(2)で紹介した邪馬台国の官制「四等官」のうち、第二の「彌馬升」を私は「一族(彌馬)の男(升=之男)」と解釈し、これは倭人伝本文の後の方に書かれている「男弟」のことで、「鬼道」(神懸かり)を本領とする女王卑弥呼に変わって国策(行政)を担っている官職であることを述べた。
「升(ショウ)」を「シヲ」と読んで意味が通じると思われる人物の名が倭人伝にはもう一つある。
それは卑弥呼(実質的には男弟)が景初2年(西暦238年)の6月に命じたという次の記事に登場する。
「倭の女王は大夫難升米を遣わし、郡に詣でしむ。天子に詣で、朝献を求めんとすればなり。太守の劉夏、吏を遣わして将に送らしめ、京都に詣でしむ。」
下線部の「難升米」という人物を魏の天子への使いに出した――という記事だが、このあとには同じ景初2年の12月に魏の天子(当時は明帝)からの詔書が紹介され、有名な「よく遠いここまでやって来てくれた。ついては女王ヒミコを<親魏倭王>とし、金印を授けよう」という展開になる。
ここではその下りの詳細は省くが、使者となった「難升米」の解釈を披歴したい。
私はここでも「升」を「シヲ」とし、「難升米」を「ナシオミ」と読む。そして「難」を「ナ(奴)」に取り、この人物を「奴之臣」と漢字化する。
するとこの人物は「奴国(ナコク)の臣」という人物像が浮き上がる。
「奴国」とは倭人伝中の女王国勢30か国のうち、佐賀平野の西部、今日の小城市あたりにあった戸数2万戸の「奴国」、もしくは女王国勢では狗奴国に近い最南部に所在した「奴国」(戸数不明)の2か国があるが、これだけの情報ではどちらとも決め難い。
ところが『後漢書』の「東夷列伝」という巻に次の記事が見いだせる。
「建武中元2年(西暦57年)、倭の奴国が貢をもって朝賀にやって来た。使いの者は自らを「大夫」と言った。倭国の極南界なり。光武(帝)は印綬を賜った。」
倭国の最南部の奴国からやって来た使いは自分のことを「大夫」と自称したというのである。この時下賜されたのが例の志賀島で発見された「漢委奴国王之印」という刻字のある金印である。
(※私はこの金印の刻字を「漢の倭(わ)の奴(ナ)国王の印」と読むのだが、漢音では「漢のイド国王の印」と読むべきだと考える研究者もいる。)
この後漢の始祖・光武帝に謁見した「倭の奴国」からの使者も自分の身分を「大夫」と言ったというのだが、「大夫」とは主としてこういった外交交渉に出向くクラスの身分で、官僚組織のランクで言えば五等官、女王国の官制で言えば四等官の「奴佳鞮」(ナカテ=中手=中臣)の下のランクに当たろう。
邪馬台国人ではなく連盟30か国のうちとは言いながら、「奴国人の大夫」を使いに立てたのはおそらく、かつてこの光武帝への使者に立てた経験のある奴国に委ねたのだろう。
ではこの「奴国」は2つの奴国のうちどちらの奴国だろうか?
それは後漢書で「倭国の極南界」と言っている以上、邪馬台国連盟30か国の最南部にある奴国と考えるほかない。
その国はさらに南部にある男王をいただき、「狗呼智卑狗(クコチヒコ=菊池彦)」を大官としている倭人伝上の「狗奴国」に菊池川を挟んで向かい合っている国であり、今日の玉名市がそれに当たる。
当時、有明海の海運を支配していた国で、ここから有明海を抜け、九州の西岸を北上して朝鮮半島の同じく西岸を通過し、山東半島に上陸し黄河中流にあった後漢の首都洛陽まではるばる出かけたのだ。
その経験は九州島で鳴り響いており、邪馬台国は同じ洛陽を首都とした魏王朝への朝賀貢献を奴国にゆだねたのだろう。
『後漢書』ではもう一人の人物に「升」という字が当てられている。
それは倭の奴国が後漢の光武帝に朝賀したちょうど50年後、
「安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献ず。(安帝に)見(まみ)えることを請い願えり。」
という記事に書かれている。
「倭国王帥升」がそれである。この「帥升」が後漢の6代目「安帝」(在位107~125年)の即位の年にはるばる貢献しているのだ。私はこの「帥升」を「ソツシヲ」すなわち「曽の男王」と解釈している。
「生口」とは人間のことだが、一般的には「奴隷・奴婢」の類だとされるが、私は中に「留学生」のようなレベルの者がいたと理解している。それが160人とは、いったいどのような船で大陸まで渡ったのか興味が持たれるが詳細は不明である。
永初元年の107年といえば、倭人伝では邪馬台国に卑弥呼が王として擁立されるまでの「桓・霊の間」(桓帝と霊帝の統治の間=147年~188年)、邪馬台国では、
「その国、もと男子をもって王と為す。住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年」
という有様であったが、卑弥呼が「共立」されてようやく収まったという。
逆算すると卑弥呼の擁立の7~80年前と言えば、永初元年(107年)がそのうちに入り、この「帥升」が後漢に貢献したがゆえに九州倭国で戦乱が生じるようになったのか、それともすでに戦乱が起きており、その収拾を図るために後漢に救いを求めたのか、見解が分かれるところである。
しかし結果として卑弥呼の擁立前の140年代から180年代にかけて戦乱は続いていたのであるから、永初元年(107年)の後漢への「曽の男王」貢献は、戦乱の引き金になった可能性を考えるべきだろう。
107年という時代の「曽の国」はのちの「狗奴国」であると考えるのだが、107年というのは弥生時代後期に属し、この時代相として南九州では遺跡自体も遺物・遺構も大変少なくなっており、あるいは何らかの事情で南九州から人々が北上して熊本県域に居住地を移していたことも考えられる。
その「何らかの事情」については目下検討中である。