晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※文章や写真の無断転載は禁止!

【風俗博物館】2024年5月撮影 ①法華経千部供養(『源氏物語』「御法」より)その1

2024年06月30日 | 京都・風俗博物館

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

京都市下京区にある風俗博物館のこと。

 

2024年5月に
風俗博物館を訪ねて撮影した展示の様子です。(❝ ❞はレジュメより引用)

 

源氏物語から見る平安貴族の現世と来世への祈り

 

①法華経千部供養 ~仏の御教えの結縁・准太政天皇の正妻格として後援された紫の上の法要と惜別~(『源氏物語』「御法」より)

❝源氏51歳の3月10日(旧暦)、満開の桜が咲き誇る中、二條院において紫の上(43歳)主催の法華経千部供養が執り行われた。❞

 

【4分の1サイズ寝殿造模型 寝殿南側の様子】

 

【写真中央に源氏/冠直衣姿:直衣・衵・指貫・単】

 

 

 

【本尊:普賢菩薩像】

 

【薪の行道(たきぎのぎょうどう)】

 

 

【舞楽「陵王」の舞】

❝明け行く春の曙の霞の間より舞い出る陵王の様子は、さながら極楽浄土を思わす法会であった❞

 

【舞楽「落蹲(らくそん)」[納蘇利 (なそり)]・・・「陵王」の番舞(つがいまい)】

 

【主催者である紫の上/唐衣裳姿】

❝死期を予感した紫の上は、後の世のために、内々の自身の発願として書かせていた法華経千部の供養を、六條院ではなく、紫の上の私邸である二條院で行った❞

 

【紫の上の女房たち。画像中央奥にいるのが紫の上。】

 

【御簾の下からこぼれ出る装束・・・打出(うちいで)】

 

【打出(うちいで)・・・一間(いつけん)に一具】

中央に几帳を立てて、女房装束を置くことで邸宅の外側を装飾していました。

 

 

 その2へ続きます。

 

 


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【風俗博物館】女房装束[二十枚の重袿+表着+裳+唐衣]

2024年06月29日 | 京都・風俗博物館

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2024年5月のこと。

風俗博物館実物大の展示において、女房装束[俗称:十二単]が展示されていました。

 

2022年に風俗博物館を訪ねた時は二十枚の重袿のみが展示されていたのですが、2024年二十枚の重袿の上に表着唐衣が加えられての展示となっていました。

※二十枚の重袿:藤原道長の娘で三条天皇の中宮[この時は皇太后]、姸子(けんし・きよこ)が開いた大饗の場面において描かれる重袿(かさねうちき)を再現されたもの。

※藤原姸子の「姸」は環境依存文字のため「妍」と書かれる時もあり。

 

 

まずは2022年の展示の様子をご覧ください。

 

【2022年5月撮影。二十枚の重袿。斜め前から撮った様子。】

単(ひとえ)の上に袿(うちき)を二十枚重ねた姿です。

 

【2022年5月撮影。二十枚の重袿。斜め後ろから撮った様子】

 

 

2022年の展示はブログ「晴れのち平安」過去記事をどうぞ。

(新しいウインドウで表示されます)

 【平安あれこれ】20枚の重袿(風俗博物館で展示・2022年)

 

 

そして、2024年5月に展示されていた女房装束・唐衣裳[俗称:十二単]です。

 

【2024年5月撮影。女房装束・唐衣裳[俗称:十二単] 斜め前から】

 

2022年の展示とは違い、2024年の展示では、

単、二十枚の重袿の上に、表着(うわぎ)裳(も)唐衣(からぎぬ)を着ていました。(打衣は省略されていたのかも?)

 

裳や唐衣を着けることで、重袿姿[袿姿]からいわゆる十二単姿となりました。

十二単姿は正しくは「女房装束」や「唐衣裳」姿と呼ばれます。

 

 

【2024年5月撮影。女房装束・唐衣裳[俗称:十二単] 後ろから見た様子】

裳を後ろに長くひくのが素敵

 

【2024年5月撮影。女房装束・唐衣裳[俗称:十二単]袿の部分をアップで撮影】

それぞれの色や枚数を確認できます。

 

二十枚の重袿(かさねうちき)

  柳の重色目 [表:白 /裏:青] 七枚

 山吹の重色目 [表:山吹/裏:黄] 六枚

 紅梅の重色目 [表:紅梅/裏:蘇芳]七枚

 

【2024年5月撮影。女房装束・唐衣裳[俗称:十二単] 袖もボリュームたっぷり】

 

【2024年5月撮影。女房装束・唐衣裳[俗称:十二単]

たくさん着ていることもあり、裳の引腰(ひきごし)を結ぶのもギリギリの長さに。

 

 

実際に着ると重くて身動きするのが大変だと思いますが、このように袿をたくさん着た女房が居並ぶ姿は壮観だったと思います。

(ただ、倹約令が出ている最中の華美な演出に姸子[妍子]の父・道長が怒るのは無理もないかも…

 

今回、展示を見ることができて眼福でした!!

