鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

『三国志・魏書・東夷伝』に見る倭人系種族(3)

2023-10-05 20:10:41 | 邪馬台国関連

⑦ 倭人

最後は朝鮮半島との間に「定期航路」があったかと思われるほど海路に習熟した倭人の本拠地である九州島の倭人についてである。

邪馬台国がどこにあるかについてはこのブログのカテゴリー「邪馬台国関連」において、すでにさんざん書いてきたことなので、邪馬台国以下九州島内に見える主要な諸国の所在地を簡単明瞭に記しておきたい。

0狗邪韓国・・・金海市(帯方郡から黄海を南下し、木浦沖の珍島から朝鮮海峡を東へ海路で7千里)

1対馬国・・・今日でも同じ対馬島(狗邪韓国から海路で千里)

2一大国・・・一支国、つまり壱岐島(対馬から海路で千里)

3末盧国・・・佐賀県唐津市(壱岐から海路で千里)

4伊都国・・・イツ国と読み、佐賀県厳木町(末盧から東南へ陸路で500里)

5奴国・・・佐賀県小城市(伊都国から東南へ陸路で100里)

6不彌国・・・佐賀県大和市(奴国から東へ陸路で100里)

7 邪馬台国

投馬国と邪馬台国は0から6までの各国への行程が距離(里)で表示されているのに対して、投馬国については不彌国のすぐ後に「南、投馬国に至る、水行20日」と日数表記になっている。

また邪馬台国については投馬国のすぐ後に「南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行10日・陸行1月」と、これも日数表記になっている。

多くの研究者を惑わすのがこの書き方であり、しかも多くの研究者は投馬国は不彌国の南に連続しており、また邪馬台国は投馬国の南に連続した場所にあると思い込んでしまっている。

しかし邪馬台国への行程については女王国の傘下にある21か国の列挙および狗奴国の属性(女王に属さず)について触れたあとに、「郡より女王国に至る(には)、万二千余里」と距離表記があるのだ。

つまり帯方郡から海路で九州の唐津に上陸するまでが1万里、唐津から東南に陸路を歩き伊都(イツ)国を経て不彌国までが700里。合計で1万700里となる。すると女王国までは1万2千里から1万700里を引くとあと1300里となり、唐津から佐賀平野の西部までの距離の2倍弱の場所が邪馬台国(女王国)ということになる。

私はそこを八女市域とした。九州説では非常に多くの比定地があるが、八女市を邪馬台国に比定した研究者は多くはないけれども数名はいる。

ただ問題は「伊都国」の比定地である。私は唐津市から東南に遡上している松浦川沿いの道をまさしく「東南陸行500里」の道と考えたわけだが、八女市を邪馬台国と考えた研究者も伊都国については福岡県糸島市説としており、これは誤りである。

糸島市は旧怡土(いと)郡だが、この郡名の「いと」は仲哀天皇紀と筑前風土記(逸文)によれば本来「五十(いそ)」または「伊蘇(いそ)」が正しく、「イトと読むのは後世の転訛だ」とわざわざ書かれているし、郷社の「高祖神社」の祭神が「高磯姫(たかいそひめ)」であることからも裏付けられる。

糸島市を伊都国に比定したことで、「東南陸行」が実際は「東北陸行」なのだから九州上陸後の倭人伝の方角は南を90度反時計回りにした東に変えて読まなければならない――という論法がまかり通り、距離表記から考えたら全く有り得ない畿内に邪馬台国を持って行くという虚説が大手を振るうことになった。

ここらで伊都国=糸島説の虚妄から目覚めないと、九州説、畿内説いずれにせよ邪馬台国の所在地については蜃気楼化するほかない。残念な、いや、残念過ぎる話である。

8 投馬(つま)国

さて投馬国の所在地であった。投馬国も邪馬台国と同じく「南至る投馬国、水行20日」というように日数表記になっていることから考えると、邪馬台国が「(帯方)郡より女王国に至る(には)」と表記されたのと同様、投馬国も「郡より南、投馬国に至る、水行20日」と「郡より」を補うべきだろう。

この「水行20日」だが、最初の10日は帯方郡から狗邪韓国を経て末盧国までの「水行1万里」に相当する。

そのわけは、朝鮮海峡(対馬海峡)を渡る際の距離表記から推量できる。この海峡渡海の3区間は狗邪韓国から対馬間が千里、対馬と壱岐の間も千里、壱岐と唐津の間も千里とあり、どの区間も距離はかなり違うのにすべて千里という距離で表されている。

どの区間の行程にも当てはまるのが、「2地点間の渡海は一日行程」ということで、「日の出とともに漕ぎだした船はその日のうちに渡り切らなければならない」のである。

これを朝鮮海峡の渡海3千里に当てはめると、日数表記では3日の行程となる。また帯方郡から狗邪韓国までが7千里なので日数表記では7日、したがって帯方郡から唐津の末盧国までの1万里は日数表記に直すと「10日」。これがまさに「南、邪馬台国に至る、水行10日・陸行1月」の中の「水行10日」に該当するのだ。

投馬国の場合はこの末盧国(唐津市)までの水行10日に加え、さらに10日の合計20日であるから、唐津からさらに九州の沿岸を水行するわけで、東回りなら宮崎県の沿岸部から大隅半島に、西回りなら鹿児島県の薩摩半島のいずれかに到達する。

投馬国の戸数は一国で5万戸という大国なので、鹿児島県と宮崎県を併せた領域、すなわち古日向の領域がこれに該当する。

9 狗奴(くな)国

狗奴国については女王国に属さず、しかも従来から不和の関係にあったと倭人伝は記す。また王の名は「卑弥弓呼」(ヒミキュウコ)そして官に「狗古智卑狗」(クコチヒコ)がいるとしてある。

