平安時代好きブロガー なぎ です。
寛仁2年(1018年)10月16日、藤原道長が
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」
と詠んだのは、道長の娘・威子が後一条天皇の皇后に立った日で、儀式が終わり、二次会のくつろいだ宴席でのことでした。
藤原道長の日記『御堂関白記』では、道長が和歌を詠み、人々がその和歌を詠唱したことしか記されていませんが、藤原実資の日記『小右記』において和歌の全容を知ることができます。
またこの時、『小右記』によると「夜深月明(夜深く、月明し)」と記されています。
和歌が詠まれた頃は夜も更けて望月(満月)が土御門第[土御門殿]を明るく照らしていたと思われます
2024年の場合、「望月の歌」が詠まれた旧暦10月16日にあたるのは、11月16日(土)でした。
・・・というわけで、私は「望月の歌」が詠まれた土御門第[土御門殿]を偲ぶべく2024年11月16日(土)当日に京都を訪ねたのでありました。
【土御門第(つちみかどてい)跡の駒札】
京都御苑(京都市上京区)内にある京都迎賓館の南、京都仙洞御所の北、清和院御門の西に駒札があります
↓ 土御門第跡 駒札より
土御門第跡
平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第などとも呼ばれました。道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。
平安京オーバーレイマップや『新版 平安京図会』史跡散策の巻を見ますと、京都仙洞御所の北池あたりは、かつての土御門第跡の一部と重なります。
現在の京都仙洞御所・大宮御所に平安時代の面影はありませんが、事前に申し込みの上、約17年ぶりに参観しました。
江戸時代の後水尾上皇と東福門院(徳川和子)以来、上皇の住まいとして御所が営まれてきたところです。
庭園は当初は、小堀遠州による作庭でしたが度々の改修により、現在の姿となったそうです。
【京都仙洞御所 北池】
広々とした心地よいお庭です。木々の紅葉が始まっていました。
新たに池を掘るのは大変な作業でしょうから、ひょっとしたら土御門第があった頃の池が部分的にでも活かされていたりして…?
【京都仙洞御所 北池】
鴨をはじめ多くの鳥がゆったり過ごしています。
【2024年11月16日 午後6時頃、土御門第跡あたりから空を眺めました】
京都仙洞御所を参観後、一旦京都御苑を離れてから日没を待ち、再び京都御苑の土御門第跡あたりを再訪。
写真に見える塀は、京都仙洞御所の北側のものです。
空は厚い雲で覆われていました。
雲が途切れて望月(満月)が姿を現さないか、しばらく待ってみたものの月を見ることは叶いませんでした。
せめてベンチが雨で濡れていなかったら座って待てたのですが、立ちっぱなしでヘロヘロに。
雲のいづこに月やどるらむ…。
【写真中央寄り、ほんのり明るいところに満月はあったのかも…?】
【清浄華院 特別御朱印】
京都御苑の近くにある清浄華院では、藤原道長が晩年を過ごした法成寺の礎石を設置・保管されていることから道長に関する特別御朱印を授与されています。(2024年12月まで)
「望月の歌」が詠まれたのと同じ日にこの御朱印をいただけてよかったです。
※京都仙洞御所や清浄華院が設置・保管されている礎石については別記事で書きたいと思います。