晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※文章や写真の無断転載は禁止!

【PICK UP】 河原左大臣 源融を祀る 融神社 <滋賀県大津市>

2018年10月24日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2008年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。


河原左大臣 源融(みなもとのとおる)を祀る
融神社

●所在地:滋賀県大津市伊香立南庄町
●交通 :JR「雄琴温泉」駅下車 徒歩約1時間





 平安時代初期、嵯峨天皇の皇子として生まれた源融(みなもとのとおる)とその母・大原全子(おおはらのぜんし・またこ)を祀る神社が、滋賀県大津市にあります。

 源融は平安京の河原院という邸宅に住んでいたことから河原左大臣とも呼ばれていました。『百人一首』に撰ばれている以下の源融の歌はよく知られています。

 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
  乱れそめにし われならなくに

   河原左大臣



(陸奥<みちのく>の「しのぶもじずり」の乱れ模様の布のように、あなた以外の誰のために私の心は乱れはじめてしまったというのか、私のせいではなく、あなたのせいなのだ。)


 平安時代中期、紫式部が執筆した『源氏物語』の主人公・光源氏。
 源融は“光源氏のモデル”の一人といわれています。

 2008年秋、「源氏物語千年紀」を記念した京都定期観光バスのコースで融神社を参拝しました。



<由緒書より>

 融神社

大津市伊香立南庄町牟禮の岡山一八四六
 
御祭神 正一位河原の左大臣 源融公
配祀神 大原全子 (融公の母親)
    大山咋の神(山の神)
御神紋 十七枚菊
例祭日 四月二十九日 (元五月一日)
境内社 十九社 (内五社は不詳)
特別行事 神誘巡の神事


 由緒

 抑もそも当神社は、人皇第五十二代嵯峨天皇の第十八皇子源融公をお祀りする全国唯一つの神社であります。
 当地は、融公の荘園で現在の社地は公が宇多天皇、寛平年間に南庄村牟禮の岡山に閑居賜ひし旧跡で有り、朱雀天皇天慶八年に旧地に祠を建て鏡一面を御神璽として融公を祀られた事が当社の創始で有る。
 寛和二年花山法皇、近江巡幸の時社殿を造営在らせられ
正一位融大明神と崇称せらる。
 一條天皇、永延二年南庄の水田百町歩を神領とされ、之を始め御歴代天皇奉幣の例有しが、鎌倉時代以後、次第に衰退し
遂に廃絶せり。

 其の後、南庄・谷口・家田・三村の産土の神と成った。
 元亀二年、信長の延暦寺焼討ちにあい、社殿其の他焼亡した。
 天正七年に至りて社殿を再興し神璽を奉遷された。
 後世この神領は武家の所領と成った。
 寛政八年、再び社殿火災に罹り、勅書、神宝等消失す。
 同九年、社殿及び末社等再造営され現在に至る。
 嵯峨の清凉寺、宇治の平等院などは公の別荘でもあった。
 又、公は小倉百人一首  陸奥の しのぶもじずり 誰故に 乱れ染めにし 我ならなくに の読人でもある。
 後の世に紫式部は、光源氏の名で源融公をモデルとして源氏物語を作ったのである




融神社の鳥居



鳥居の扁額



舞殿



左側:大原全子を祀る社殿
右側:源融を祀る社殿

母と子を祀る社殿が並んでいます。



源融を祀る社殿
御神紋は十七枚菊です。



大原全子(源融の母)を祀る社殿



別の角度から二社を撮影。




 融神社で貴重な資料を見せていただきました。


融大明神


源融像

本覚寺(京都市下京区本塩竈町)にある源融像の模写が飾られていました。
本覚寺は、源融の邸宅・河原院跡に建つお寺です。



実在した源融とはどのような人物だったのでしょう。
この度、融神社を参拝できて嬉しかったです。

また機会があればお参りしたいです。



 オススメの本。

 
 源氏物語の近江を歩く (近江旅の本)

 著者:畑裕子/発行:サンライズ出版/2008年発売

『源氏物語』と近江、紫式部と近江の関係を説いた本。
小説感覚で紫式部の生涯を楽しめます。
近江を巡るためのガイドブックとしてもオススメ♪
地図やアクセス情報も紹介されています。


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【トーク&歓談】「源氏物語ゆかりの地としての大宰府」11月11日(日)開催<参加者募集中>

2018年10月22日 | 情報
 福岡県太宰府市でおこないます!!

