晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※写真の無断転載禁止!!

【京都】「女子宮廷装束の華」展③ 平安十二単

2022年06月24日 | 京都・風俗博物館

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単  今ココ

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

十二単[唐衣裳]

レジュメでは「平安十二単」として展示されていましたが、「平安時代に作られた十二単を再現」されているのであって、言わずもがな平安時代の遺品ではありません。

現代になって作られた十二単です。

 

こちらの十二単では、小袖と長袴が濃色(こきいろ)なので若年で未婚の女性であることを示されていますね!

※濃色=濃い紅(くれない)の色の意味。紫に近くなります。

 

胸もとに注目!

濃小袖、単(ひとえ)、袿(うちき)[衣(きぬ)]、打衣(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、裳(も)、唐衣(からぎぬ)、といった構成です。

 

十二単の成立は平安時代中期…10世紀後半頃?

重ね袿は華美となり20枚以上着用することもありました。

平安末期から鎌倉時代にかけて重ね袿を五領まで(=袿を重ねるのは5枚まで)とする「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められたのだとか。

現在は「五衣(いつつぎぬ)」と呼ばれています。

 

 

以下の写真は、「女子宮廷装束の華」展で撮影した十二単にそれぞれの名称を私が文字入れしたものです。

つ、伝わるでしょうか…

 

 

「唐衣裳」「女房装束」…俗に「十二単」と呼ばれるこの姿。

「十二単」の「十二」は「たくさん」や「多い」といった意味だそう。

 

 

展示の個人的覚え書き

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単  今ココ

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 


京都産業大学むすびわざ館2階 ギャラリー

 第25回企画展「女子宮廷装束の華」

 2022年 5月18日(月)~ 7月 9日(土)


 

 

 

 

 


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【京都】「女子宮廷装束の華」展 ② 十二単[唐衣裳(からぎぬも)]

2022年06月22日 | 京都・風俗博物館

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成  今ココ

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

ギャラリーのウインドウでは、十二単(じゅうにひとえ)[唐衣裳(からぎぬも)]の構成がわかる展示となっていました。

女性の宮中での正装はいわゆる「十二単」の名で親しまれていますが、正式な名称や誕生の経緯について不明とのこと。

平安時代には「女房装束」や「唐衣裳」などと記されていたものの正式名称ではないそうです

 

このブログ記事では「十二単」の名称で統一して書きたいと思います。

 

以下、十二単[唐衣裳」として展示されていた 長袴(ながばかま)、単(ひとえ)、五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、裳(も)を簡単にご紹介。

 

長袴(ながばかま)

この袴の色は「濃色(こきいろ)」と呼ばれ、若年で未婚の女性が身に着けたとされています。

「濃色」とは濃い紅(くれない)の意味。紫色に近いです。

※既婚の場合は、紅の袴(くれないのはかま)。

 

単(ひとえ)

裏地のない衣類。寸法は袿(うちき)よりも大きくできています。

 

五衣(いつつぎぬ)

袿(うちき)を五領重ねた呼び方。

四季折々、季節に応じた五衣で表現される「かさねの色目」が楽しまれました。

 

五衣の裾あたりを撮ってみました。

このかさねの色目は「花橘(はなたちばな)かさね」で旧暦4月頃に着用するとされます。

緑の葉をつけ、白い花が咲き、橙色の実ができるという、1年を通じて橘を表現した色目。

 

打衣(うちぎぬ)・表着(うわぎ)

 

 打衣:砧で生地を打って光沢を出した袿のこと。儀式の際には必ず着用。

    展示されているこの打衣は濃色。

 表着:一番表側に着る衣(きぬ)のこと。

    展示されている表着は、鶴岡八幡宮の御神宝を参考に製作されたのだそうです。

 

唐衣(からぎぬ)

奈良時代の「背子(からぎぬ)」が変化したものといわれ十二単の一番上に着ます。

(余談ですが、むかしむかし私は唐衣の襟がどうなっているのか不思議でなりませんでした。襟を折って裏地を見せていると知って驚いたのでした。)

 

裳(も)

奈良時代の女官が着用した巻きスカートのような形の裙(も・うわも)が変化したもの。

裳は成人女性の象徴であり、女性の成人式にあたる儀式は「着裳(ちゃくも)」あるいは「裳着(もぎ)」と呼ばれました。

(巻きスカートのような形状だったのが、この形の裳になるのは本当に不思議です。)

 

 

