※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2008年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。
河原左大臣 源融(みなもとのとおる)を祀る
融神社
●所在地:滋賀県大津市伊香立南庄町
●交通 :JR「雄琴温泉」駅下車 徒歩約1時間
平安時代初期、嵯峨天皇の皇子として生まれた源融(みなもとのとおる)とその母・大原全子(おおはらのぜんし・またこ)を祀る神社が、滋賀県大津市にあります。
源融は平安京の河原院という邸宅に住んでいたことから河原左大臣とも呼ばれていました。『百人一首』に撰ばれている以下の源融の歌はよく知られています。
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
乱れそめにし われならなくに
河原左大臣
(陸奥<みちのく>の「しのぶもじずり」の乱れ模様の布のように、あなた以外の誰のために私の心は乱れはじめてしまったというのか、私のせいではなく、あなたのせいなのだ。)
平安時代中期、紫式部が執筆した『源氏物語』の主人公・光源氏。
源融は“光源氏のモデル”の一人といわれています。
2008年秋、「源氏物語千年紀」を記念した京都定期観光バスのコースで融神社を参拝しました。
<由緒書より>
融神社
大津市伊香立南庄町牟禮の岡山一八四六
御祭神 正一位河原の左大臣 源融公
配祀神 大原全子 (融公の母親)
大山咋の神(山の神)
御神紋 十七枚菊
例祭日 四月二十九日 (元五月一日)
境内社 十九社 (内五社は不詳)
特別行事 神誘巡の神事
由緒
抑もそも当神社は、人皇第五十二代嵯峨天皇の第十八皇子源融公をお祀りする全国唯一つの神社であります。
当地は、融公の荘園で現在の社地は公が宇多天皇、寛平年間に南庄村牟禮の岡山に閑居賜ひし旧跡で有り、朱雀天皇天慶八年に旧地に祠を建て鏡一面を御神璽として融公を祀られた事が当社の創始で有る。
寛和二年花山法皇、近江巡幸の時社殿を造営在らせられ
正一位融大明神と崇称せらる。
一條天皇、永延二年南庄の水田百町歩を神領とされ、之を始め御歴代天皇奉幣の例有しが、鎌倉時代以後、次第に衰退し
遂に廃絶せり。
其の後、南庄・谷口・家田・三村の産土の神と成った。
元亀二年、信長の延暦寺焼討ちにあい、社殿其の他焼亡した。
天正七年に至りて社殿を再興し神璽を奉遷された。
後世この神領は武家の所領と成った。
寛政八年、再び社殿火災に罹り、勅書、神宝等消失す。
同九年、社殿及び末社等再造営され現在に至る。
嵯峨の清凉寺、宇治の平等院などは公の別荘でもあった。
又、公は小倉百人一首 陸奥の しのぶもじずり 誰故に 乱れ染めにし 我ならなくに の読人でもある。
後の世に紫式部は、光源氏の名で源融公をモデルとして源氏物語を作ったのである
融神社の鳥居
鳥居の扁額
舞殿
左側:大原全子を祀る社殿
右側:源融を祀る社殿
母と子を祀る社殿が並んでいます。
源融を祀る社殿
御神紋は十七枚菊です。
大原全子(源融の母)を祀る社殿
別の角度から二社を撮影。
融神社で貴重な資料を見せていただきました。
融大明神
源融像
本覚寺(京都市下京区本塩竈町)にある源融像の模写が飾られていました。
本覚寺は、源融の邸宅・河原院跡に建つお寺です。
実在した源融とはどのような人物だったのでしょう。
この度、融神社を参拝できて嬉しかったです。
また機会があればお参りしたいです。
オススメの本。
源氏物語の近江を歩く (近江旅の本)
著者:畑裕子/発行:サンライズ出版/2008年発売
『源氏物語』と近江、紫式部と近江の関係を説いた本。
小説感覚で紫式部の生涯を楽しめます。
近江を巡るためのガイドブックとしてもオススメ♪
