鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向域の巨大古墳①

2023-07-25 21:06:56 | 邪馬台国関連
一昨日の大崎町総合体育館での「カブトムシ相撲大会」で、参加した孫たちの2回戦、3回戦の順番待ちをしている間、館内は暑いので入り口のロビーに行くと、そこには工業用扇風機が回っており、かなり涼しかったのでしばらく休憩を兼ねて待つことにした。

と、隣のベンチを見ると、どこかで会ったことのある高齢者がやはり暑さを避けて座っていた。

孫たちがベンチから離れて館内に行ってしまうと、その高齢者を間近に見ることになった。

ああ、もしかして――と気付き、意を決して高齢者に挨拶した。

「Tさんですよね?大隅史談会にいた松下です。」「ああ、松下さんか」

というわけで、もうかれこれ6、7年ぶりになるだろうか、当時の面影がそのままはっきりと思い出された。

「御無沙汰してます。」「いや、いや、こちらこそ」

T氏は私より11歳上の84歳だという。矍鑠としているが、「実は胃がんの手術後でね」には驚いた。

「そうなんですか。でもお元気そうですよ」「いや、いや。まあ、何とか」

口振りなどは当時と変わらず、穏やかな人である。

「Tさん、7年かそのくらい前に、この体育館で、大崎町の横瀬古墳のシンポジウムがありましたよね」

「そうだったね、ゲストに著名人が来てくれてね」

T氏は大崎町の文化財審議委員をされていたから、その当日はゲストの人たちを出迎えていたようだ。

横瀬古墳とは前方後円墳で長径が140m近くもある巨大古墳で、しかもシンポジウムの前に「二重の周濠のある畿内型前方後円墳」ということが確認され、大きな話題になっていた。

鹿児島県内では前方後円墳は少ないと思われがちだが、少ないのは薩摩半島側で、大隅半島側では140m級の2基を含めて30基ほどは確認されている。

古墳群としては「飯隈古墳群」「神領古墳群」(大崎町)、「岡崎古墳群」(串良町)、「唐仁古墳群」(東串良町)、「塚崎古墳群」(肝付町高山)などが挙げられ、この中でも「唐仁古墳群」最大の前方後円墳「大塚古墳」は全長が148mという南九州でも屈指の大きさである。

南九州のうち鹿児島と宮崎両県域を併せた領域を私は「古日向」と呼んでいるが、この古日向域で最も大きいのは宮崎県西都市に所在する「男狭穂(おさほ)塚古墳」と「女狭穂(めさほ)塚古墳」で両者はほぼ全長が180mと共通である。

この2古墳を別格として、次に位置するのが唐仁大塚古墳で、それに次ぐのが横瀬古墳であるという。

これら4つの古墳のうち男狭穂(おさほ)塚古墳と唐仁大塚古墳はどちらも前方部が貧弱(?)という特徴を持ち、女狭穂(めさほ)塚古墳と横瀬古墳は定型的な前方後円墳の形状をしている。

横瀬古墳の場合はさらにかつては周濠を二重に巡らせており、その点では形状が似ているとはいえ女狭穂(めさほ)塚古墳とは大きく異なっている。

ただし女狭穂(めさほ)塚古墳は西都原古墳群のある西都原台地の中でもやや小高い地点に築かれているから、そもそも周濠を巡らすための水利がないのは当然と言えば言える。もし台地の上ではなく低地に築かれていたら、周濠があったのかもしれない。

その条件は西都原台地の男狭穂(おさほ)塚古墳にも当てはまる。その一方で肝属川の河口に近い低地にある唐仁大塚古墳には一重だが立派な周濠がある。

「松下さん、横瀬古墳の被葬者は誰だと思う?」T氏は難しい質問をして来た。

「うーん、横瀬古墳には畿内型の2重の周濠があるということだから、畿内と強い関係のある人物でしょうね。それから古墳の前方部の一角に賀茂神社が祭られているようで、そうなると古日向の鴨族の首長で畿内大和で活躍した人物。もしかしたら半島に渡りながら向こうで勝手な振る舞いをしたので王権から叱責されたという葛城襲津彦なんかどうでしょう?」