裳と唐衣は目上の人に仕える際に身に着けるものです。

(『源氏物語絵巻』を見ますと、貴族の私邸での女房たちは唐衣を着用しないことはあっても裳はつけていたようです。)

 

 

展示の個人的覚え書き

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成  今ココ

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 


京都産業大学むすびわざ館2階 ギャラリー

 第25回企画展「女子宮廷装束の華」

 2022年 5月18日(月)~ 7月 9日(土)


 

 

 

 

 


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【京都】「女子宮廷装束の華」展 ① 十二単の変遷

2022年06月21日 | 京都・風俗博物館

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ①十二単の変遷  今ココ

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

十二単の変遷

 

奈良時代

 ー大宝律令の完成、唐の文化を取り入れ日本の服制の大綱(たいこう)が確立ー

  養老の衣服令(いふくりょう)による女官礼服(らいふく)

大宝元年(701)成立の大宝律令を継承した養老2年(718)の衣服令によって定められて女官の礼服(らいふく)です。

男性の文官礼服と同様、毎年正月元日に行われた朝賀や即位式など限られて儀式でのみ着用。

礼服に対して、ふだん朝廷に出仕する際に着用する装束は朝服(ちょうふく)と呼ばれたそうです。

奈良時代から平安時代初期にかけては、最も中国風であった時代でした。

裙(も)は巻きスカートのようになっており、裙の下には褶(ひらみ・したも)をつけ、紕帯(そえおび)を締めています。

さらに肩には領巾[比礼](ひれ)をかけています。

 

 

平安時代

 ー遣唐使停止(894年)を機とした日本文化のめばえ 国風装束への変化ー

  公家女房、裙帯比礼(くんたい ひれ)の物具装束(もののぐ しょうぞく)

女房装束の晴れの姿はいわゆる十二単と呼ばれ、これが最高の服装のように思われていますが、さらに厳儀(げんぎ)の時には裙帯(くんたい)、領巾[比礼](ひれ)をつけ、髪を垂らした後、結い上げ、宝冠(ほうかん)をつけていました。

奈良時代の礼服の形を残したもので、これを物具装束(もののぐ しょうぞく)といいます。

 

 襪(しとうず)

 張袴(はりばかま)※多くは紅(くれない)の袴

 単(ひとえ)

 衣(きぬ)[袿(うちき)]

 打衣(うちぎぬ)

 表着(うわぎ)

 裳(も)

 唐衣(からぎぬ)

上記の通常の晴れの装いに、裙帯(くんたい)をつけ、比礼(ひれ)を肩にかけています。

※裙帯は奈良時代の紕帯(そえおび)の変化?

 

 

平安時代中期

 ー唐様(からよう)を変化させ日本独自の十二単の完成ー 

  公家女房 晴れの装い

平安時代に入り、服制も国風化が進むと、男性の装束と同様に女性の装束も奈良時代の朝服(ちょうふく)から和風に変化。

宮中における成人女性の正装であるこの姿は「女房装束」「唐衣裳」姿と記されていましたが、現在ではいわゆる「十二単」と呼ばれています。

 

 張袴(はりばかま)

  ※多くは紅(くれない)の袴。

  ※若年で未婚の場合は濃色(こきいろ=濃き紅)の袴を着用

 単(ひとえ)

 衣(きぬ)[袿(うちき)]

  ※後に「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められ、重ね袿は五領までに。

 打衣(うちぎぬ)

 表着(うわぎ)

 裳(も)

 唐衣(からぎぬ)

 

 

江戸時代前期

 ー応仁の大乱以来の有職(ゆうそく)の乱れー

 儀式服と化した十二単、伝承の混乱

  江戸時代前期の正装の公家女房

室町時代の応仁の乱(1467~1478)の後、しきたりが不明に…。

この姿は桃山時代前後から天保14年(1843)、平安朝の裳再興までの姿。

裳には唐衣と共裂(ともぎれ)の刺繡入りの掛帯(かけおび)が用いられ、小腰(こごし)はありません。

この裳の下には纐纈(こうけち)の裳と呼ばれる裳がつけられていたもよう。

※纐纈(こうけち)の裳は享保7年(1722)の「御再興女房装束」の際に廃止。

 

 

(勉強不足過ぎて、よく理解できていません 視覚的に十二単の変遷がわかる展示でとても感動しました。)

 

 

 ①十二単の変遷  今ココ

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 


京都産業大学むすびわざ館2階 ギャラリー

 第25回企画展「女子宮廷装束の華」

 2022年 5月18日(月)~ 7月 9日(土)