位置については21か国の最後に登場する奴国(5の奴国とは同名別国の奴国)が八女邪馬台国をぐるりと取り囲む最南部にあり、さらに「その南、狗奴国有り」としてあるのと、官に「菊池彦」と推察される人物がいることから今日の熊本県の領域と考えられる(ただし菊池川右岸の玉名市を除く)。

王の「卑弥弓呼」は「卑弓弥呼(ヒコミコ)」の誤りだろう。卑弥呼が女王であるのと対照的な男王ということである。戸数については記載がないが、おそらく3万くらいはあったのではないかと思う。

 

以上が倭人の本拠地である九州島の主要な国家群で、卑弥呼の統治する邪馬台国傘下の21か国と、属していないが投馬国という大国や敵対しているこれも大国の部類に入ると思われる狗奴国などがあったことが分かる。

 

(追 記)

「倭人」という用法

魏書の『東夷伝』ではシリーズ①から③に見るように、北の夫余からはじまって南の倭人まで7種の種族にを取り上げてその国勢(人口・戸数)、国政(統治者・統治組織)そして風俗(風物・風習)を記している。

これら7種族のうち、朝鮮半島の北半分を占めてい濊(ワイ)こそが朝鮮半島における倭人種の大国であった(『山海経』に記された偎(ワイ)人、愛人の存在)。

そして、その北に展開する高句麗や夫余は漢王朝が北朝鮮に楽浪郡を置き(前108年)、また燕の公孫氏が自立して半島に勢力を及ぼした(200年前後)ことによって濊(ワイ)が分裂し、北へ移動した結果国としてのまとまりが生まれたのが夫余に見える「濊王之印」であり「濊城」であった。

最後の7番目には倭人の本拠地である九州島の国勢・国勢・風俗がかなり克明に記述されているのだが、そもそも不思議なのはなぜ「倭」とか「倭国」ではなく「倭人」なのだろうかということである。

他の6種族については「人」はなく、倭にだけ「人」が付いて「倭人」なのはどうしてかという点については意外に問題視されないのだ。

この問題について詳しく考察しているのは作家の松本清張である。

清張は邪馬台国について『古代史疑』と、全6巻という大部で古代日本の歴史を書いた『清張通史』の第一巻『邪馬台国』で考察しているが、後者には10項目のうちの2番目に「倭と倭人」がある。

多くの邪馬台国論者の中で「倭と倭人」について取り上げているのは清張くらいなものだろう。かく言う私も『邪馬台国真論』(2003年刊)を書いた時点でこの点については論外であった。

結論から言うと、清張は「倭人」はもちろん「倭」でもあるが、「倭」とも「倭国」ともしなかったのは、三国志記述の史官・陳寿が『漢書地理志』の次の記述に従ったからであるという。

<東夷は天性柔順(従順)にして、三方の外とは異なれり。故に孔子は道の行われざるを悼み、桴(いかだ)を海に設け、九夷の外に居らんと欲す。故あるかな、夫れ、楽浪海中に倭人有り>

この「東夷は従順であり、その中に倭人がいる」という記事と、神仙思想に感化されていた史官の陳寿が「倭」または「倭国」とせずに漢書地理志の用法に従って「倭人」としたのだろうと考えている。だから「倭人」を「倭国」と書いても一向に差し支えない――と述べている。

私も漢書地理志の「楽浪海中に倭人有り」こそが「倭人」の出どころだと考えたい。

そしてさらに次のように考えてみたいのだ。

「楽浪海中」とは具体的には紀元前108年に漢の武帝が置いた朝鮮半島の北半分を統治する楽浪郡の海域のことである。当時はまだ公孫氏の置いた帯方郡はなく、楽浪郡は言わば朝鮮半島の代名詞でもあった。

その海中とは今日の黄海を指しているわけだが、要するに朝鮮半島の東側に広がる黄海全域と考えていいのではないか。

とすると「楽浪海中に倭人有り」とは、「黄海全域を海域に持つ朝鮮半島全体に倭人がいた」ということに他ならない。

倭人の本拠地は倭人伝によれば九州島であるが、少なくとも三国志の書かれた3世紀に至るまで、九州島を含めて朝鮮半島全体に倭人がいたとして大過ないだろう。

(※その様相を例えるなら、近代アジアにおいて中国大陸から南方のシンガポールやマレーシア・インドネシアに多数の華僑が移住したが、華僑は「華人」だが中国人ではないのと同様である。)

半島にいた倭人は唐新羅連合軍との戦い(白村江の海戦=663年8月)で徹底的に敗れたのち、引き上げるか向こうに吸収されるかして命脈は断たれた。

さかのぼっていつから半島に居住するようになったかについては未詳であるが、孔子が世の乱れを嘆き「船を浮かべて九夷に行きたい」と思った時期は紀元前500年代であるから、その時期には「天性従順な」倭人が朝鮮半島を居住地としていたに違いない。

 

 

 

 


吉野ケ里フィーバーと邪馬台国

2023-09-24 14:22:24 | 邪馬台国関連

一昨日(9月22日)金曜日の夜10時から、NHKテレビで「アナザーストーリー」という番組があり、吉野ケ里遺跡の発掘当時のフィーバーぶりを検証していた。

佐賀県神崎郡の吉野ケ里が考古学上のフィーバーを引き起こした陰に、朝日新聞社とNHKの「邪馬台国を大きく取り上げて吉野ケ里遺跡と繋げよう」という思惑があったとし、そのことで「出し抜かれたと考えた地方紙西日本新聞社」が反撃を食らわせたというのが、アナザーストーリなのだそうだ。