「いや、それは考えたことがないな」

T氏の困惑顔を目の当たりにしながら、それ以上の考えは引っ込めたが、はてさてこれから考えを深めてみよう。

その前に実は西都原古墳群の盟主「男狭穂(おさほ)塚」と「女狭穂(めさほ)塚」については、とある心当たりがあるのでそっちをまずは考えてみたいと思う。





トヨスキイリヒメとヤマトヒメ

2023-07-15 09:49:17 | 邪馬台国関連
ブログ『伊勢神宮の創設1・2』で、北部九州の「大倭王」である糸島の五十(イソ)国出身の崇神天皇の娘であるトヨスキイリヒメが王権の宮殿内で、天照大神の御正体である八咫鏡を祭ることができたと書いた。

その一方で、倭(大和)の地主神の最高位「倭大国魂神」を別の皇女のヌナキイリヒメが「髪落ち痩せて」祭ることができなかったのは、そもそも崇神王権は土着のつまり大和地方自生の王権ではなかったことの大きな証拠であるーーとした。

天照大神を祭ることができたトヨスキイリヒメの出自は記紀ともにもちろん崇神天皇の皇女であり、古事記では「豊鉏入日売命」書紀では「豊鍬入姫命」と書くが、共に兄にトヨキイリヒコがいる。

兄と妹の名に共通の「豊(トヨ)」が気になるところで、「豊」とは国生み神話で言う九州島の「豊国」であれば兄のトヨキは「豊城」で豊国の王城、妹のトヨスキは「豊津城」と書ける。

どちらも崇神五十(イソ)王権が糸島を本拠地として勢力を伸ばしていた時代(弥生時代後期)に豊国までその傘下に入れたことの象徴的な皇子(トヨキイリヒコ)・皇女(トヨスキイリヒメ)の名ではないかと思いたい。

ところで私は国生み神話による九州島(筑紫)の4つの国(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち、豊国の「豊」の名の由来は八女邪馬台国の2代目の女王「台与(トヨ)」から来たと考えている。

247年頃に女王卑弥呼が死に、一時の混乱後にその後を継いだのが卑弥呼の宗女(一族の娘)台与であった。このトヨが女王に就任後は崇神五十(イソ)王権こと北部九州「大倭」の庇護の下、280年代までは比較的平和な時代が続いたが、崇神王権が畿内へ東征を果たすとにわかに風雲急を告げることになった。

八女女王国南部の菊池川以南に威を張っていた狗奴国の侵攻が始まったのだ。

狗奴国は菊池川以南の今日の熊本県域を勢力範囲とする男王国で、卑弥呼の時代から敵対関係にあったが、女王国内部に崇神王権から派遣されていた監督官「生目(イキメ・イキマ)」が崇神の畿内東遷に付いて行ってしまうと、狗奴国はしめたとばかり北進を開始した。

「生目(イキマ)」は倭人伝にあるように女王国の4等官のうち最上位の「伊支馬」のことである。この1等官「伊支馬」に当時就任していたのが崇神の皇子であるイクメイリヒコ(のちの垂仁天皇)だったであろう。

崇神五十(イソ)王権こと「大倭」が東遷し、その庇護を失った八女邪馬台国は狗奴国の侵攻にあえなく崩壊の危機を迎え、女王の台与(トヨ)は亡命を余儀なくされた。八女の東側に聳える九州山地の奥深いルートを移動し、険しい山岳を超えて今日の豊前へと落ち延びた。そしてそこで現地の崇神王権と親交の深い豪族によって保護された。

保護されたと言ってもあの邪馬台国の女王である。新しい王宮を提供され、言わば邪馬台国の亡命王権が始まった。そこで現地を女王台与(トヨ)に因んで、「トヨ国」要するに「豊国」となったのだろう。

私はこの台与(トヨ)こそが崇神の皇女として書かれている「トヨスキイリヒメ」(豊国の王城に入った姫)だとも考えている。

トヨスキイリヒメが女王トヨその人であれば、アマツヒツギから邪馬台国という漢字名称が生まれたことからして「アマツヒツギ」すなわち天照大神の「日継(ヒツギ)」に関する祭祀には習熟しており、そのことを奇貨とした崇神王権が大和へ台与(トヨ)こと「トヨスキイリヒメ」を纏向の王宮に招聘した可能性が考えられる。