 

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】紫式部の墓

2022年06月16日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

京都市北区、北大路堀川の南にある紫式部と小野篁のお墓参りへ行きました。

 

堀川通に面して墓所の入り口があります。

整備され以前より雰囲気が明るくなりましたね✨

 

墓所 入り口

 

参道を進むと

高さ1メートルほどの土盛りがふたつ並び、それぞれ五輪塔があります。

西側が紫式部のお墓、東側が小野篁のお墓です。

 

紫式部墓

 

室町時代に四辻善成(よつつじのよしなり)によって著された『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしょう)』

式部墓所在 雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり

という記述があるのだそうです。

 

室町時代には、紫式部と小野篁のお墓の場所について雲林院の塔頭 白毫院の南にあると伝わっていたのですね!

 

ちなみに

雲林院(うんりんいん・うりんいん)は、元は平安時代の淳和天皇の離宮「紫野院」と称し、のちに「雲林院」に改められ、かつては広大な境内を誇る天台宗の寺院でした。

「雲林院」は『源氏物語』にも登場しますがそれはまた別の機会に…。

今は廃寺となり往時のおもかげはありません。

(現在ある雲林院は、臨済宗の大徳寺の塔頭で名を継承再興したもの。)

 

小野相公墓(小野篁の墓)

小野篁は、野相公(やしょうこう) とも呼ばれた人物で平安時代前期の公卿。漢詩人。歌人。

 

紫式部が亡くなってから後に

『源氏物語』という壮大なフィクション(嘘・作り話)を書いた咎により紫式部は地獄に堕ちて苦しんだだろう、と考える人々が出てきました。

 

そこで、この世と冥界を行き来した小野篁が閻魔大王にとりなして、紫式部が救われたという伝説が生まれたようです。

そのため、紫式部と小野篁のお墓は並んでいるのだとか。

 

『人物叢書 紫式部』によると

 ”この塚について、民俗学者は院政期ごろから紫野には小野篁を祖先とする語部(かたりべ)の集団が住み、「紫式部」の名の関連から、式部と篁との塚を並べたものだろうといっている。おそらく真相はそれに近いだろう。

とあります。

 

実際に紫式部と小野篁が眠っているのか真偽はともあれ、現在までたくさんの方々がお参りして親しまれた様子がうかがえますね。合掌。

 

 

 

【参考】

一般社団法人 紫式部顕彰会 ホームページ

倉本一宏 著『紫式部と京都』 吉川弘文館 2014年

桜風舎 /らくたび 編・制作『源氏物語散策帖~ゆかりの地をめぐる~』 コトコト 2008年

文:坂井輝久/写真:井上匠『京都 紫式部のまち その生涯と『源氏物語』』 淡交社  2008年

今井源衛 著『人物叢書 紫式部』  吉川弘文館 1985年(新装版)

 

 

 

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】この世をば…藤原道長の邸宅「土御門第」跡

2022年06月12日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

京都市上京区、廬山寺の南西にある清和院御門から京都御苑に入りました。

 

清和院御門を入ったあたり(京都迎賓館の南)から仙洞御所の北池を含む北半分あたりまでが藤原道長が所有した邸宅のひとつである「土御門第(つちみかどてい)」跡に相応するのだとか。

 

 

土御門第

土御門大路(上東門大路)の南、

近衛大路の北、

東京極大路の西

に位置していました。

 

道長の三女・威子が後一条天皇の中宮となった時にこの邸宅で行われた祝宴において道長は

「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」

という和歌を詠んでいます。

 

少し場所がわかりにくいですが、現在、京都迎賓館南側の道沿いに「土御門第跡」を示す駒札が設置されています。

 

駒札は設置後、過去に1~2度(?)新しくなったと思うのですが風雨に晒されてまた文字が見えづらくなりました💦

↓ 駒札より

 


  土御門第跡

平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、

拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第などとも

呼ばれました。道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、

里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる

皇子達も、誕生しました。「この世をば わが世とぞ思ふ

望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で

催された宴席で詠まれたといいます。


 

 

土御門第は

元々は、右大臣源重信の邸宅であったのを重信の姪である源倫子が伝領し、倫子の夫である道長の所有となったのだそうです。

※源重信ではなく、重信の兄で倫子の父である雅信の邸宅だったという説も。

 

 

道長と倫子の長女・彰子が土御門第で敦成親王(のちの後一条天皇)や敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産した時のことは『紫式部日記』に記されています。

