鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

邪馬台国の官制について(補遺)

2024-10-17 11:01:44 | 邪馬台国関連
(2)で紹介した邪馬台国の官制「四等官」のうち、第二の「彌馬升」を私は「一族(彌馬)の男(升=之男)」と解釈し、これは倭人伝本文の後の方に書かれている「男弟」のことで、「鬼道」(神懸かり)を本領とする女王卑弥呼に変わって国策(行政)を担っている官職であることを述べた。

「升(ショウ)」を「シヲ」と読んで意味が通じると思われる人物の名が倭人伝にはもう一つある。

それは卑弥呼(実質的には男弟)が景初2年(西暦238年)の6月に命じたという次の記事に登場する。

「倭の女王は大夫難升米を遣わし、郡に詣でしむ。天子に詣で、朝献を求めんとすればなり。太守の劉夏、吏を遣わして将に送らしめ、京都に詣でしむ。」

下線部の「難升米」という人物を魏の天子への使いに出した――という記事だが、このあとには同じ景初2年の12月に魏の天子(当時は明帝)からの詔書が紹介され、有名な「よく遠いここまでやって来てくれた。ついては女王ヒミコを<親魏倭王>とし、金印を授けよう」という展開になる。

ここではその下りの詳細は省くが、使者となった「難升米」の解釈を披歴したい。

私はここでも「升」を「シヲ」とし、「難升米」を「ナシオミ」と読む。そして「難」を「ナ(奴)」に取り、この人物を「奴之臣」と漢字化する。

するとこの人物は「奴国(ナコク)の臣」という人物像が浮き上がる。

「奴国」とは倭人伝中の女王国勢30か国のうち、佐賀平野の西部、今日の小城市あたりにあった戸数2万戸の「奴国」、もしくは女王国勢では狗奴国に近い最南部に所在した「奴国」(戸数不明)の2か国があるが、これだけの情報ではどちらとも決め難い。

ところが『後漢書』の「東夷列伝」という巻に次の記事が見いだせる。

「建武中元2年(西暦57年)、倭の奴国が貢をもって朝賀にやって来た。使いの者は自らを「大夫」と言った。倭国の極南界なり。光武(帝)は印綬を賜った。」

倭国の最南部の奴国からやって来た使いは自分のことを「大夫」と自称したというのである。この時下賜されたのが例の志賀島で発見された「漢委奴国王之印」という刻字のある金印である。

(※私はこの金印の刻字を「漢の倭(わ)の奴(ナ)国王の印」と読むのだが、漢音では「漢のイド国王の印」と読むべきだと考える研究者もいる。)

この後漢の始祖・光武帝に謁見した「倭の奴国」からの使者も自分の身分を「大夫」と言ったというのだが、「大夫」とは主としてこういった外交交渉に出向くクラスの身分で、官僚組織のランクで言えば五等官、女王国の官制で言えば四等官の「奴佳鞮」(ナカテ=中手=中臣)の下のランクに当たろう。

邪馬台国人ではなく連盟30か国のうちとは言いながら、「奴国人の大夫」を使いに立てたのはおそらく、かつてこの光武帝への使者に立てた経験のある奴国に委ねたのだろう。

ではこの「奴国」は2つの奴国のうちどちらの奴国だろうか?

それは後漢書で「倭国の極南界」と言っている以上、邪馬台国連盟30か国の最南部にある奴国と考えるほかない。

その国はさらに南部にある男王をいただき、「狗呼智卑狗(クコチヒコ=菊池彦)」を大官としている倭人伝上の「狗奴国」に菊池川を挟んで向かい合っている国であり、今日の玉名市がそれに当たる。

当時、有明海の海運を支配していた国で、ここから有明海を抜け、九州の西岸を北上して朝鮮半島の同じく西岸を通過し、山東半島に上陸し黄河中流にあった後漢の首都洛陽まではるばる出かけたのだ。

その経験は九州島で鳴り響いており、邪馬台国は同じ洛陽を首都とした魏王朝への朝賀貢献を奴国にゆだねたのだろう。

『後漢書』ではもう一人の人物に「升」という字が当てられている。

それは倭の奴国が後漢の光武帝に朝賀したちょうど50年後、

「安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献ず。(安帝に)見(まみ)えることを請い願えり。」

という記事に書かれている。

「倭国王帥升」がそれである。この「帥升」が後漢の6代目「安帝」(在位107~125年)の即位の年にはるばる貢献しているのだ。私はこの「帥升」を「ソツシヲ」すなわち「曽の男王」と解釈している。