具体的には次のようなことであった。

吉野ケ里は佐賀県神崎郡にある小高い丘陵地帯で、そこを開発して工業団地を造成して地元に雇用を増やそうとしていたのだが、以前からちょくちょく遺物が見つかっていたため、造成工事に取り掛かる前の1986年度から佐賀県の教育委員会が主体となって発掘調査を始めた。

巨大な建物の柱穴や、深い環濠が見つかったことで1989年の1月23日に現地説明会が開かれたのだが、その遺跡を朝日とNHKが「邪馬台国の発見か」というような刺激的な見出しで当日の朝刊に発表していたのである。

この衝撃的な発表は、実は当日訪れていた学者の中に考古学の権威者の一人で、当時国立奈良文化財研究所にいた佐原真という人が朝日新聞に漏らしていたからだという。

これに対して九州新聞界の雄である西日本新聞社は4,5日後に「北墳丘墓」の甕棺から発見された十字型の剣(有柄銅剣)と多数の管玉を受けて、「吉野ケ里の王を発掘した」とスクープした。

これはセンセーショナルな話題となり、当時の佐賀県知事自身が当地を訪れ、「吉野ケ里の工業団地の北側の3分の1は手を付けないで保存する」と言わしめたのであった。

これにより吉野ケ里の保存活動は国を動かし、1991年には「国特別史跡」となり、その10年後には国営の「吉野ケ里歴史公園」として整備された。

さて、邪馬台国との関連だが、吉野ケ里遺跡の年代は弥生時代中期であり、魏志倭人伝記載の邪馬台国時代とは200年も早い時期の遺跡であるゆえ、朝日新聞とNHKが発表した「吉野ケ里は邪馬台国か」という設定は誤謬ということになる。

ところで発表のあった1989年1月の同じ頃、作家で古代史関連の著作が多数ある松本清張が訪れているビデオが流されていた。

邪馬台国九州説の清張はすわここが邪馬台国かとの期待を以て来訪したのだが、残念ながら時代が合わないということでやや消沈したようだ。

松本清張の著作では直接邪馬台国を扱った書として有名な『古代史疑』があり、また『清張通史』(全6巻)の「1、邪馬台国」があるが、前者は1973年、後者でも1986年の発刊であり、まだ吉野ケ里の発掘が行われていなかった。

清張の考える邪馬台国(女王国)は「筑後と肥後の間にある筑肥山地」を挟んで、南に「狗奴国」そして北側が邪馬台国だというもので、狗奴国は今日の熊本県以南を領域としていたが、筑肥山地の北側に展開する筑後川流域の広大な領域だったのだが、どこに女王国の政庁(宮殿)があったかについては言及を避けていた。

そこで吉野ケ里に上述の宮殿跡らしき柱穴や王墓が見つかったので、広大な佐賀平野の東部の一角を占める神崎郡の中の吉野ケ里が邪馬台国のそれかもしれないと期待を持ったのは無理からぬことだったろう。

※(1)女王国と狗奴国の戦いについては『古代史疑』の中の「稲の戦い」(p153~178)と「1、邪馬台国」の中の「8南北戦争」(P198~229)に詳しく述べられている。)

※(2)清張は方角はともかく、距離表記(里程)と日数表記との区別に関しては同列と見ており、また「水行」(航行)距離表記は虚数(でたらめ)だと断じている。水行の千里が「航行の1日行程」を表していることに気付かなかったのは残念至極である。

※(3)吉野ケ里では、例の石棺の出た日吉神社周辺のさらなる発掘調査を開始したそうである。邪馬台国関連ではないが、紀元前後かそれより古い遺跡・遺物が新たに発見され、その時代相を考えるきっかけになればよいと思っている。

 


『三国志・魏書・東夷伝』に見る倭人系種族(2)

2023-09-21 20:21:24 | 邪馬台国関連

(1)では南満州の夫余から高句麗を経て朝鮮半島の北部を占める東沃沮(ヒガシヨクソ)、挹婁(ユウロウ)そして朝鮮半島北部の大国「濊(ワイ)」について述べて来た。

結論として濊(ワイ)こそが歴史的な大国であったが、紀元前194年に秦末の混乱で燕から逃れて来た衛満によって濊の王であった箕子(キシ)の王統である準が南へ走り、その約90年後(BC108年)には衛満の朝鮮(衛氏朝鮮)が今度は漢の植民地支配(楽浪郡)によって東西に分断される羽目になった。

その結果、北方に逃れた多くの濊人がいて南満州の夫余にまで達したのだが、その証拠が夫余にある「濊王之印」および「濊城」の存在であった。(※夫余の国庫には印のほかにも玉壁が多数あったともいう。)

朝鮮半島に置かれた漢(前漢)の楽浪郡よりさらに南部、おおむね今日の漢江流域に「帯方郡」を置いたのは公孫氏で建安年中(AD196~220年)のことで、この帯方郡の設置によって朝鮮半島南部の「韓」と「倭人」のことが詳しく知られるようになった。

魏王朝によって帯方郡までが掌握された結果、半島南部の韓およびさらに海を隔てた九州島の倭人と魏の交流関係が始まったのである。

 