 

 

 

「源氏物語の時代~かさねの美への競演~ 二十枚の重袿」博物館での解説パネル

 

『栄花物語』巻廿四「わかばえ」にある重袿について。博物館での解説パネル

 

 

 


 風俗博物館

  京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)

  https://www.iz2.or.jp/


 

 

 

 

 

 

 


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京都市考古資料館「紫式部の平安京ー地中からのものがたりー」

2024年06月26日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2024年5月のこと。

平安京一条大路跡説明板一条院跡を訪ねてのち、

京都市考古資料館において2024年 2月17日(土)から 6月23日(日)まで開催されていた特別展示「紫式部の平安京ー地中からのものがたりー」を鑑賞。

 

本や説明板で見たことがある展示品も多く、今回実物を見ることができて感激しました!

写真撮影可能だったので印象的だったものをいくつか掲載いたします。

(この記事に掲載している展示品の写真にはすべて「晴れのち平安」の透かしを入れています。)

 

【平安宮内裏承明門跡から出土した地鎮具 輪宝と撅(けつ)】

 

【平安宮内裏弘徽殿跡から出土した塼(せん)】

 

【小野宮池跡から出土した人面墨書土器】

 

【高陽院跡から出土した緑釉陶器耳皿】

 

【土御門殿池跡から出土した 緑釉陶器、土師器 皿、高坏】

土御門殿は藤原道長の邸宅のひとつ。

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだのもこの土御門殿。

 

【法成寺跡から出土した緑釉軒平瓦】

法成寺は藤原道長が建立。道長は法成寺で亡くなりました。

 

【「斎宮」邸池跡から出土した「齋雑所」墨書土器】

 

【「斎宮」邸跡から出土した人形代】

 

 

【高陽院跡から出土した輸入陶磁器 青磁碗】

平安時代中期、高陽院は藤原頼通の邸宅でした。

中国越州窯系青磁の碗で、深く穏やかなオリーブ色をしている…いわゆる秘色(ひそく)です。

 


河添房江先生の著書『紫式部と王朝の文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語』より引用。

 

 青磁は当時、大宰府を経由して中国の越州窯からの輸入品が多かったのです。その中でも優品とされるのが「秘色」と呼ばれるもので、平安の宮中や貴族の屋敷で珍重された品でした。

 


 

 

『源氏物語』に登場する末摘花は零落して荒れ果てた邸に住んでいましたが、食器は亡くなった父・常陸宮が手に入れていた「秘色やうの唐土のもの秘色青磁らしい中国渡来の食器…越州窯青磁の最高級品を使っていたのでした。

 

【参考】

京都市埋蔵文化財研究所のXポストより https://x.com/maibunken1976/status/1775408595674542109

 

 

どの展示品も興味深く拝見しました!

 

 


京都市考古資料館

 https://www.kyoto-arc.or.jp/museum/

 京都市上京区今出川通大宮東入元伊佐町265-1


 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】一条院跡 ~一条天皇の里内裏~

2024年06月23日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2024年5月のこと。

平安京一条大路跡の説明板を訪ねたあと、一条院跡の説明板がある名和児童公園を訪ねました。

 

【名和児童公園。写真左側に見えるのが「源氏物語ゆかりの地説明板 No,21 一条院跡」】

 

一条院は、平安宮の北東に隣接した邸宅であり、一条大路と平安宮の東側を通る大宮大路に接していました。

この邸宅は一条天皇の里内裏として使用されたことで有名です。

 

【説明板。クリックで拡大します。プラウザの「戻る」でお戻りください。】

 

<一条院[一条第]所有者の流れ>

藤原師輔

  ↓

師輔の子・伊尹へ

  ↓

伊尹の異母弟で婿でもある為光へ

  ↓

為光女へ

  ↓

受領の佐伯公育が買い取る

  ↓

東三条院(円融天皇の女御、藤原詮子)に献上

  ↓

東三条院の子、一条天皇の里内裏に

 