「生口」とは人間のことだが、一般的には「奴隷・奴婢」の類だとされるが、私は中に「留学生」のようなレベルの者がいたと理解している。それが160人とは、いったいどのような船で大陸まで渡ったのか興味が持たれるが詳細は不明である。

永初元年の107年といえば、倭人伝では邪馬台国に卑弥呼が王として擁立されるまでの「桓・霊の間」(桓帝と霊帝の統治の間=147年~188年)、邪馬台国では、

「その国、もと男子をもって王と為す。住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年」

という有様であったが、卑弥呼が「共立」されてようやく収まったという。

逆算すると卑弥呼の擁立の7~80年前と言えば、永初元年(107年)がそのうちに入り、この「帥升」が後漢に貢献したがゆえに九州倭国で戦乱が生じるようになったのか、それともすでに戦乱が起きており、その収拾を図るために後漢に救いを求めたのか、見解が分かれるところである。

しかし結果として卑弥呼の擁立前の140年代から180年代にかけて戦乱は続いていたのであるから、永初元年(107年)の後漢への「曽の男王」貢献は、戦乱の引き金になった可能性を考えるべきだろう。

107年という時代の「曽の国」はのちの「狗奴国」であると考えるのだが、107年というのは弥生時代後期に属し、この時代相として南九州では遺跡自体も遺物・遺構も大変少なくなっており、あるいは何らかの事情で南九州から人々が北上して熊本県域に居住地を移していたことも考えられる。

その「何らかの事情」については目下検討中である。



邪馬台国の官制について(2)

2024-10-16 10:18:53 | 邪馬台国関連
(1)では邪馬台国の位置を述べ、統治組織に見られる「4等官」官制のうち、第一等官である「伊支馬」(イキマ=イキメ=活目)は、邪馬台国自生の官ではなく戦乱(倭国乱れ、暦年主なし=後漢書)に勝利した「大倭」による軍事顧問的な地位の官であるとした。

 <北部九州の一大勢力「大倭」と伊都(イツ)国>

この「大倭」とは別名「五十王国」と言え、糸島を本拠に北部九州では最大の勢力となったのちの「崇神王権」の淵源である。

崇神は和風諡号で「ミマキイリヒコ・イソニヱ」といい、ミマキ(御間城)とは「天孫の王城」であり、イソニヱ(五十瓊殖)とは「五十(イソ)地方において王権を殖やす(伸長させる)」の意味で、朝鮮半島の狗邪韓国(のちの任那=伽耶)を経て、糸島(五十)に定着したことを示している。

その皇子である垂仁は和風諡号を「イキメイリヒコ・イソサチ」といい、こちらは邪馬台国に「イキメ(伊支馬)」として赴任したことがあったことを表している。またイソサチ(五十狭茅)とは「五十(イソ)において王宮とも呼べぬ狭い茅屋のような環境で生まれた、あるいは育った」ことを示している。

この「大倭」こと崇神王権(五十国王権)は、朝鮮半島で西暦204年に公孫度が帯方郡を設置した頃から風雲急を告げだし、代わって魏王朝の楽浪郡・帯方郡支配が始まると半島に別れを告げたようである。そして王宮を糸島こと「五十(イソ)」に移したのだろう。そこで垂仁が生まれた。

五十(イソ)王権が北部九州一帯から南へ勢力を伸ばして来ると、広大な天山山麓の佐賀平野部や筑前の甘木平野にはオオクニヌシ系の「厳(イツ)奴」が勢力を張っていた。必然的に両勢力は干戈を交えた。これが「倭国乱れ、暦年主なし」の状況である。

佐賀平野部から筑前朝倉までを支配していた「伊都(イツ)国」王権の大国主(別名八千矛命)は敗れ、一部が厳木(イツキ)町に追いやられ、大部は出雲(イツモ)に流された。

この時、邪馬台国女王の卑弥呼は軍事力ではなく霊能力で(神のお告げで)、疲弊した北部九州の勢力の間に立って矛を収めさせたに違いない。

しかし南部には虎視眈々と北進を狙う「狗奴国」(菊池川以南の熊本県域を統治)の存在があり、これを危惧した女王卑弥呼は「大倭」による軍事介入を願い、その証として第一等官に「伊支馬(イキマ=イキメ=活目)」という最高顧問を置いたのだろう。