女王台与(トヨ)ことトヨスキイリヒメがその招聘に応じて九州の豊国から出かけたのは、崇神王権が畿内纏向に王権を樹立して間もない頃とすれば、280年代の後半から290年代前半のころだろうか。この頃の台与の年齢は、仮に卑弥呼の死んだ247年に卑弥呼同様に13歳ほどで女王に立ったとすれば、55歳くらいである。

それから崇神の後継垂仁天皇の皇女ヤマトヒメに天照大神の祭祀を引き継ぐまで、果たして何年経たかは書紀の紀年からは正確に読み取ることは不可能だが、15年から20年は祭祀を継続したと考えると70歳から75歳であろうか。

随分歳のようにも思えるが、卑弥呼が247年に亡くなった時の年齢が、卑弥呼が擁立されたとされる後漢王朝の桓帝・霊帝時代の末期の188年頃とすると、当時13歳だったから175年の生まれであり、247年から差し引くと死亡時の年齢は72歳となり、台与(トヨ)が祭祀を75歳まで担当していたとしても有り得ることになる。

引退後のトヨスキイリヒメの境遇は、亡くなったのか、それとも豊国に帰ったのか、一切不明である。
 

伊勢神宮の創設(2)

2023-07-12 20:25:26 | 邪馬台国関連
前回の『伊勢神宮の創設(1)』に続く。

日本書紀の垂仁天皇紀の25年では、天照大神が天皇の宮殿で祭られること(同床共殿)を嫌われたため、皇女のヤマトヒメが天照大神の祭祀をするにふさわしい場所を求めて放浪し、最終的に伊勢の地に適地を見つけたことを記している。

垂仁天皇の皇女ヤマトヒメは、それまで天照大神を奉斎していた崇神天皇の皇女トヨスキイリヒメの後任になったが、祭りの場を天皇の宮殿から離れたところに求めて、まず宇陀地方の篠幡(ささはた)に行った。

ところがそこは祭りの場としてはふさわしくなかったのだろう、次に行ったのははるか北の近江の国だった。しかしそこもパスして今度は美濃に行った。

それでもまだ最適ではなかったようで、南下してついに伊勢国に到った。ここで天照大神がヤマトヒメに神懸かりして次のように言ったという。

<この神風の伊勢の国は常世の浪の重波(しきなみ)よする国なり。傍国の可怜(うまし)国なり。この国に居らむと欲す>

(※神風は伊勢に掛る枕詞という。常世はあの世(神の世界)で、重波は繰すこと。傍国(かたくに)は中心から外れた国。)

<大神の教えのままに、その祠を伊勢国に建て給ふ。よりて斎宮を五十鈴川の川上に興せり。これを「磯宮(イソの宮)」といふ。すなはち天照大神の初めて天(あめ)より降ります処なり。>(垂仁紀25年3月条)

天照大神が適地と決めたのは伊勢の国であった。そしてさっそく天照大神を祭る祠が建てられ、さらにヤマトヒメが常住して祭祀を行う「斎宮(いつきのみや)」が五十鈴川の河上に建てられた。(※ヤマトヒメは五十鈴川で禊ぎをしたようだ。)


以上が伊勢の国に天照大神の社が建てられた経緯である。

ここで注目すべきは「五十鈴川」である。この川を通常「いすずがわ」と読むのだが、私は「五十」を「イソ」と読んで「いそすずがわ」と読む。そう読めばおのずと明らかだろう。

あの崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にある「五十」との繋がりである。要するに糸島地方が崇神・垂仁の二代を通じて「五十(イソ)」だった地名の遷移に他ならない。

また最初に建てられた祠のことを「磯宮」と言っているのも、同じく糸島の「五十(イソ)」から採られている。

天照大神を鏡に写して祭る祭祀の嚆矢が、糸島(五十=イソ)地方にあったと考えてよいと思うのである。




伊勢神宮の創設(1)

2023-07-11 09:35:07 | 邪馬台国関連
7月7日のブログ『夏の大三角形と石棺の蓋』の最後の方で、崇神天皇が開いた纏向の王権はそれまでの南九州投馬国由来の橿原王権に取って代わったが、次代の垂仁天皇の時代に皇女ヤマトヒメが伊勢神宮創始のもとを作ったのは南九州由来の王権では成し得なかったことだ――と書いた。