 

 

ちなみに

藤原道長が晩年に東京極大路の東に建立した「法成寺(ほうじょうじ)」は「土御門第」の隣りでした。

 

 

 

【参考】

紫式部顕彰会 編纂『京都源氏物語地図』思文閣出版 2007年

大津通・池田尚隆 編『藤原道長事典』思文閣出版 2017年

倉本一宏 著『紫式部と京都』 吉川弘文館 2014年

 

 

 

 

 

  


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【平安あれこれ】廬山寺(紫式部邸宅址)

2022年06月10日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

紫式部の邸宅址に建っている という説がある廬山寺をお参りしました。

 

玄関では金色に輝く紫式部像がおわします。

 

↓紫式部像について解説。クリックで拡大します。

 

玄関前には、

源氏物語ゆかりの地 説明板 廬山寺 がありますのでご一読を。

↓クリックで拡大

 

説明板に記されているように、現在、廬山寺が建つ地は

紫式部の  ”曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時に譲ったことから、ここで『源氏物語』や『紫式部日記』が執筆されたという説があり ”  ます。

 

  ☆藤原兼輔については当ブログ内のこちらの記事もどうぞ。

   【平安あれこれ】紫式部の曽祖父・藤原兼輔のこと

 

廬山寺の源氏庭には「紫式部邸宅址」の顕彰碑があり、白砂と苔が美しい庭です。

いつまでも眺めていたくなるような落ち着く気持ちに…。

紫式部の紫にちなみ、紫色の花を咲かせる桔梗が6月から9月あたりまで咲くのも素敵ですよ!

(私が訪ねた5月下旬は、桔梗の開花はまだ先の状態でした。)

 

源氏庭にある「紫式部邸宅址」碑。

何度も何度も訪ねているお寺ですが四季折々、お庭を楽しみたいです。

 

 

玄関前には大弐三位と紫式部の歌碑があります。

 


 大貮三位

  有馬山ゐなのささはら風ふけば

  いでそよ人を忘れやはする

 

 紫式部

  めぐりあひて見しやそれともわかぬまに

  雲かくれにし夜半の月影


 

↓ 紫式部 大貮三位 歌碑 クリックで拡大します

 

大弐三位(藤原賢子)は紫式部と夫・藤原宣孝との娘。

親仁親王[のちの後冷泉天皇]の乳母となり従三位 典侍に。夫は大宰大弐 高階成章。

そのため大弐三位と呼ばれました。

 

 


 廬山寺

  http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/

  京都市上京区寺町通り広小路上る北之辺町397


 

余談ですが

廬山寺 の「廬」という漢字は一発変換できないので単語登録しています。

(盧山寺・蘆山寺 という表記では誤りになるのかも…)

 

 

 

 


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【京都】鶴屋吉信 IRODORI にてほっこり

2022年06月08日 | 日記

平安時代好きブロガー なぎ です。

今日は平安時代の話題をひとやすみ。

 

2022年 5月下旬のこと。

京都へ行ったら上生菓子を食べたい…!と思っていたわたくし。

 

京都駅八条口にある 鶴屋吉信 IRODORI にて「あじさいきんとん」とグリーンティーをいただきました。

暑い日でたくさん歩いた後だったので、グリーンティーの冷たさときんとんのほどよい甘さに体と心がほっこり。

 

「あじさいきんとん」

 ”朝露がきらめく紫陽花の風情

 

綺麗でうっとり。

おいしゅうございました!

 


IRODORI

 https://www.tsuruyayoshinobu.jp/shop/irodori

 京都市下京区東塩小路町8-3(京都駅八条口)


 

 


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【平安あれこれ】20枚の重袿(風俗博物館で展示・2022年)

2022年06月07日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

『栄花物語』巻二十四「わかばえ」に

藤原道長の娘、姸子が開いた正月大饗の場面において、袿を15~20枚重ねた女房について書かれているそうです。

袿が重なった様子は、まるで冊子のようであったのだとか。

 

さて、2022年 5月のこと。

京都市下京区にある風俗博物館を訪ねました。

今回、風俗博物館の実物大展示では 20枚の重袿(かさねうちき)を再現されたものが

展示されていました。Σ(゚Д゚)

 

袿を6枚以上…たくさん重ねるなんてどんなだろう?と長らく思っていたので展示を見ることができて嬉しかったです

(後世、袿は5枚着るものだと定まるため今回実物を見るまで、6枚以上たくさん重ねた状態が想像できませんでした)

 

重袿(かさねうちき)

  柳の重色目 [表:白 /裏:青]

 山吹の重色目 [表:山吹/裏:黄]

 紅梅の重色目 [表:紅梅/裏:蘇芳]

 

美しく重なる様子はなるほど冊子のようです!!