 第二等官「彌馬升」

これは「ミマショウ」と読めるが、「ミマ」は天孫、皇孫の「孫」(みまご)であり、一般的には「血筋、血統」が該当する。

「升」は「ショウ」だが、私は「シヲ」の転訛だと考える。つまり漢字化すると「~之男」になると思うのである。

この解釈で行くと「彌馬升」(ミマシヲ)は「血筋の男」となり、卑弥呼の一族から選ばれた男子が二等官になっていたと解せられる。

倭人伝では女王国のこれら官制を記したあとに国内の風俗・風習・物産などがかなり詳しく書かれるのだが、最後の方で、

「その国、元また男子をもって王と為す。(中略)相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼、鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫婿なし。男弟ありて、国を治むるを佐(たす)けり(後略)」

とある。ここに登場する「男弟」こそが二等官の「彌馬升(ミマシヲ)」に違いない。

鬼道というシャーマン的な神のお告げを述べる卑弥呼には当然、行政的な能力はないから補佐役の者が必要で、その任を担っていたのが卑弥呼の一族どころか親族である弟だったということが読み取れる。

 第三等官「彌馬獲支」

これは「彌馬(ミマ)」までは二等官と同じ「一族の」の意味だが、次の「獲支」がまずどう読むのかが定まらない。

「獲」はどう読んでも「カク」であり、そうすると「獲支」は「カクシ」もしくは「カクキ」だろう。

倭人語としての「カクシ」も「カクキ」もその意味は思いつかないのだが、二等官の「彌馬升」の解釈で引用した倭人伝の部分を引用してみると、先の続きは次のようになっていた。

「(卑弥呼は)王となって以来、まみ(見)え有る者少なく、婢千人をもって自らに侍らせり。ただ男子一人有りて飲食を給せしめ、辞を伝えて出入りさせり。(後略:このあと宮室・楼観・城柵の記述が続いて終わる)」

男弟が王国の統治を補佐していたとある後に、宮室に籠って人目に触れることはないが、婢千人を自分のまわりに置いていたという。

本当に千人もいたのかは極めて疑問で、多くは召使なのだろうが、中には卑弥呼同様の霊能力者がいて卑弥呼の霊能力発揮の加勢をしていたのかもしれない。その千人の婢を取り仕切る女官長がいてもおかしくはない。それを邪馬台国では「彌馬獲支」(ミマカクシ)と呼んでいたのだろう。

この「彌馬獲支」も「彌馬」を冠しているので、卑弥呼の一族から選ばれた女性(女官長)だったはずである。

 第四等官「奴佳鞮」

最初の「奴佳」は「ナカ」と読める。最後の「鞮」は「テイ」と読むが、そうすると「ナカテイ」となる。

この官職も先の「彌馬獲支」解釈で引用した部分の「ただ男子一人有りて、飲食を給せしめ、辞を伝えるに出入りさせり。」という役職に当たる官だろう。

この官職は卑弥呼及び卑弥呼に仕える女官たちが神懸かりで得た言葉を受け止めて、邪馬台国自生のトップ官僚である男弟と卑弥呼の間を取り持ち、卑弥呼らの言葉を王国の施策に及ぼす重要な役目だと思われる。

私は「奴佳」を「ナカ(中)」に取り、「鞮」は「テ」と考える。つまり「ナカテ」で、漢字化すれば「中手」である。

「手」はあの仲哀紀と筑前風土記に登場する「五十迹手」(イソトテ)の「手」すなわち「ある役目の人物」の意味に取りたい。後の「中臣」(ナカツオミ)に相当する役職であり、神事を司る役目であろう。




邪馬台国の官制について(1)

2024-10-15 14:54:25 | 邪馬台国関連
 九州邪馬台国に至るまでの道程

邪馬台国は、中国の晋王朝時代の西暦280年頃に史家の陳寿という人が書いた歴史地理書『三国志』の中の『魏書之三十・烏丸鮮卑東夷伝』に描かれた倭人国家群の卑弥呼女王を頂いた国家であった。

その王国の位置をめぐっては九州説と畿内説に分断され、論議に収拾を見ないでいるわけだが、私は2003年に出版した『邪馬台国真論』において、九州は八女説を主張しており、もう20年経つが結論は微動だにしていない。

