの小さなタバコに火をつけてくわえさせると煙を吐くしかけだった。
「何これ?可愛い!!ねえこれ欲しい!!ちょうだい!!」
元カノに貰ったとか全く気にならない上に、そのようなものが大好きだった私がねだったら、夫は笑ってダメだと断った。
にもかかわらず後の引っ越しでそれはどこかに消えてしまったことが、未だに残念でたまらない。

私にくれたら今でもずっと大事にしていて、ここにアップできたかもしれないのになあ(笑)
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捨てること

2019-04-15 | 日記
クローゼットの整理をした。
服はあまり買わない方だが、それでも着るものは限られてくる。

聞いた話によると人はモノを捨てると、それにまつわる記憶も一緒に消えるそうである。
私のモノ忘れが激しいのは、しょっちゅうモノを捨てているせいなのか( ;∀;)

二十歳の時アルタで「似合いますね」と煽てられて奮発して買ったスタジャンや、スリッドが入ったノースリーブのワンピを、今どこで同じアホ面して着るというのか。
そんなこんなに感情移入するのも、こんなものが残っているせいや。
チーン!!( ̄人 ̄)
合掌してゴミ袋へ。

そんなわけでもしかしたらなんだけれど、嫌なことをなかなか消化できない人は、不要なものを捨てずにとっておく人というか、そんな傾向があるではないだろうか。
「それは捨てた」と言いつつ、何年も着ていない服や使っていない鞄はそのまま残ってるのかもしれない。

同じくらい熱を入れていたのに、シンパからアンチになる人と、シンパからあっさり無関心になる人がいる。
どちらがいいわるいではなくて「捨てる」という行動、行為は、観念を超えた何か強い力があるのかもしれない。
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何を入れる?

2019-04-14 | 趣味の話
「空き箱や空き缶に何入れよう?」
私はこういうどうでもいいことが、なぜか大好きである。
それ専用のグッズではなくて、日用品の何かを代用する。
そしてそれがぴったりはまった時に、専用の高価なものをプレゼントされるよりうれしい。
それも絆創膏とか爪楊枝とかホントにどうでもいいことに(笑)

ふくろうの楊枝立ては本当はキャンドルスタンドだけど、こうするとお洒落でしょ♡

バターケースは、手持ちのホーローのタッパーが蓋がきっちり閉まってgoodだった。
業務用の大きいサイズのバターも、ナイフもすっぽり入る。

一口サイズの小さなジャムの瓶はピアス入れにピッタリ。
ベッカム選手のチョコレートが入っていた缶は、印鑑と朱肉ケースにピッタリだった。

100円ショップに売っているマグネット式の缶は、マスキングテープで可愛くして薬入れに。
常用している薬がある時、冷蔵庫に貼っておけば便利である。

こんなの誰でもやってることでしょうけど、はい、ただ好きとしか( ̄∇ ̄)
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二極ではない2

2019-04-14 | 思うこと
リアルの席ではタブー視される政治と宗教の見解の相違を、関係がブッ壊れても構わないネットの他人と語る。
そして例外なく壊れていく関係を笑いながら見て(趣味ワルイわ( ̄∇ ̄))数年になる。

これも二極と思う。
リアルでは波風を恐れて押し黙るのに、ネットでは人が変わったように強気で、嫌味や嘲りのようなセコさが起こる。
意見交換と称してセットでついてくる「憂さ晴らしと勝者意識」
これをそのままリアルでやったら、命が幾つあっても足りないわ。

リアルの人を前にするような平和的な物腰で、ネットのようなキレがある意見を言うその中間のいいとこ取りをなぜしない?

意見とモノ言いは一蓮托生。
私は論争の中味ではなくて(正直どうでもいい)、でもその対話の上手さと下手さだけは人生によほど役に立つので、双方ともに感心しながら勉強している。
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二極ではない

2019-04-13 | S教団関係
私は自分の実父の葬儀に出ていない。
2年前の確かお正月だったか、「亡くなったので身内だけの密葬で一切を終えました」という、事後報告の留守番電話のメッセージを聞いただけである。
「あっ、そうなんだ~」で終わり。
「どうぞやすらかに」で終わり。