(トーク&歓談)「源氏物語ゆかりの地としての大宰府」

 日 時:2018年11月11日(日)午前10時30分~12時
 会 場:福岡県太宰府市内、西鉄「太宰府駅」近く
 対 象:大宰府や『源氏物語』にちょこっとでも関心がある18歳以上の一般の方。
 参加費:500円(資料+お茶+お菓子代)



トーク「源氏物語ゆかりの地としての大宰府」(お話:なぎ)ののち
ご参加の皆さまとおしゃべりする会です。

当日は『源氏物語』にもその名が登場する和菓子「亥の子餅」をご用意しています。
秋の太宰府でゆったり過ごしませんか?

参加希望の方は事前にTwitter(@kakitutei)またはメールフォームからご連絡くださいませ。
ご参加お待ちしております。

どうぞよろしくお願いします。


 なぎ のこと。

『源氏物語』ゆかりの地めぐりが趣味のアラフォー女性。
webサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』運営。
「太宰府検定」初級合格。

テレビ番組「笑ってコラえて!」記念館の旅 宇治市源氏物語ミュージアム(2017年7月放送。同年12月に一部地域を除き再放送)にて源氏物語マニアのひとりとして出演。

*2016年以降におこなったオフ会

「『源氏物語』の六条院を思いながら源融の河原院跡を歩きませんか?~どきっ!「塩竈」だらけの街~」in京都
「創作平安王朝料理をいただく会」in京都
「一条天皇皇后・定子ゆかりの地をめぐるオフ会」in京都
「紫式部と唐津の意外な関係」in佐賀県唐津市

なぎが住む九州でも『源氏物語』や紫式部、平安時代に関する楽しい会を開催したいと画策中です。









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【PICK UP】 源融(みなもとのとおる)と河原院

2018年10月21日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2008年)
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源 融 (みなもとのとおる)
822年(弘仁13年)~895年(寛平7年)8月25日

 平安時代初期の廷臣。通称:河原左大臣。
 父は、嵯峨天皇。母は、大原全子。仁明天皇の養子となり、838年(承和5年)内裏で元服。累進して872年(貞観14年)8月、左大臣となる。死後正一位を追贈された。

 六条坊門小路南、万里小路東に邸宅を営み、河原院(かわらのいん)または東六条院と号した。
 嵯峨の山荘・棲霞観(せいかかん)や宇治に別荘を造り、豪奢な生活を送った。

 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれている。


 歌人としても知られ、『古今和歌集』・『百人一首』に

陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
 乱れそめにし われならなくに


(陸奥<みちのく>の「しのぶもじずり」の乱れ模様の布のように、あなた以外の誰のために私の心は乱れはじめてしまったというのか、私のせいではなく、あなたのせいなのだ。)

が収められている。


 嵯峨にある清凉寺は、融の山荘・棲霞観跡と伝えられ、境内には源融の墓といわれる石塔がある。
 また融の宇治の山荘跡は、のちに藤原道長に渡り「宇治殿」となり、その子・頼通が寺に改めたのが平等院の始まりである。
(源融の宇治の山荘について平等院とは別位置であるという指摘もあり。)


 現在、河原院跡に建つ本覚寺(京都市下京区)に源融像が安置されている。錦天満宮(京都市中京区)には境内に源融を祀る塩竃神社がある。

 そのほか、滋賀県大津市には源融とその母・大原全子を祀る「融神社」がある。

 源融が難波(大阪湾)から海水を京の河原院に運ばせたことにちなみ、兵庫県尼崎市に源融を祀る「琴浦神社」がある。





河原院とは?