⑥【韓(カン)】

・韓は帯方郡の南に所在し、南には倭がある。4千里四方の地を占める(今日の韓国の地理ではソウル南部以南、金海市に比定される倭人国家「狗邪韓国」までの間の地域)。

・韓には三種あって、馬韓・辰韓・弁韓に分かれる。

〔馬韓〕

・馬韓は韓の西部の大国で、農業国家である。桑を植え、また綿布を作っている。

・各所に統率者がおり、大を「臣智」、次を「邑借」と言っている。城郭はない。

・およそ50国に分かれており、大国は戸数が1万戸を下らず、小国でも1千戸はある。合計すると10万戸余りである。

・中で「月支国」はかつて辰王が支配していた国であったが、その辰王は馬韓国内では「天から降りて来た聖者で、狗邪韓国や辰韓を統治している」と表現されていた。

(※辰王については出自が書かれていないが、「月支」は「ツクシ」と読めるので、筑紫(九州島)に依拠していた王が半島の南部を支配していた可能性を見たい。)

・紀元前1000年の頃、殷王朝末期の混乱を逃れた箕子がまず朝鮮北部の濊(ワイ)に入って王となり、40数代のちの準王の時に衛満によって国を奪われ(BC194年)、半島南部の馬韓に逃れている。(※この苗裔がのちに辰韓12国を開くことになる。)

・5月にタネ(モミ種)を撒き終わると、「鬼神」(祖霊)を祭り、みんなで歌い舞う。その舞い方は数十人が一緒になって低く高く手を挙げたり足を運んだりする。

・10月に収穫が終わると5月の種蒔きの時と同様、歌い舞う。

・大きな村では一人を選んで「天神」を主宰させる。この人を「天君」と名付けている。

・諸国には村落とは別のムラがあり、それを「蘇塗(ソト)」と言っている。大木を立てて鈴や鼓を懸けて「鬼神」(先祖)に仕える。

・これと言って珍宝はない。草木や禽獣はおおむね大陸と同じである。

・男子には時々「文身」(入れ墨)が見られる。

〔辰韓〕

・馬韓の東に位置している(今日の慶州一帯)。

・古老が言うには辰韓には秦の勃興期の混乱を避けて逃れて来た者が多い。ただし馬韓を経由し、馬韓から土地を与えられたりした。

・言葉は馬韓とは違っている。国を「邦」、弓を「弧」、賊を「寇」という。

・楽浪人を「阿残(アザン)」と言うが、東方人は自分のことを「阿」と言い、阿残とは「自分たちの残り」という意味である。

・辰韓を秦韓と言うこともある。

・12国に分かれている。

・弁韓と辰韓あわせて24か国あり、総戸数は4~5万戸。

・12か国は辰王に属するが、統治については馬韓人に任せている。辰王は12か国の形式的な王であり、自立していない。

〔弁韓〕

・辰韓と同じく12国に分かれている。

・統率者の大を「臣智(シンジ)」、次を「険側(ケンソク)」、次を「樊濊(ハンワイ)」、次を「殺奚(サッケイ)、最後を「邑借(ユウシャク)」と言う。(※トップの臣智と最後の邑借だけなら馬韓の統率者と同じ制度名である。その間の3クラスの名は著しく貶めた名であるから、これは東夷伝特有の蕃夷扱い用法だろう。)

・国には鉄が出て、半島はおろか倭人たちもやって来て採取している。交易には鉄を貨幣として用いているが、これは大陸の「銭(銅銭)」と同じである。

・男女は倭に近く、また男子には文身が多い。

・弁韓(弁辰)と辰韓は雑居している。言語や衣服等の風俗は区別がつかない。馬韓と同様にやはり鬼神(祖先)を祭っている。

・弁韓の「瀆盧(トクロ)国」は倭と境を接している。

・12国各国にはそれぞれ王がおり、法俗は特に厳しく守られている。

 

〔評〕

「弁韓(弁辰)と辰韓とは雑居している」という記事があるが、「雑居」とは境界がない状態のことで、相互に往来がかなり自由に行われていたことを示している。

弁韓を「弁辰」と書くことが見えるが、弁辰は「辰を弁ずる(分かつ)」と解釈され、要するに弁韓は辰韓が12か国の支配を確立したのちに半島に渡った九州島の倭人たちが新たに国を形成したからだろう。

九州島沿岸の倭人たちはいわゆる「航海民」であり、身体に「文身」を施していた。この文身とは入れ墨のことだが、海中に没入した際にサメのような大魚に襲われるのを防ぐ効果があった。後には「飾り」となり、航海民以外の男子にも流行したようである。

航海民は半島に渡り鉄資源の採取や製錬に従事し、九州島や本州の王権に「鉄資源」を供給するのを生業としていた。弥生時代後期は列島で「鉄」が多用されるようになり、彼ら半島と九州島を往来する倭人は相当に富裕になったはずである。

半島において鉄採取の中心となったのが「伽耶山」であった。この鉄山からの鉄は「韓・濊・倭」がこぞって採取に従事し、楽浪・帯方の二郡にも供給されていた。当然倭国内にも流通していた。奈良市の神功皇后陵と言われる御陵の陪塚からは大量の鉄挺(テッテイ=鉄の延べ板)が発掘されたが、おそらく伽耶鉄山由来のものだろう。

馬韓・弁韓・辰韓に共通する習俗として「鬼神」(祖霊)を祭るというのがあり、特に馬韓では別の居住地があって大木に鈴鼓を懸けて祭ったり、さらに「天神」を祭っている。その司祭者を「天君」と呼んでいるという。

「天君」を「テンクン」と呼ぶべきか「あめぎみ」と呼ぶべきか迷うところだが、『隋書』の「倭国伝」には

<倭王の姓は阿毎(あま)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号を阿輩雞彌(あべきみ)、遣いを使わして闕(ケツ=宮殿)にいたる。>(開皇20年=600年の条)