理解できないかもしれないけど、こんなケースも実在するのである。

アンチや憎悪などのドロドロした執着や粘着や、嘲りや攻撃のようなものはネットによく書かれるが、そんな関心も持てないという時は、どこにも書かれない。
これを冷たいというのか、あっさりしているのかはわからないけど。

そこから離れていくのはアンチだけじゃない。
どうでもよくなったり、その中間だったり、こうとは言えない感情だったり。

好きじゃなかったら憎し。
味方じゃなかったら敵。
正義じゃなかったら悪。
満点じゃなかったら0点。
その二極じゃないのである。
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ニュースを見て2

2019-04-12 | 日記
女子高生のスカートの中を「盗撮」で逮捕。

なんてニュースを今日も見たが、こういうコソコソした犯罪って蓋を開けると
住所不定無職、いかにもワルそーな人じゃなくて、公務員とか教員とか硬くてマジメで意外な人だったりする。
世間的、表面的にはシレッと別人を装っているタイプ。
ギャップ萌えならぬ、ギャップ萎えである。
そして追及すると今までにも何件も余罪があって、部屋には数百枚の写真が隠してあったとか。

「やましいと思っていたけど、上手いことやって見つからなければいい」
毎度、この手のコソコソ偽善タイプは、キラキラと眩しい白日のお日様の下で日干しにしたいわ。

夫が、受ければいいなあと思う仕事を断って、友達との付き合いを優先して遊びに行った。
そのことで今朝からプリプリしていたが、彼はそのようなことをコソコソはしない。
胡麻化そうとすればできるだろうに、この容赦ない私の不機嫌の前にさえ小細工せず、中央突破である。

せめてブログの中で、その点だけは評価したるわ( ̄∇ ̄)
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シビアに見る

2019-04-11 | S教団関係
今日も夫は仕事に行き、娘は学校に行き、私も仕事や家事やあれこれをする。
それは失いたくない日常であり、そんな何気ない日常が送れることに感謝をすべきと思う。

でもだからといって、それぞれが仕事や学校や家庭のすべてに、完全無欠に満足しきっているわけじゃない。
当たり前である。
そんな人いるだろうか?
溜息の出ることも、うんざりすることも、不安なことも、疑いたくなることも、激怒することも呆れることも、投げ出したくなることもあるのが人生。

離婚しない=夫婦生活に何一つ不満も疑問もなく幸せ。
不登校じゃない=100%学校生活に満足している。

なわけあるかーーーい\(^▽^)/

かけがえがなくて、失いたくない家族だからこそ、忍耐をもって、様々な不満や疑問にも時には目をつむり、折り合いをつけて、不都合なことこそいいように取って保っているのである。
違うかな?

アンチブログ(基本は、応援したいけど)のあまりにも都合のいい極論を見ると、正直笑ってしまう時がある。

会員は決して、あれもこれも完全無欠に曇り一点なく、正しいだの最高だの思っている(た)わけじゃない。
そんなの自分だって経験しているんだから、よくよくわかっているのにと思う。
あれだけ会員がいたら、当然変な人もいたし、呆れていたもいっぱいあった。
スルーなんて誰もしてない。
目をしかと開けて呆れたり、時には迷ったり悩んだりしていた。

それでも大切に思うから、まあいいかと許したり、何とか折り合いをつけて手放さないのである。
自分の大切な仕事や家族と同じように。

何の迷いもなくて「自分は正しい」と信じているだけの気持ちわるい人たち。
そんな人なんている(た)かなあ?
知らないうちに、そんな侮辱だけしか書けなくなっているのなら、シビアな目を忘れて「自分だけが正しいと信じている」はどちらになっているだろうか?
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閑話休題 子供達を責めないで

2019-04-10 | 閑話休題
子供達を責めないで(伊武雅刀)



懐かしい動画ですね( ̄∇ ̄)
なんだか正義だとか悪だとか、加害者とか被害者とか、やたら規制と吊し上げが厳しくなった昨今(気のせいかな)、少々のことは笑い飛ばした時代が懐かしい。

セクハラもパワハラもモラハラも何クソと思って、たいていはシャレにして生きてきた世代としては、これが子供の人権云々とか言い出す奴の方がめんどくさいゾ。
いやいや演説は置いといて、ただ懐かしいな。
 (スネークマンショーもねv('▽^*)♪)