 源融が創始した平安前期に栄えた邸宅。
 庭の池には鴨川の水を引き入れ、陸奥国の塩竃(しおがま)の浦を模した。当時、「陸奥の塩竃」は歌枕で有名であった。
 また毎月、難波から30石の海水をその池に運ばせては、塩を焼く煙の風情を楽しんだという。塩焼きとは製塩のこと。

 能の「融」はこの塩竃を素材とした曲である。

 河原院は融から、融の子・昇に伝えられ、さらに宇多法皇に寄進され仙洞となった。法皇の死後、この邸宅は寺へと改められた。
 1000年(長保2)年に、融の子で僧の仁康聖人(にんこうしょうにん)が祗陀林寺(ぎだりんじ)を開創するにあたって、河原院の本尊を移したと伝える。

『都名所図会』の河原院蹟の項目によると次のような一文がある。

〔今五条橋の南、鴨川高瀬川の間に森あり、これを籬(まがき)の森といふ。河原院の遺跡なり〕

 現在、河原院址の碑があるあたりはかつて“籬(まがき)の森が”あったという。これは河原院の庭の池にあった“籬(まがき)の島”の名残であると伝わる。
 “籬の島”とは、宮城県塩竈市の千賀の浦(塩釜港)にある小島のこと。

 
 その後、河原院は度々火災に遭い荒廃していった。


 平安時代中期の歌人・恵慶法師(えぎょうほうし)は、河原院の荒廃の様子を以下のように歌っている。<拾遺和歌集より>

 河原院にて荒れたる宿に秋来(きたる)といふ心を人々詠み侍(はべり)けるに

  八重むぐら しげれる宿の さびしきに
     人こそ見えね 秋は来にけり



葎が幾重にも生い茂って荒れ果てた河原院はただでさえ寂しい様子なのに、誰ひとり人の姿は見えないで、秋だけはやって来たことだ。)

 上記の歌は『百人一首』にも収められている。




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【PICK UP】 古代の迎賓館 鴻臚館(こうろかん)<福岡市中央区>

2018年10月17日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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 古代の迎賓館
 鴻臚館

●所在地:福岡県福岡市中央区城内(舞鶴公園内)
●交通 :西鉄バス「平和台鴻臚館前」バス停下車
    :福岡市地下鉄「赤坂」駅下車





 鴻臚館(こうろかん)は、外国の使節を接待した館で、筑紫(福岡市)・大和宮都の外港である難波(大阪)・平安京(京都)の3ヶ所に置かれました。
 難波の鴻臚館は承和十一年(844)摂津国府に転用されます。
 平安京の鴻臚館は、はじめ羅城門の両脇に設けられましたが、弘仁年間(810-824)に七条朱雀へ東鴻臚館・西鴻臚館として移されたと伝えられています。


 2004年5月に国指定史跡となった筑紫の「鴻臚館」は、当初、「筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、平安時代初期(嵯峨天皇の時代?)に唐の外務省に相当する役所の“鴻臚寺”にならって「鴻臚館」と名を改めました。
 “鴻臚”とは、賓客を迎える時、大声で伝達するという意味です。

 日本書紀によると、持統二年(688)に新羅国使を筑紫館でもてなしたという記述が初見。鴻臚館の初見は、承和五年(838)、遣唐副使・小野篁が大宰鴻臚館で唐人沈道古と詩を唱和するという記述です。(注/これより少し後の承和14年(847年)『入唐求法巡礼行記』では鴻臚館の名称で登場)

 11世紀になると鴻臚館の呼び名は「大宋国商客宿坊」となりますが、永承二年(1047)この宿坊が放火され犯人が捕らえられたという記述<『扶桑略記』>を最後に歴史から姿を消します。そのため、11世紀半ばまで使われていたと考えられます。

 鴻臚館遺構の移り変わりは、5時期に区分されますが、建物の遺構の検出は第1期~3期までで、第4期(9世紀後半~)・第5期(10世紀後半~11世紀前半)は建物の遺構は、福岡城建築による破壊を受けたため検出されていません。しかし陶磁器が豊富に出土しています。


 奈良時代<筑紫館時代>は、唐や新羅からの外国使節(※図1)をもてなしたり、日本から唐や新羅へ向かう遣唐使・遣新羅使・留学生の宿泊施設として利用されたりしました。
 平安時代<鴻臚館時代>遣唐使の廃止(894年)後は、唐商人の接待・外国人の検問や貿易(※図2)などに用いられる外交の場にあてられ、現在それらを示す多くの国際色豊かな遺物が大量に出土しています。