と見え、後の天皇に当たる王の姓は「あま(天)」、字は「たらしひこ(足し彦)」、そして号を「あめぎみ(天君)」と呼ぶと書いている。6世紀後半には号として「あめぎみ」と言われたようだが、これこそ馬韓の「天君」と重なる。

倭国から馬韓へか、その反対かは決めかねるが、当時、倭国の一部である九州島と半島の南部までは同一の言語圏であり、信仰も似通っていたことが見て取れる。

辰韓の記述で不可解なのが辰韓の王のことで、

「辰王は常に馬韓人を用いて之(これ=統治)を作し、世々相継ぐ。辰王は自立して王と為るを得ず。」

とあるのだが、辰韓12国を支配下に置きながら、辰王はそこに居らず、代々馬韓人に支配を任せているという。したがって当然、辰王は辰韓国内では自立した王となっていないのである。

こんな不可解なことがあろうか。

しかし辰王の一族はすでに半島を去って海を越えた九州島に本拠地(王宮)を移した――と考えれば納得がいく。魏王朝の半島支配が辰王にとって耐えがたいものになり、一族を連れて亡命に近い移動を敢行したのだろう。その行き先を私は糸島(旧怡土郡=糸島市)と考えている。

筑前風土記逸文によると、仲哀天皇にまめまめしく仕えた糸島の豪族「五十迹手(いそとて)」は、我が祖先は半島南部の「意呂山(おろやま)」に天下りました、と天皇に訴えたというが、この糸島にやって来たのはこの亡命して来た辰王のことではないかと思われる。

その人物とはずばり「ミマキイリヒコイソニヱ」こと第10代崇神天皇である。「イソニヱ(五十瓊殖)」の「五十」を通説では「イ」としか読まないが、これはおかしい。「イソ」と読んでこそ歴史はつながる。

崇神天皇の皇子がまた「イクメイリヒコイソサチ」こと垂仁天皇で、共に「イソ(五十)」という諡号を持っているではないか。

邪馬台国の解釈で、ほぼ定説になってしまっている「伊都国糸島説」だが、これはまず唐津(末盧国)からの方角が違い、またここが伊都国なら壱岐国から船で直接着けられるのに、なにをわざわざ唐津からの難路を歩かなければならない(東南陸行500里)のか合理的な説明がない。誤りと言う他ない。

豪族の五十迹手(いそとて)が仲哀天皇によって与えられた地名は「伊蘇(イソ)国」であり、このイソが「五十」に引き当てられたのである。したがって糸島は「伊蘇国または五十国」でなければならず、倭人伝上の「伊都国」に比定するのは間違いである。

古来、糸島水道は格好の船溜まりであり、そばには「加也山(かやさん)」があり、領域内の大社に「高祖(たかす)神社」があり、祭神は「高磯(たかイソ)姫」であるから、イソ国であることの否定のしようが無いと思うのだが・・・。

 


『三国志・魏書・東夷伝』に見る倭人系種族(1)

2023-09-15 20:47:43 | 邪馬台国関連

邪馬台国を取り上げた「倭人伝」が記載されているのは、中国の正史『三国志』の中の「魏書・巻30・烏丸(ウガン)鮮卑(センピ)東夷伝」である。

AD220年に後漢が滅亡したあとの大陸は魏と呉と蜀の3ヶ国に分裂し、蜀が263年に、魏が265年に滅んだあと15年後には呉も滅び、280年に晋王朝よって統一されるまでの60年間が『三国志』の範疇である。

三国の中でも魏王朝は、東夷と呼ばれた朝鮮半島から九州島までの倭人の情報をかなり詳しく把握しており、晋王朝の史官であった陳寿(チンジュ)は魏王朝にもたらされた倭人系種族のあらましを今日に残してくれた。

陳寿は東夷に七種族ありとしてそれぞれの種族について当時としてはかなり詳しく書き残している。

その七種族とは北から「夫余(フヨ)」「高句麗」「東沃沮(ヒガシヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓(カン)」「倭人」である。

これら七種族を私は倭人系種族として怪しまないのであるが、これから「倭人伝」以外の六種族について箇条書き的に取り上げたいと思う。

 

①【夫余(フヨ)】

・玄菟(ゲント)郡から東へ千里にある(ほぼ南満州を指す。シェンヤン・フ―シュンを含む一帯)。

・広さは2千里四方。(※一辺を歩くと20日かかる行程。)

・戸数は8万戸で、半島以北の倭人系種族の中では最大である。

・東夷の諸国の中では最も平原が多い。

・「君主あり」と言うが、具体的な王名はない。

・官に馬加・牛加・猪加・狗加・大使者・使者の7ランクがある。

・漢代に漢王朝に朝貢し、玉壁などを賜与されていた。ただ、印には「濊王之印」とあり、また国内に「濊城」と名付けられた城があり、夫余王はもともとは濊国に居たようだ。

・白衣を尊ぶ。

・跪き、手を地面について物を述べる。

・古老は「昔、ここへ亡命して来た」と言う。

【評】

夫余の古老が言い伝えている「我々は昔、この地に亡命して来た」という伝承と、「濊王之印」の存在と「濊城」と名付けられた城があることとは完全に整合しており、夫余には濊からの亡命者が多かったことが分かる。白衣を尊ぶことも濊と共通している(後述)。

 