そもそも朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで魏の使節が辿った「行程」(方角・距離・日数)を素直に解釈すれば、「伊都国=糸島」説は有り得ないのである。

まずは最も簡単に畿内説では有り得ない論拠が、倭人伝中の一文「郡より女王国に至る、万2千余里(帯方郡から女王国まで1万2千里余りである)」である。

これからすれば、帯方郡から九州島の北端末盧国(唐津市)まで水行で1万里であり、残りはわずか2千里余りであるから、この2千余里では陸行にせよ水行にせよ畿内までたどり着くはずはないのである。

末盧国に上陸したあとは東南に500里陸行して「伊都国」、さらに東南に100里で「奴国」、さらに東へ100里で「不彌国」。ここまでで1万700里、残りはわずか1300里しかない。この距離ではさらに畿内説は不可能ということになる。

以上により畿内説の成り立つ余地はゼロである。

ところが九州説でも、ここ(不彌国)から文の続きで「南至る、投馬国。水行20日。官は彌彌といい、副(官)を彌彌那利という。五万戸なるべし。」というのを「不彌国から続いている国だ。不彌国から船出して20日行った所に投馬国がある」と勘違いしている論者がほとんどなのだ。

この「南至る投馬国、水行20日」とは、帯方郡からの「水行20日」なのである。つまり投馬国は帯方郡から船で南下して20日のところにあり、九州島北端の末盧国(唐津市)までの水行日数10日の2倍の距離にある南九州(古日向=戸数5万戸)を指している。

同様に投馬国からの続きに書かれている「南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月」とは投馬国と同様、帯方郡からの「水行10日、陸行1月」なのである。

つまり邪馬台国は帯方郡から船で南下して10日の距離(距離表記では水行1万里)にある末盧国(唐津市)に達し、そのあとは徒歩の行程(陸行)で1か月かかる場所にあると言っているのだ。

私は唐津市から松浦川を遡上して至る山中の「厳木(きゆらぎ=イツキ)」を「伊都(イツ)国(戸数千戸)」に比定しているが、ここまでが徒歩で500里、5日の行程だろうか。

伊都国からは下りになり、徒歩100里で「奴国(戸数2万戸)」、さらに100里で「不彌国(戸数千戸)」、それぞれ徒歩で1日の行程だろう。佐賀平野の西部の小城市から大和町が比定される。佐賀市は当時まだ干潟の中にあったと思われる。

さて唐津に上陸してから陸行2千里のうち700里で佐賀平野の西端に至ったのだが、あとの1300里について途中の小国家群が書かれていないのが不審だが、唐津から小城市までの距離の2倍弱に当たる場所に女王国があるとしてよいだろう。

不彌国からは佐賀平野の北に聳える天山山塊の麓を東に行き、筑後川を渡り、久留米市あたりからは南下し、今度は耳納山系の西麓を通って八女市に至るまでの距離がちょうど該当する。

そこが卑弥呼女王の都した(八女)邪馬台国である。

 邪馬台国の官制

邪馬台国までの行程を記述した陳寿は、邪馬台国及び九州島の風土・産物・風俗などを書く前に、早くも邪馬台国の統治組織の最重要部である「4等官」について記録している。

もっとも邪馬台国への行程上にある対馬国以下不彌国までの小国家群についても、ヒコ・ヒナモリ・ヌシ・シマコ・ヒココなどの(統治者の官名)を書いているのだが、邪馬台国の官名はさすがに30か国の小国家群を統治している大国らしく女王「ヒミコ」は別として、4つの官名が見える。

「官に伊支馬あり、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳鞮という。」

① 伊支馬(イキマ)

「イシマ」とも読めるが、私は「イキマ」を当てている。

このイキマは第1等官である。私はこれは「イキメ」の転訛だと思っている。

漢字を当てれば「生目」あるいは「活目」だろう。

「生きた目」ではなく「目を活かす」の方が役人の名としてはふさわしい。

江戸幕府の官制で「大目付」というのがあったが、役割としては似ているが、大目付は最高官職の老中の下にあり、一等官ではない。

邪馬台国のこの「活目」は実は邪馬台国自生の一等官ではなく、他国から置かれた官であると私は考えている。

その他国とは「大倭」だろう。邪馬台国は北部九州に勢力を扶植していた「大倭」によって監視されていたのだ。保護国になっていたと考えても良い。

「大倭」は、倭人伝に「国々に市あり。有る無しを交々易える。大倭をして之を監せしむ。」とあるが、この大倭はさらに伊都(イツ)国に「一大卒」つまり軍隊を置いて邪馬台国以北の国々を見張っていた――とあり、邪馬台国にとっては一種の占領軍に他ならなかった。