 筑紫の鴻臚館は大宰府(福岡県太宰府市)の諸機関のひとつであり、まだその全容が明らかになっていません。大宰府と鴻臚館は直線的な国道(官道)で結ばれていた可能性が高いといわれています。鴻臚館の発掘調査は場所を広げながら2021年度まで続くそうです。今後の発見に目が離せません♪


 発掘調査が終わり整備された鴻臚館跡の一部は鴻臚館跡展示館<入場無料>と広場として市民の憩いの場となっています。
鴻臚館展示館では国際色豊かな出土品がたくさん展示されており鴻臚館の特色をよく反映しています。



 ※図1 




 ※図2






 筑紫の鴻臚館の場所

 鴻臚館の場所については、江戸時代以来、現在の福岡市博多区中呉服町付近に比定されてきました。
 しかし中山平次郎(1871-1956)博士は、地名や「小右記」の刀伊の入寇<寛仁3年(1019年)3月28日から4月13日>の記事、「万葉集」などから福岡城内説を唱え、のちの発掘調査によって現在の地<福岡城跡内>と確認されました。


 <万葉集 巻十五> 天平八年(736)に遣新羅使一行が故郷を思って筑紫館(つくしのむろつみ)で詠んだ歌です。

筑紫の館に至りて、本郷を遥かに望み、悽愴して作る歌四首

3652 志賀の海人の 一日も落ちず 焼く塩の 辛き恋をも 我はするかも

3653 志賀の浦に いざりする海人 家人の 待ち恋ふらむに 明かし釣る魚

3654 可之布江に 鶴鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも

 一に云ふ、「満ちし来ぬらし」

3655 今よりは 秋付きぬらし あしひきの 山松陰に ひぐらし鳴きぬ



 <鴻臚館(筑紫館)の地である条件>

●志賀島が眺望できる
●山松陰のひぐらし(セミ)の鳴き声が聞こえる



四首目の「今よりは~」の歌碑が舞鶴公園内(鴻臚館跡展示館の北西)にあります。



≪歌碑の案内板より≫

 「筑紫の館」 万葉歌碑

 天平八年(西暦七三六年)に新羅の国に派遣された使節一行が往路筑紫の館に着いた時、はるか故郷の大和の方を望んで、一行の中の一人がよんだ歌です。一行の人たちは秋になったら帰って来るからと家人に約束して出かけて来たのに、まだ新羅にも渡らず、やっと筑紫の館に着いたところで秋になってしまったので、この悲痛な歌をよんだのです。従って「今よりは」の初句がよく利いています。
 「今からはもう秋になってしまったらしい。山の松かげでひぐらしがないたから。」という意味です。筑紫の館は、後に鴻臚館とよばれ、遣唐使や遣新羅使のための宿泊施設と外国の使節や商人のための迎賓館とを兼ねたもので、ここ福岡城跡内にありました。




 現在も調査が進められている鴻臚館跡の地ですが、調査前は私が知る限りでも 平和台野球場→福岡第二十四連隊兵営内被服庫武器庫火薬庫→福岡城→お寺(室町時代?)→鴻臚館・筑紫館→古墳(7世紀前半のもの) だったそうです。

 NHKで放送された「歴史でみる日本」でのお話しによると、古墳を壊しながら筑紫館を作っていたというのですから、国家的な大規模な工事だったと思われます。弥生中期~古墳時代後期まで、丹塗りの土器や円筒埴輪のかけらがみつかっていることからも筑紫館ができる以前は墓地だったと考えられています。




【参考】
「都府楼」10号 特集:鴻臚館 発行:(財)古都大宰府を守る会
「日本史大事典」第3巻 こ~し 発行:平凡社
「源氏物語の鑑賞と基礎知識」 №31 梅枝・藤裏葉 監修・鈴木一雄/編集・河添房江 発行:至文堂
「史跡 鴻臚舘跡」パンフレット 福岡市教育委員会

【引用】
 新編日本古典文学全集9 「萬葉集4」 巻第十五~巻第二十 校注・訳者:小島憲之・木下正俊・東野治之 発行:小学館



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【PICK UP】 水城と大宰府 <福岡県太宰府市> その2

2018年10月11日 | 「PICK UP」から移動
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 水城と大宰府