※袿は袷仕立てです

 

スタッフの方にお尋ねしたところ重くてふたりがかりで着せたのだそうですよ。

 

後ろから見た姿

実際に着たら身動きするのが大変そうです。

でも、ほんっと綺麗ですよね✨

 

20枚の重袿について博物館での解説

↓クリックすると拡大します

 

【参考】

 日本服飾史衣裳の知識(コラム)五衣と単

 


 風俗博物館

  京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)

  https://www.iz2.or.jp/


 

 

 

 


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【平安あれこれ】平安宮内裏跡に建つ「綾綺殿」にてランチ

2022年06月04日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

平安宮内裏綾綺殿(りょうきでん)跡に建つ「ショップ&カフェ 綾綺殿」にてランチしました。

 

ショップ&カフェ 綾綺殿 外観

 

「平安宮内裏綾綺殿跡」碑と解説

 

↓解説より


平安宮内裏綾綺殿跡

 綾綺殿は、天皇の住まいである内裏の中心建物である仁壽殿の東にあった南北に長い建物で、東側は壺庭を挟んで温明殿、南には宜陽殿があった。

 いわゆる内裏十七殿の一つで、宮中の舞などが行われ、「年中行事絵巻」にも女楽人や六名の妓女が艶やかに舞う姿が活写されている。

 身舎は東西二面で、南北九間のうち南五間を納殿として使用し、宮中恒例の行事に使用する御物などが

納められていた。


 

 

今回、ショップ&カフェ 綾綺殿のランチでいただいたのは

「丹波あじわい鶏モモ肉のから揚げ定食」

ボリューミー…に見えますでしょ?

カリっとした衣の中からあふれ出る肉汁がたまりません。

鶏もも肉のおいしさはもちろんのこと、油の専門店 山中油店さんの良い油を使っていらっしゃるので

ペロッと食べられるのです。

から揚げはタルタルソースをつけていただきました。

お味噌汁やおかずも美味。

とっても幸せなランチタイムでした。

 

 

内裏跡に建つカフェでランチやお茶が楽しめる、ということで京都へ行くと度々利用している大好きなお店です。

 

 


ショップ&カフェ 綾綺殿

 京都市上京区浄福寺通下立売上ル520-5

 https://www.yoil.co.jp/ryokiden/#item1

 


株式会社 山中油店

 京都市上京区下立売通智恵光院西入508

 https://www.yoil.co.jp/

 


 

 

 

 


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【平安あれこれ】藤原道長が建立した「法成寺」の礎石!?

2022年06月03日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2022年 5月のこと。

京都市上京区にある清浄華院 様をお訪ねして、「法成寺」推定地(京都市上京区東桜町25-3)から出土した礎石や石造物、金剛界大日如来の石仏を拝見しました。

 

※法成寺=藤原道長が自邸の土御門第に隣接して建てた寺。

     道長は法成寺の阿弥陀堂内で亡くなりました。

 

大本山 清浄華院 (天台圓淨宗 盧山寺の北側にあります)

 公式ホームページ https://www.jozan.jp/

 

左側:礎石

中央:石造物

右側:金剛界大日如来坐像(石仏)

 

 

まず、礎石の大きさに驚きました!Σ(゚Д゚)

これほど大きいとは想像だにしていませんでした。

巨大建築物の礎石だと思われます。いろいろな角度から撮影。

[長部:約120センチ、柱座径:約90センチ]

 

 

金剛界大日如来坐像(石仏)

[全長:120センチほど]

 

有孔石造物(表面に凹状の加工痕あり。火焔に焼かれ剥落が多い。)

 

↓それぞれクリックで拡大します↓

 

 

清浄華院 様を訪ねた後、京都府立鴨沂高等学校のグラウンド(コート?)へ。

こちらには平成20年に設置された「源氏物語ゆかりの地説明板 法成寺跡」があります。

 

↓クリックで拡大↓

 

 

法成寺は、最初は無量寿院(むりょうじゅいん)と呼ばれていましたが、治安二年(1022年)に金堂と五大堂が完成し、法成寺と改名されたのだとか。

今年2022年は法成寺改名からちょうど千年になります

 

 

 

 

 


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