(※伊都(イツ)国について、私は厳(イツ)国と考える。神話に見える八千矛命、すなわちオオクニヌシ系の一大勢力だったのだが、北部九州の「大倭」(五十王国)に敗れ、一部の王族は伊都(イツ)国に押し込められ、大部分の伊都(イツ)国勢力は遠く出雲(イツモ)に流された。
 倭人伝時代の九州島では伊都(イツ)国(所在地は厳木町)だけの小国に成り下がっていた、と見る。)

女王卑弥呼が擁立されたのは「倭国が乱れ、暦年主なし」という戦乱の時代であった。その具体的な年代は後漢書によるとの桓帝と霊帝の統治期間の最中(AD147年~188年)だったとあるが、卑弥が女王になったのは決して軍事力による采配ではなく、霊能力によるものだったようだ。

その軍事力の弱点を補ったのが、「大倭」による占領統治だったのだろう。大倭が派遣した「伊支馬(イキメ)」こそが、言わば女王国の後ろ盾だったのである。

この「伊支馬(イキメ)」の勢力によって、邪馬台国の南部に存在し男王「卑弥弓呼(ヒコミコ)」が虎視眈々と女王国への北進を狙っていた狗奴国の野望は防がれていた。

ところが卑弥呼の後継の台与(トヨ)の時代もだいぶたってからようやく狗奴国が侵略可能になった。「大倭」の派遣する「伊支馬(イキメ)」が不在になったからである。

その時の「伊支馬(イキメ)」こそ、北部九州の一大勢力になっていた「大倭」こと「五十(イソ)王国」(糸島市が本拠地)の「活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイソサチ」こと後の垂仁天皇(崇神天皇の皇子)であろう。

「伊支馬(イキメ)」がいればこその女王国の軍事力なのであった。(続く)



糸島市の可也山と芥屋の大門

2024-09-30 10:29:11 | 邪馬台国関連
土曜日の午前10時からの放映だったが、NHK福岡放送局が作成した番組で『#てれふく・ゴリけん福岡地名探偵』というのを総合テレビで再放送していた。

この番組は3年前に福岡地方だけに放映されたものらしいが、今度、福岡県糸島市を舞台にした朝のテレビ小説『おむすび』が9月30日の月曜日から始まるというので、ちょうど番組が糸島市の地名を取り上げていたため全国区として再放映されたようだ。

自分としての予見ではあの『魏志倭人伝』に載った「伊都国」の「伊都」と「糸島」の地名の異同についてを取り上げるだろうと、興味津々、というか手ぐすねを引いて観ようとしたのだが、取り上げられたのは、

①福岡市と糸島市の境にある「油山」の意味
 
②福岡に多い「原」を「ばる」と読む謂れ
 
③(視聴者からの質問で)八女地方では筑前煮を「おちゅういり」というのはなぜか 

④糸島市の「可也山(かやさん)」と海の景勝地「芥屋の大門(けやのおおと)」の「かや」と「けや」は似ているが起源は?

で、ちょっと期待外れだった。

この中に「糸島」の「いと」と「伊都国」の「伊都」とは同じか違うか――については触れられなかったのは残念だったが、「糸=伊都=いと」と読むだけだったのが、筑前風土記や日本書紀の仲哀天皇紀に見えるように、

――糸を今(風土記と書紀の編纂時点で)は「いと」と読んでいるが、これは誤りで本来は「イソ」(伊蘇)と読むのが正しい。糸島の豪族は「五十迹手」(いそとて)で、彼らの祖先は半島の「意呂山」(おろやま)に降臨したあとここ糸島に渡って来た。

とあり、糸島の「糸」は元来「イソ」であり、また豪族「五十迹手(いそとて)」の先祖は半島の南部から渡来したことが、日本の古代文献に書かれている以上、糸島を「伊都国」としてきた従来の<定説>が揺らがざるを得ないことが福岡放送局側で認識されたので、今回の「地名探検」からは除外されたのだろう。