水城と大宰府その1の続きです。


 大宰府政庁跡
 <都府楼跡(とふろうあと)>



●所在地:福岡県太宰府市観世音寺4丁目
●交通 :太宰府市コミュニティバスまほろば号「大宰府政庁跡」下車
    :西鉄電車「都府楼前」駅下車 徒歩15分



≪「筑紫万葉のふるさと 観光と史跡散策 太宰府」のパンフレットより≫

“都府楼跡(とふろうあと)”の名前で親しまれている大宰府政庁跡は九州全体を治める役所大宰府があった所である。
7世紀の後半から奈良・平安時代を通じて九州を治め、わが国の西の守りとして防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきた。
現在も大宰府政庁跡の中心にはその大きさをしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、そして周辺の役所跡が復元され、公園となっている。




*大宰府政庁図


注)上の図は、『大宰府史跡発掘調査30周年記念特別展 「大宰府復元」』(九州歴史資料館・平成10年10月23日発行)に掲載されていた政庁第Ⅲ期 の図とパンフレット等に掲載されている政庁模型の写真を参考にして、なぎ が書いたものです。正確なものではございませんので、学術的な資料を求められる方は専門書をご覧下さいませ。<(_ _)>



 大宰府政庁跡 入り口

「史蹟太宰府阯」と「都府樓趾」の石碑があります。

 大宰府政庁のことを「都府楼(とふろう)」ともよばれるのは、菅原道真が詠んだ漢詩の一部
 都府樓纔看瓦色
(都府の楼にはわづかに瓦の色を看る)

 が由来といわれています。




 大宰府政庁入り口
 北に大野城があった大野山がそびえたっています。
 階段の上には、南門跡があります。



 南門跡に立って北を見たところ。
 中門跡と奥に正殿が見えます。



 中門跡に立って北を見たところ。
 正殿にだいぶ近づいてきました♪






 大宰府政庁 正殿跡


≪看板より≫

正殿跡とは

大宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果した場が正殿である。
大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。
宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司たちが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。
このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。






 正殿から南を見てみました。
 この白砂の部分に役人たちが集まったと考えられます。

 大宰府の南には、基肄城(きいじょう)がありました。



 正殿から南西を見たところ。
 西側の脇殿跡が見えます。

 大宰府の西側には、水城があり、さらに丘陵があります。




 正殿から南東を見たところ。
 東側の脇殿跡が見えます。

 大宰府政庁の東にある月山には漏刻(水時計)があったと伝えられています。



 正殿から北門を見たところ。
 築地塀に見立てた植え込みが途切れた部分が北門部分です。




 大宰府政庁跡の東にある「大宰府展示館」では、大宰府や周辺史跡の歴史がわかりやすく紹介されています。


 大宰府展示館においてあったスタンプ。
 大宰府史跡出土の鬼瓦は朝鮮半島の影響を受けているそうです。

 なぜか「漢倭奴国王」のスタンプもありました。



 復元模型 奈良時代
  大宰府式鬼瓦

 大宰府政庁跡で出土した鬼瓦を長さ・幅ともに2倍の大きさで復元されたものです。
 大宰府政庁正殿の魔よけとして用いられていました。<「太宰府館」にて撮影>



 大宰府政庁跡出土 軒丸瓦(のきまるかわら)<『太宰府館』にて撮影>






 大宰府政庁南門模型<九州国立博物館で撮影>

 門前には、役人や僧、壺装束姿の女性、遊ぶ子どもなどの賑わいが再現されています。






【本文引用・参考】
「新編日本古典文学全集4 日本書紀3
 巻第二十三舒明天皇~巻第三十持統天皇」 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 /校注・訳者 小学館 発行

【参考】
「目で見る太宰府市の文化財1 特別史跡 水城跡」  財団法人古都大宰府保存協会 発行
「大宰府史跡発掘調査3030周年記念特別展 大宰府復元」九州歴史資料館 編集・発行
「太宰府紀行」 森弘子 監修 (財)古都大宰府保存協会 編
 太宰府市 公式HP
 筑紫野市 公式HP




 大宰府と『源氏物語』の関係にご興味をお持ちの方は、webサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』「源氏物語ゆかりの地をめぐる 遥かなる筑紫 太宰府」もご覧くださいませ。



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