 

一条天皇の中宮であった藤原彰子[道長の長女]や紫式部も一条院で過ごした時期があり、紫式部が『紫式部日記』に書いている内裏[御所]は平安宮内裏ではなくそのほとんどが里内裏としての一条院のこと。

一条天皇時代の文化サロンの舞台となりました。

 

一条院の寝殿の南側には、貴族の邸宅に見られるような池庭はなく、広い庭をもっていたのだそう。

 

【一条院跡。現在の名和児童公園の遊具】

現在はのどかな公園となっているおり、南北朝時代に活躍した名和長利の碑が建っています。

 

 

【参考】

角田文衞 監修/[財]古代学協会・古代学研究所 編『平安時代史事典』本編上巻 角川学芸出版 2012年

(公財)京都市生涯学習振興団 編集・制作/『新版 平安京図会』 山代印刷株式会社 2024年

(公財)京都市生涯学習振興団 『京都市平安京創生館展示図録 平安京百景』 山代印刷株式会社 2021年

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】平安京一条大路跡~かつて賀茂祭の祭列が通った~

2024年06月23日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2024年5月のこと。

京都市上京区にある晴明神社をお参りしたあと、一条通を西へ歩きました。

一条通は車一台が通れるほどの道幅で市街地では一方通行の部分が多いそうです。

 

一条通はかつて、平安京の北限を東西に通る「一条大路」でした。

 

一条大路は幅10丈(約30メートル)もある大路であったのだとか。

現在、京都市上京区一条通大宮東入の民家に「源氏物語ゆかりの地説明板 No,20 平安京一条大路跡」が設置されています。

 

【民家に設置されている「源氏物語ゆかりの地説明板 No,20」】

 


説明板より全文

 

 平安京一条大路跡

 

 平安京北端の一条大路は、北極大路の名もあり、道幅は10丈(約30m、12丈説もある)。賀茂祭の祭列は一条大路を通ったので、両側には皇族・貴族の桟敷が設けられ、物見車が立ち、地べたには民衆が坐りこむなど、その喧騒ぶりは『栄華物語』、『枕草子』や『年中行事絵巻』「賀茂祭」に描写されている。「一条大路これ祭場なり」と言われた(『小右記』)ゆえんである。

 『源氏物語』「葵」では、一条大路を通る斎王御禊列に参加する光源氏を一目見ようと、六条御息所と葵上の一行が見物場所をめぐって車争いをする有名なエピソードがある。

 発掘調査で路面や溝跡が検出されている。

 

    平成20年3月 京都市

 

※漢数字は算用数字に書き換えました。

※賀茂祭は現在でいうところの葵祭。


 

平安京内の大路は8丈(道幅約24メートル)、小路は4丈で碁盤の目で区切られていました。

そうした中、一条大路の道幅は10丈または12丈であったというのですからかなりの広さですよね。

 

 

【参考】

(公財)京都市生涯学習振興団 編集・制作/『新版 平安京図会』 山代印刷株式会社 2024年

(公財)京都市生涯学習振興団 『京都市平安京創生館展示図録 平安京百景』 山代印刷株式会社 2021年

 

 

 「源氏物語ゆかりの地説明板」とは?

『紫式部日記』において『源氏物語』が書かれていたことがわかる記述から千年目を迎えた平成20年(2008年)、京都市内の「源氏物語ゆかりの地」に説明板40基が設置。

令和5年(2023年)はさらに7基が新設されました。

「源氏物語ゆかりの地説明板」をめぐるマップについては、京都市公式ホームページ「京都情報館」内にあるほか、京都アスニーで販売中の『平安京図会』にて見ることができます。

 

私は最初に設置された40基を数年かけてまわりました。

令和5年(2023年)、40基のうち3基は内容の充実を図ったとのこと。

新たな7基も含めて全47基をまたゆっくり訪ねたいものです。

マップを見ながら説明板をそれぞれ訪ねるのは楽しいですよ!!

 

京都市公式ホームページ「京都市情報館」

 >~「源氏物語」ゆかりの地を訪ねる~(2023年12月27日)

 >源氏物語ゆかりの地 スタンプラリーと説明板について~埋蔵文化財の発掘成果から~(2023年12月27日)

 

京都アスニー公式ホームページ

 >新版 平安京図会 クリアケース入り

 

 

 

 

 


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