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栄光のビザンツ帝国

2010-04-18 12:04:06 | 歴史
国家の繁栄の条件は税収が安定して確保されることにある。
ビザンツ帝国においては農村の村単位で徴税するシステムが上手く稼動し、村単位の納税の義務を果たすため農民の没落者を出さないように村人の相互互助が機能していた。
また、ユスティニアヌス帝の時代に蚕の密輸に成功して以来、ビザンツ帝国では西欧で憧れの的であった絹織物を東方との貿易によらず自給される絹糸によって生産していた。

こうした経済的裏付けを確固たるものにした帝国はいよいよ外向きに周囲の脅威を振り払いつつ制圧するようになっていく。

AD963年に即位したニケフォロス2世はクレタ島の奪回を始め東方のイスラム領を次々制圧し帝国の領土を大きく東へ広げる。

しかし、ニケフォロス2世はヨハネス1世によるクーデターに倒れる。

ヨハネス1世の代に帝国に迫ってきたのはキエフ・ロシアであった。ブルガリアを制圧したロシア軍にヨハネス1世は重装備の騎兵をもって迎え撃った。
矢をはじき返す騎兵の突撃の前にロシア軍は逃げ出し、ドナウ川の沿岸まで追い詰められ、二度とビザンツ領を侵攻しないと約束して引き上げていった。

続いて軍隊を東に向け、メソポタミア・シリア・フェニキアの町々を占領する。

ヨハネス1世の後に即位したバシレイオス2世の時代にビザンツ帝国は最盛期を迎える。

軍人皇帝バシレイオス2世は自ら軍隊を指揮し、都コンスタンティノープルにはなかなか戻ることは無かった。
彼は宿敵ブルガリア人との長きに渡る戦争に勝利した。
ブルガリア人の捕虜を1万5千人捕えた皇帝は捕虜を100人のグループに分け、99人の両目をくりぬき、残る1人の片目を残して道案内をさせブルガリア王の下へ送り返した。
あまりの光景に王はショックでポックリ逝ってしまい、やがてブルガリアはビザンツ帝国に併合される。

こうしてビザンツ帝国の周囲には帝国を脅かす外敵はもはや見当たらなくなった。
一方で国内の財政は潤い、財宝を納める蔵に金銀が入りきらなくなったので、地下を掘り下げて蔵を拡張したほどだった。
その気になればローマやエルサレムの制圧も夢ではなかったかもしれない。
しかし、バシレイオス2世はユスティニアヌス帝と違い国庫をスッカラカンにしてまで帝国を広げようとはしなかった。
余力ある遠征の元で帝国はユスティニアヌス帝あるいはディオクレティアヌス帝・コンスタンティヌス大帝以来の繁栄を見た。統一ローマを更に遡ってプリンケプスすなわち第一市民の時代のトラヤヌス帝にまでは及ばないにしても充分過ぎる繁栄が永遠に続くことを確信してバシレイオス帝は永眠する。

しかしである、かつてのパクスロマーナにおいて繁栄の中で危機が進行していたように、バシレイオス帝の時代の繁栄もその例外とはなりえなかったのである。

帝の死後、帝国の絶対的な繁栄は長くは続かなかったのである。

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