②【高句麗(コウクリ)】

・遼東の東千里にある。鴨緑江中流から上流の山岳地帯に属する2千里四方が領域である。

・戸数は3万戸。

・大山と深い谷が多く、良田はない。

・「王あり」と記すが、王名はない。

・官に相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・相衣・先人の9ランクがある。

・後漢の光武帝8年(AD32年)の時に初めて「高句麗王」を名乗って朝貢した。

・遼東を独立国にしようとした公孫氏と組み、たびたび楽浪郡治に反抗したが、魏の明帝の景初2年(238年)に公孫氏が司馬懿将軍に討たれると、魏王朝に帰順した。

・五族(五部)がある(涓奴・絶奴・順奴・灌奴・桂婁の各部)。

・伝承では夫余の別種だという。

・10月に天を祭り、「東盟」(トウメイ)という大会を開く。

・国の東に洞窟があり、そこに「隧神(ズイシン)」がいるとする。

【評】

高句麗の支配領域は今日の北朝鮮の北半分、鴨緑江流域の山岳地帯である。「良田がない」のは当然だろう。

後漢の始めの頃には高句麗王を名乗る支配者がいたが、三国時代に魏の司馬懿将軍の攻略により王族を中心に北方の夫余に走ったと思われる。そのことが伝承の言う「高句麗は夫余の別種だ」つまり同国人ではないが夫余の別派であるという認識と一致する。

その夫余だが、そこには「濊王之印」と「濊城」とがあったとあり、そうなると夫余の南にありその別種だという高句麗も、北朝鮮南部の大国「濊」との関係は当然あったはずである。(※濊については後述)

面白いのが「東盟」であり、国の東にある洞窟にいるという「隧神」である。

前者は「東方に向かって誓いを立てる」と言う意味で、これは日の出に向かって祈ることと解釈される。今日の「初日の出」(東方拝)を思わせる。

後者の「隧神」だが、「隧(ズイ)」とはそもそも穴とかトンネルの意味なので直訳すれば「洞窟にいる神」となる。そうなるとこの隧神は、スサノヲの残虐に堪えられなくなった天照大神が「岩屋(洞窟)」に籠ってしまった姿が連想される。

「東盟」にせよ「隧神」にせよ太陽神への崇拝が原点のように思われ、倭人の風習に近い。

 

③【東沃沮(ヒガシヨクソ)】

・高句麗の東で、東海(日本海)に面している(現在の北朝鮮咸鏡南道の一帯である)。

・戸数は5千戸。

・大君主なし

・邑ごとに長帥(村長)がいる。

・秦王朝の末期の混乱期(BC200年頃)に、燕から亡命して来た衛満(エイマン)が朝鮮王を自称した時、東沃沮はこれに属していた。

・しかし漢の武帝が衛満の孫の右渠(ウキョ)を誅殺し、半島部に四郡が置かれた際(BC108年)、沃沮は北方の玄菟郡に帰属した。のちの後漢時代、初めは濊に属していたが、やがて高句麗に臣属した。(※【評】は④と合評する。)

④【挹婁(ユウロウ)】

・東沃沮のさらに北方の海岸沿いにある。

・戸数の記載なし。

・大君長なし。

・邑ごとに大人がいる。

・もと夫余に属していたが、黄初年間(220年~226年)に叛乱を起こした。夫余は鎮圧しようとするが毒矢と山岳に拠るゲリラ戦のため手こずっている。夫余人に似ている。

・寒さがはげしいため穴居生活をしているが、操船が上手であり、時に近隣を襲うことがある。

【合評】

東沃沮と挹婁は朝鮮半島の北東部に連なり、共に日本海に面している。どちらも戸数は少なく、君主と呼ぶような者はいない。後者の挹婁で特記すべきは「操船が上手」ということだろう。内陸国家の農牧畜主体の夫余が支配しようとしたが、生業の違いが袂を分かったようである。

 

⑤【濊(ワイ)】

・高句麗の東、挹婁の南、辰韓の北、東は海に面する(今日の北朝鮮域から東沃沮と楽浪郡域を除外した領域である)。

・戸数は2万戸

・大君長は無し。

・漢王朝が朝鮮・満州に四郡を置いた(BC108年)ことで、楽浪郡が設置され、今日の北朝鮮の中心領域を占めていた国の西半分を奪われ、上に見る領域に縮小された。

・魏による半島統治の頃(AD230年代)には、官として「侯邑君(コウユウクン)」と「三老」があった。

・殷王朝末期(BC1000年頃)に亡命して来た殷の王族の「箕子(キシ)」の王統が続いたが、40数代目の準(ジュン)王の時、燕からやって来た衛満によって王権が奪われ、準王は南の韓に逃れた。

・魏王朝の楽浪郡治下では大人が「不耐濊王」という称号を与えられた。楽浪郡への租税負担と兵役奉仕により、魏王朝からは「良民」の待遇を受けていた。

・山川に入会制度のようなものがあり、みだりに入ることはできない。

・疾病で人が死ぬと、その家を取り壊して建て直す。

・10月に天を祭り、昼夜にわたって歌舞飲食する。

・虎を神として祭る。

・厳しい刑罰が定められていて、人を殺せば死を以て償う。

・同姓の者は結婚できない。

【評】

朝鮮半島の倭人系種族の中心はこの濊(ワイ)であったようだ。夫余の項で見たように、夫余には「濊王之印」と「濊城」と名付けられた城があった。

「濊王之印」は濊に王がいた時代、つまり衛満によって国が乗っ取られたBC200年の頃にさかのぼる時代までに作成されたか、あるいは秦王朝もしくはそれ以前の周王朝から配布されたものなのか判断はできないが、いずれにしても朝鮮半島に君臨していたのは「濊王」であった証拠と言える。

その貴重な王の印が夫余の国庫にあったと夫余伝は記すが、その王印が夫余にもたらされたのは燕の衛満が侵略し準王が追放された時(BC194年)か、前漢王朝による朝鮮半島四郡分割統治の時(BC108年)だろう。