自分のように「伊都国=糸島説」には断固反対の立場にしてみれば、少しはまともな解釈に向かいつつあるのではと歓迎しておきたい。

さて、糸島地方の古代の豪族「五十迹手(いそとて)」が言うように、彼らの先祖は半島の「意呂山」に降臨したとあり、その後、九州に渡って来たようだが、その時の半島からの出航地は「伽耶地方」であった。この伽耶は今日の地名では金海であり、魏志倭人伝時代は「狗邪韓国」という倭人の一国家であった。

このことを裏付けるのが、①~④の最後の④である。番組では④をめぐって地元の考古学者か郷土史家かのどちらかは明確ではなかったが、専門家が登場して番組のキャスターゴリけんと女性アナに説明していた。

この④ではまず「芥屋の大門(けやのおおと)」に船で近づく様子が放映された。

この珍しい地名「けやのおおと」のうち、後半の「おおと」は「大門」と書き、かつて海底が噴火したあとに流れ出た溶岩がすぐに冷え固まってできた「柱状節理」の地形で、確かに奇岩であり、荒々しいが三角形をした巨大な門のように見える。

そして糸島市の富士とも言える「可也山」(かやさん)の秀麗な姿が映し出され、女性アナが「けやとかやとは似ていますよね」と言うと、件の専門家はどちらも半島南部にあった「伽耶(かや)」を起源とする説を紹介していた。
番組では直接は紹介されなかったが、筑前風土記と仲哀天皇紀からすれば可也山の「可也」と「伽耶」とは結び付かないと考えるほうが無理だろう。

芥屋の大門の「けや」も「かや」の転訛のうちに入ると考えて差し支えあるまい。半島の伽耶地方と糸島との間を往来する航路の入り口であり出口を象徴する岩礁なので、「伽耶航路の大門」との名付けが転訛し定着したものだろう。

秀麗な山容の可也山も俗にいう「船通し山」、つまりはるか海上から陸地の存在と方向を教えてくれる「目当ての山」だったのだ。この名付も半島の伽耶地方と糸島の結び付きを今に伝える名称だ。

半島南部の九州への出航地「狗邪韓国=伽耶」から糸島地方への航路は直接ここに来ていたことを象徴する「けやの大門」であり「かや山」である。

もし魏志倭人伝における「伊都国」がこの糸島市なら、何もわざわざ唐津市の「末盧国」に船を着け、そこから海岸段丘沿いの荒々しい陸路をとってこの糸島まで来る必要はなく、壱岐の島から直行すればよいだけの話である。

「伊都国=糸島説」が成り立たないことは明らかではないか。

(※巷のほとんどの邪馬台国論者は相変わらず「伊都国=糸島説」を標榜して議論を進めているので、距離と方角の「行程論」では完全に矛盾撞着という袋小路に入っており、畿内説も九州説も混迷を深めるばかりである。)

――因みに、残りの①、②、③の説を取り上げておく。

①の「油山」の「油」は「椿油」のこと。この山中に多かった椿の実を初めてしぼって油にした「清賀上人」の事績であった。

②の福岡県では「原(はら)」を「ばる」と読むのはなぜか。これは福岡だけではなく鹿児島でもほぼ「ばる」だ。あるいは「ばい」と読むこともある。

地名学者の説では「墾田」の「懇」つまり「はる」(開墾する)から来たのだろうとするが、「墾(は)る」からなら全国で使われそうだが、実際にはほぼ使われておらず、「ばる」が「墾(は)る」からの転訛とすることは無理だろう。

実はこれも朝鮮半島由来説があり、専門家によれば中期朝鮮語に「パル」があり、これは「原」の意味だという。また「ポル」もあり、こちらは「平野」の意味だそうだ。

となると「ばる」は朝鮮語が起源かというと、専門家の調査にあるように朝鮮語の中でも「中期朝鮮語」であり、「古朝鮮語」ではないことに注意しなければならない。

私見では「原」(はら)は古日本語(倭語)であり、「ばる」「ばい」はその九州における転訛に過ぎないと考えている。

③の八女市で使われる「おちゅういり」だが、筑前煮のように「煮しめ」ないで、汁(つゆ)をたっぷりではなく半分程度残しておいた「お煮〆」のことらしい。



(3)無視されている「周旋5千里」の意味

2024-08-18 08:11:20 | 邪馬台国関連
前述の(1)、(2)とも邪馬台国までの行程に関しての解釈における誤謬を指摘したのだが、いずれも距離及び日数表記に関してのものであった。