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gooブログ

2019-04-10 | 思うこと
ブログによっては、読むだけでIPアドレスがわかってしまうものがあるのですね。
ちなみにgooブログは読もうと投稿しようと、そんなものは出ませんし、わかりません。
そもそも私はアクセス解析の類に、趣味も興味もありません。
人のものをチェックすること自体、するもされるも気持ちいいものじゃないですよね。
(個人的には、あーgooブログでよかったーと思っています)
とここまで書いたら、レモンさんのブログで同じことが書かれていました(笑)

がしかし、どこの誰かわからないネットと言え、何かあったら物理的に追跡、解析ができるもの。
悪いことはできないものです。
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役職を思う

2019-04-09 | S教団関係
私はS時代、たいした役職をやっていなかった。
仕事が忙しかったり家の事情だったりで、まあ縁がなかった。
そんな中でこれは大変だなあと思ったのが、あまり連絡のとれない人と連絡をとらなければいけないという話だった。
出てこない人のところに家庭訪問するとか、ポストに手紙や連絡を入れるなどである。

話を聞くと、訪問者を悶々とさせた出てこない人は「嫌だから出てこない」「察しろ」と思っていたそうである。
居留守を使いながら、あいつらゾンビ、しつこい、頭おかしいという声がネットに溢れていた。

一方で連絡をとりたい人は、ただ単純に、与えられた役割、責任感でそうしていた。
嫌なら行かない。
誰が好き好んでこんな面倒くさいことをしたいだろうか。
誰だってそんなストーカーのようなことは、するのもされるのも大嫌いと思う。
会えなくて、その真意がわからないから、忙しい中を貴重な時間と労力を割いて、わざわざ訪問しているのである。

そういうお互いの感情を、肝心の当人同士のコミュニケーションをすっとばして、どちらもがネットにぶちまけていた。

これは役職者がきついなあと思った。
私ならキレたと思う。
「嫌ならちゃんと
と言えーーー!!二度と来るか」
(だから役職がまわってこなかった(笑))

自分からコミュニケーションを放り投げておきながら、陰口だけ言う。
「言っても無駄だから」

私はこれは違うと思う。
陰口でそんなに上手く言えるんだから、全然無駄じゃないよ。
無駄なのは、伝わらない故に費やさなければならない、お互いの心労や軋轢の方である。

役職者はそんな人にも心を砕いてきた。
私はそれをとても尊敬する。
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ネットにまつわるあれこれ30

2019-04-08 | ネットにまつわるあれこれ
政治と宗教の話は、ビジネスの場や酒の席ではタブーとされる。
人間関係も信頼関係もブッ壊れる場合があるからである。

そこでブッ壊れても構わない、ネットの見ず知らずの他人が格好の論争相手になる。

自分が正体不明で、相手もリアルに影響がないとなると、人ってなんとまあノビノビすることよ。
主張の内容のみならず、空気を読むとか、相手の感情に気遣いだとか、それ以前に挨拶すら不要の場合も。
ただただツッコんで自己主張するだけに終始する気楽さってば。

いやそれノビノビしすぎやろーー( ;∀;)

ここからは、私個人の意見である。

自分は人の、礼儀だのモラルだの人間性だのは知ったことでなくて、主張している内容しか興味がないという人がいるけれど。

それホンマでっかーー??
例えば私を「やな奴!!」と思ったら、書いてあることもケッって感じになると思うけどな~( ̄∇ ̄)

私も主張を聞く。
なるほどという意見もある。
でも、なるほどという主張をもったその人が、人間性にもモラルにも問題があるなあと感じたら、途端、言ってることが嘘っぽく聞こえる。
偽善で言ってるんじゃないかとか、本心は違うところにあるんじゃないかとか、目的は別にあるんじゃないかとか、主張そのものの信憑性も信頼性も薄れてしまう。
ペラッペラな軽薄を感じるわ。

主張と人間性はスパンとは切り離せなくて、人に対する配慮や努力や忍耐をもって、フェアに、真摯に伝えようとする人の姿勢というものは入ってくると思う。
少なからず、ただの自己主張より単純に説得力をもって伝わってくる。

ただ数年ネットの書き込みを読んだ経験上の、あくまで個人的な感覚だけれども。
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