どちらかは判明しないが、どちらの侵攻にせよ当時の濊人の相当数が高句麗を越えて夫余に亡命移動した結果、230年代には夫余の戸数が8万という濊(2万戸)と高句麗(3万戸)を併せてもなお3万戸も多い驚くべき人口を抱えるに至ったに違いない。

「濊(ワイ)」という種族名(国名)だが、奇書とされる『山海経(センガイキョウ)』の「海内経」の中に次のような記述がある。

<東海のうち、北海の隅に国がある。名は朝鮮天毒。この国の人は水に住む。偎(ワイ)人、愛(アイ)人がいる。>

山海経は著者も由来も不明の書だが、専門家の小川啄治(湯川秀樹の父)によれば、戦国期以前に洛陽で作成された物だろうという見解である。紀元前403年に始まった戦国期より古いとなると紀元前500年頃になるが、地理的に荒唐無稽と言われるのもうなずける古さである。

朝鮮半島を意味する「朝鮮天毒」という貶めたような記述にまず驚かされるが、「朝鮮」とは「朝の鮮やかな土地」という意味であり、日の出に近い大陸から見ればはるか東の地域にふさわしい命名である。ただ「天毒」については大陸の中心以外は「蕃夷」だとする中華思想のなせる命名だろう。

特記すべきはその東の半島に住む「偎(ワイ)人」と「愛(アイ)人」である。このうち「ワイ」は「濊」そのもので、半島に住んでいるのは「ワイとかアイ」とかいう人々だと言っているのだ。

さらに言えば半島から海を隔てた列島の住人は「ワ(倭)」であった。そこに濃密な関係性を見ない方がおかしいだろう。

要するに半島における倭人系種族の中心は「濊(ワイ)」人であったとして大過ないと思うのである。

   ※(1)の部、終わり。

 

 

 

 

 

 

 


古日向域の巨大古墳②

2023-07-28 17:46:38 | 邪馬台国関連
【男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳】

古日向域(鹿児島県と宮崎県を併せた領域)の中でも宮崎県側には前方後円墳はじめ円墳や方墳などでも大型のものが多く、県域でこれら土を盛った「高塚古墳」は3000基は下らないとされている。

この数は高塚古墳の本場大和地方と、関東の両毛(上野・下野)地方と並び、全国でも屈指の数を誇っている。

中でも西都原古墳群に所在する「男狭穂塚」と「女狭穂塚」(以下「古墳」を省略)は最大の高塚古墳で、ほぼ同時に造営されたと言われ、被葬者が誰なのかに関心が集まっている。

宮崎県当地では並んで造られたこの二つの古墳の被葬者を(1)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメ説と、(2)諸県君牛諸井と娘で仁徳天皇の后妃に入内した髪長姫説、とに分かれている。

まず(1)の説だが、これは日向神話(天孫降臨神話)から比定された説で、いわゆる「神代」と言われる時代にこのような高塚古墳があったとは認めがたいので、即時に否定される。

次に(2)の諸県君牛諸井(うしもろい)を男狭穂塚にあて、娘の髪長姫を女狭穂塚に当てる説であるが、牛諸井が大和王権に仕えていたが年老いたため娘の髪長姫を代わりに差し出し、自分は本国に帰った(応神天皇13年条の割注による)とあるので、牛諸井が男狭穂塚の被葬者である可能性はゼロではないが、大和に上がった娘の髪長姫の墓が女狭穂塚である可能性はゼロである。

以上から男狭穂塚と女狭穂塚の被葬者についての地元宮崎の伝承は受け入れがたい。

ただ諸県君牛諸井の支配領域は「諸県(もろかた)」であるので、西都原よりも南の今日の都城市一帯からさらに南部の鹿児島県大隅半島部の大崎町・志布志市がこれに相当し、その領域内にある大型古墳なら牛諸井の陵墓として該当するかもしれない。

【狭穂彦と狭穂姫】

そこで視点を変えてみる。

垂仁天皇の后に「狭穂姫」がいた。この女性の出自は垂仁天皇紀では記されないのだが、実兄に「狭穂彦」がおり、この人物は開化天皇紀によると皇子の日子坐(ヒコイマス)王の子であるから、第9代開化天皇の孫に当たっている。垂仁天皇も開化天皇の子である崇神天皇の皇子であるから、やはり開化天皇の孫世代に当たる。

したがって垂仁天皇と狭穂姫の婚姻は世代的には整合性のあるカップルである。

ただし、どのような経緯で婚姻に至ったかの付いての記述はなく、垂仁天皇の2年に「狭穂姫を立てて皇后とす。后、ホムツワケノミコトを生みませる。」といきなり紹介されているだけである。

ところが4年になると急転直下、狭穂姫の兄狭穂彦が謀反を起こすよう狭穂姫をそそのかすのだ。

「なあ狭穂姫よ、垂仁と俺とどっちが好きなんだ。俺が好きだったら垂仁を殺せ。俺が天下を治めるのだ。」

こう姫に迫ったのである。

姫は兄の方を選んだのだが、垂仁を殺すことができず、かえって狭穂彦が謀反を起こしたとして天皇側から攻撃される。

この一件が垂仁天皇紀には「狭穂彦の反乱」として一項目を当てられ、かなり長い記述になっている。

だが、その内容が単純そのものなのである。サホヒコとサホヒメは堅固な稲城を作って、防戦したというのだが、その稲城がどこに造られたのか、防戦の仲間(配下)はいたのかいなかったのか、などについては全く書かれていないのである。