最後にもう一つの距離表記について述べておきたい。

それは次の表記である。

<女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り。みな倭種なり。
(中略)倭の地を参問するに、海中の洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋して5千余里なるべし。>

<(意訳)女王国の東には海があり、そこを千里(一日)渡るとまた国がある。すべて倭人種である。
(中略)倭人の国を訪れて倭人にいろいろ問うてみたところ、倭人は海の中の島々に分かれて住み、その島は隔絶した島だったり、島と思っても実は陸地とつながっていたりする。倭人のこの地を船でぐるっと回れば、およそ5千里の距離である、という。>

倭人伝では、(1)(2)で扱った倭国への行程記事のあと、倭人の風俗・制度記事が続くが、その記事の最後に付け加えられた形で再び地理的な記述があり、その最後に「周旋5千里」の一文が来る。

まず初めの「東の海を千里渡るとまた倭人種の国がある」という点だが、この時の「海を千里渡る」の千里は提示した「海峡渡海(水行)千里=一日行程」説に従えば、九州島に所在する女王国から東へ一日渡海したら四国または山口県に到達するから、九州説の補強となる。この点でも畿内説は有り得ないことになる。

次に多くの研究者は(中略)以下の一文について解釈し切れていないし、それゆえか無視する立場をとっている。

<(意訳)>で示したように、この一文は倭の地の地理的状況を捉えたもので、この一文も九州説を補強している。

まず倭国は「洲島の上に絶在する」とあるが、日本列島はそもそも畿内でも島の上にあるということができるから、屁理屈的には畿内も「洲島の上」にあるとこじつけることは可能だ。

しかし「或いは絶え、或いは連なり」という地理的状況は畿内ではあり得ない。

ましてや次の「周旋して5千里」となると、畿内説では全く説明がつかないので、結局のところ無視することになる。(1)と(2)ですでに畿内説が成り立つ余地はないのだから、ここは無視したほうが知的だと言える。

「周旋」は「ぐるっと回ること」だが、これを陸行と捉える向きもあるようだが、八丈島とか伊豆大島のような富士山型の円形の島ならいざ知らず、記述にあるように島なのか陸地につながっているのかよく分からない、つまり、リアス式海岸を持つ島だと島内の海岸べりを隈なく歩いて距離(日数)を計上するなんてことは不可能だろう。

この「周旋5千里」は明らかに水行による距離表記である。

船で回ったらと理解出来たら、ここに先の「水行千里=一日行程説」を適用すれば、この「周旋5千里」とは「船でぐるっと回れば5日の行程」のことである。

九州説でこのような地理的条件に合致するのは、末盧国(唐津市)から西へ水行し、長崎県の西岸を南へ下り、島原半島から有明海に入って今度は北上するコースしかない。もちろん「沿岸航法」の手漕ぎの舟を使っての話である。

唐津市から西回りで有明海に入れば私の比定する邪馬台国(女王国)の八女市までは穏やかな水行ができるはずである。
手書きで細部の正確さについては御免蒙るが、朝鮮半島を描いた「魏志韓伝」によると、「韓は帯方の南、東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す。方4千里なるべし。」とある。

「方4千里」とは「縦横それぞれ4千里」ということで、言うなら「一辺が4千里の正方形」である。

倭人伝では帯方郡から南へ水行4千里(4日)行き、今度は東へ3千里(3日)で狗邪韓国に着くとあり、弁韓と辰韓の間にある狗邪韓国からはさらに東に千里(1日行程)で半島の東端となる。

そこから南の対馬へ千里(1日行程)、壱岐へ千里(一日行程)、末盧国(唐津市)へ千里(1日行程)、都合、3千里(3日行程)である。

この唐津市から船で西回りをし、平戸の瀬戸を抜け、リアス式海岸では名高い長崎半島西岸部から島原半島南端を通ると波穏やかな有明海に入る(点線で示してある)。

このコースがまさに「周旋5千里」つまり水行5日の行程に相当する。

倭地はこのおおむね佐賀・長崎の領域にある国々で構成されていたと考えてよいだろう。後世の旧国名に従えば「肥前」がこれに該当する。

倭人伝では、女王国以北の対馬国から不彌国(6か国)までの国々については「其の戸数・道里は略載できるが、その余の傍国(21か国)は遠絶にして詳しく書くことができない」とあるが、「その余の傍国」とは以上のような国々のことだろう。