地図やアクセス情報も紹介されています。
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河原左大臣 源融(みなもとのとおる)を祀る
融神社
●所在地:滋賀県大津市伊香立南庄町
●交通 :JR「雄琴温泉」駅下車 徒歩約1時間
平安時代初期、嵯峨天皇の皇子として生まれた源融(みなもとのとおる)とその母・大原全子(おおはらのぜんし・またこ)を祀る神社が、滋賀県大津市にあります。
源融は平安京の河原院という邸宅に住んでいたことから河原左大臣とも呼ばれていました。『百人一首』に撰ばれている以下の源融の歌はよく知られています。
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
乱れそめにし われならなくに
河原左大臣
(陸奥<みちのく>の「しのぶもじずり」の乱れ模様の布のように、あなた以外の誰のために私の心は乱れはじめてしまったというのか、私のせいではなく、あなたのせいなのだ。)
平安時代中期、紫式部が執筆した『源氏物語』の主人公・光源氏。
源融は“光源氏のモデル”の一人といわれています。
2008年秋、「源氏物語千年紀」を記念した京都定期観光バスのコースで融神社を参拝しました。
<由緒書より>
融神社
大津市伊香立南庄町牟禮の岡山一八四六
御祭神 正一位河原の左大臣 源融公
配祀神 大原全子 (融公の母親)
大山咋の神(山の神)
御神紋 十七枚菊
例祭日 四月二十九日 (元五月一日)
境内社 十九社 (内五社は不詳)
特別行事 神誘巡の神事
由緒
抑もそも当神社は、人皇第五十二代嵯峨天皇の第十八皇子源融公をお祀りする全国唯一つの神社であります。
当地は、融公の荘園で現在の社地は公が宇多天皇、寛平年間に南庄村牟禮の岡山に閑居賜ひし旧跡で有り、朱雀天皇天慶八年に旧地に祠を建て鏡一面を御神璽として融公を祀られた事が当社の創始で有る。
寛和二年花山法皇、近江巡幸の時社殿を造営在らせられ
正一位融大明神と崇称せらる。
一條天皇、永延二年南庄の水田百町歩を神領とされ、之を始め御歴代天皇奉幣の例有しが、鎌倉時代以後、次第に衰退し
遂に廃絶せり。
其の後、南庄・谷口・家田・三村の産土の神と成った。
元亀二年、信長の延暦寺焼討ちにあい、社殿其の他焼亡した。
天正七年に至りて社殿を再興し神璽を奉遷された。
後世この神領は武家の所領と成った。
寛政八年、再び社殿火災に罹り、勅書、神宝等消失す。
同九年、社殿及び末社等再造営され現在に至る。
嵯峨の清凉寺、宇治の平等院などは公の別荘でもあった。
又、公は小倉百人一首 陸奥の しのぶもじずり 誰故に 乱れ染めにし 我ならなくに の読人でもある。
後の世に紫式部は、光源氏の名で源融公をモデルとして源氏物語を作ったのである
融神社の鳥居
鳥居の扁額
舞殿
左側:大原全子を祀る社殿
右側:源融を祀る社殿
母と子を祀る社殿が並んでいます。
源融を祀る社殿
御神紋は十七枚菊です。
大原全子(源融の母)を祀る社殿
別の角度から二社を撮影。
融神社で貴重な資料を見せていただきました。
融大明神
源融像
本覚寺(京都市下京区本塩竈町)にある源融像の模写が飾られていました。
本覚寺は、源融の邸宅・河原院跡に建つお寺です。
実在した源融とはどのような人物だったのでしょう。
この度、融神社を参拝できて嬉しかったです。
また機会があればお参りしたいです。
オススメの本。
源氏物語の近江を歩く (近江旅の本)
著者:畑裕子/発行:サンライズ出版/2008年発売
『源氏物語』と近江、紫式部と近江の関係を説いた本。
小説感覚で紫式部の生涯を楽しめます。
近江を巡るためのガイドブックとしてもオススメ♪
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