この点では同じ天皇に対する謀反でも、崇神天皇の時にあった「タケハニヤスとアタヒメの反乱」とは全く違う。こちらは官軍のヒコクニブクが奈良山に登って陣を敷いたこと、タケハニヤスに矢を射って殺したこと、多くの敵軍の首を斬り「はふりぞの」に捨てたことなど、争乱の姿が実に具体的であった。

ところがサホヒコの反乱には全くそれがないのだ。果たして奈良のどこで起きた叛乱なのか首を傾げるのである。

そこで私はどうもこの反乱は大和地方で起きたものでないのでは?――という疑問に逢着したのだ。

【キーパーソンは八綱田(やつなだ)】

垂仁天皇は鎮定将軍に「八綱田」という人物を起用する。

これに対してサホヒコは稲を積んで堅固な「稲城」を作って籠城した。妹のサホヒメも「兄を失ってはともに天下を治めることはできない」と皇后の身を捨てて兄のいる稲城に、皇子ホムツワケを抱いて入った。

これに対して天皇側は皇后と皇子の帰順を促すが、皇后は姿を現しながら結局従わなかったので将軍八綱田は稲城に火をつけて焼き払った。

(※この時皇子のホムツワケが救い出されたという記述はないが、23年条に30歳になっても言葉を話せなかったホムツワケが、空を飛ぶクグイを見て単語を発したため、アメノユカワダナに命じて取りに向かわせ、ついに但馬国で捕えた――という記事があるので、救い出されたのは確実である。古事記では稲城が焼き払われる前に赤子のホムツワケは天皇軍側に渡っている。)

稲城が焼き払われたことで首謀者のサホヒコとサホヒメが死んで「サホヒコの反乱」は一件落着となる。

この戦いで官軍を率いた八綱田は垂仁天皇から戦功を賞され、次の姓を貰うことになった。その性とは

<倭日向武日向彦八綱田>

で、これを多くの市販本の脚注は「やまとひむか・たけひむか・ひこ・やつなだ」と読むのだが、意味を採れ切れずにうやむやにしている。

この長い姓の中の「向」の解釈がなされていないことが最大のネックになっているのだ。

この「向」は「日向」という熟語として読んでは意味が分からないのである。「向かう」という述語として読まなければならないのだ。

そうすると次の解釈に至る。

<倭日(やまとひ)に向かい、武日(たけひ)に向かいし彦・八綱田>

倭日(やまとひ)とは、「あまつひ」からの転訛で、端的に言えば「邪馬台国」である。邪馬台国を私は「アマツヒツギのヒメミコの国」と考えており、アマツヒツギは漢字表現の邪馬台に、またヒメミコは漢字表現の卑弥呼にほかならない。

さらに武日(たけひ)とは古事記の国生み神話において筑紫(九州島)を構成する4つの国(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち熊曽国がこれに該当している。熊曽国の別名が「建日別(たけひわけ)」であった。

以上から「彦(彦は本名のあとに付くのが普通だが、この場合「男の中の男」という強調表現だろう)八綱田」という人物は、九州の邪馬台国との戦いに従軍し(向かい)、さらに熊曽国との戦いにも従軍した(向かいし)軍士として一流の人物であったという属性が判明する。

こう解釈ができると、大和地域の内部(佐保地方)で起きたと一般に言われていることに対して大いに疑問符が付くのだ。大和地方の戦乱を鎮定したのならなぜそのような姓が与えられたのか、全く説明のしようがないのである。

【狭穂彦の反乱の性格】

サホヒコがいきなり皇后であった妹をそそのかして垂仁の天皇位を奪おうとしたのが、サホヒコの反乱の趣意であった。

しかしそれが大和地方で起きたようには感じられず、まして反乱を鎮定した将軍に対して「倭日(やまとひ)に向かい、武日(たけひ)に向かいし彦・八綱田」という賜姓が行われたことから考えると、実はサホヒコの反乱は崇神天皇時代に大和で起きた「タケハニヤスヒコの反乱」に呼応する叛乱ではなかったかと思われるのである。

要するにサホヒコは、タケハニヤスを最後の王権者とする南九州由来の「橿原王権」の南九州における近親者であり、遠く大和を治めていたはずの南九州由来の王権が北部九州から侵攻した「五十王権」こと崇神王権によって打倒されたという情報を得て、加勢すべく立ち上がったのだろう。

そこを足早に攻勢に出て来たのが八綱田を将軍とする官軍で、かつて南九州の投馬国王権が畿内大和へ向かったのとは反対に、海路攻め上って来た。

サホヒコは稲城を造って防戦したというが、南九州には「稲積」という地名伝承があり、防御施設としての稲城は普遍的であったのかもしれない。だが、サホヒコは敗れた。

妹のサホヒメが垂仁天皇の最初の皇后だったというのは、垂仁天皇こと「イクメイリヒコイソサチ」の時代、つまり「生目」(倭人伝では伊支馬)だった若き日に南九州(古日向)の投馬国から貰った嫁だったことを意味しているのだろう。

そのサホヒメも兄のサホヒコに殉じた。ただし垂仁(イクメイリヒコ)との子ホムツワケを残して。ホムツワケは稲城が燃え、すべてが火の中に崩れ落ちる前に救い出されたのだが、このシーンはカムアタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)が「火中出産」したことを想起させるに十分だ。

かくて古日向のおそらく諸県地方から宮崎地方のどこかで、サホヒコとサホヒメは火の中で帰らぬ人となった。

これを悼んだ古日向人が西都原台地の奥津城に葬ったのではないだろうか。それこそが「男狭穂塚」と「女狭穂塚」であったとは考えられないだろうか。