今回はその点について、日本書紀の垂仁天皇紀から記事を抽出し、考察しておきたい。

垂仁天皇は崇神天皇の皇子で和風諡号を「イクメイリヒコイソ(五十)サチ」といい、父の和風諡号「ミマキイリヒコイソ(五十)ニヱ」とは「イソ(五十)」が共通である。

この「イソ」の「五十」とは福岡県糸島市のことで、九州説にせよ畿内説にせよ多くの邪馬台国論者が糸島市を「伊都国」と比定している。しかしそれだとまず末蘆国(佐賀県唐津市)からの方角が合わず、また糸島市なら壱岐国から直接船が着けられるのにわざわざ唐津から海岸沿いの悪路を迂回する必要はないことから、それが誤りであることは常識的に考えれば誰もが分かりそうなものだ。

糸島地方がもともとは「五十(イソ)」だったことは、仲哀天皇紀と筑前風土記逸文に「イソ(伊蘇=五十)が正解で、イト(伊覩)は後世の転訛である」とちゃんと断ってあるのだが、無視されている。また糸島市(旧前原町)の旧社「高祖(たかす)神社」に祭られているのは「高磯媛(たかいそひめ)」であり、美称の「高」を外せば「イソヒメ」で、やはり糸島地方は「イソ」だったことが分かる。

だが伊都国糸島説は本当に根強く、江戸時代から連綿と続く邪馬台国論において真理とされ、疑問を持っても改変しようという勇気ある論者はほぼ皆無である。ここを改正しないと邪馬台国論は水掛け論が際限なく続く(現実に続いている)。

この五十(イソ)地方を根拠地として発展したのが半島からの崇神王権で、やがて北部九州(筑前)をほぼ糾合し、「大倭」と称された。倭人伝に記載の「大倭をして監せしむ」とある「大倭」である。

これに対して八女市を本拠地として筑前と筑後をまとめていた邪馬台国連盟21か国の中心である八女女王府に「伊支馬(イキマ=イクメ)」という名の「1等官」として赴任していたのが崇神の皇子垂仁こと「イクメ(活目)イリヒコ」であった。

しかしながら五十(イソ)由来の崇神王権が「大倭」(大倭国)と称されるまでになった頃、半島における魏王朝の圧力の高まりを受け、崇神(五十)王権こと大倭は北部九州を離れることを決意する。行き先はかつて南九州投馬国が入部していた畿内であった。

三年余りという短期間で畿内の大和纏向に入った崇神王権は、大和にとってはよそ者であるがゆえに、崇神の皇女ヌナキイリヒメは土地神の最高位である「倭大国魂神」を祭ることができなかった(これが崇神王権の大和自生でない大きな証拠だ)。

その一方で天照大神については皇女トヨスキイリヒメによって無事に祭ることができていた。ということは天照大神についてはすでに崇神天皇が北部九州の五十(糸島)に王宮を構えていた頃には祭っていた可能性が高い。

天照大神は高天原の存在でミスマルの玉こそが神宝であったのだが、地上において祭るには「ご神霊を鏡に写して祭る」のが祭祀の方法であった。糸島の弥生甕棺墓からもだが、考古学者原田大六によって「弥生古墳」と名付けられた平原古墳からは大量の鏡が被葬者に添えられていた。

その数何と40面。特筆すべきは「八咫鏡」と言われる伊勢神宮の神宝(御正体)と同じ「八咫」(八咫とは鏡面の周囲の長さ。直径は約46㎝)の大きさの巨大な鏡が4面あったことだ。皇室祭祀に連なる伊勢神宮神宝の八咫鏡信仰は糸島こと「五十(イソ)」から始まったと考えらてよいのではないか。

崇神(五十)王権こと「大倭(国)」が畿内纏向に東征したあと、トヨスキイリヒメが天照大神を祭り続けられたのも、すでに糸島において鏡の祭祀に習熟していたがゆえに、途切れることはなかったのだろう。

ただし天照大神は天皇の宮殿内に祭られる「同床共殿」を嫌がられたので、垂仁天皇の時代になって皇女ヤマトヒメがトヨスキイリヒメと交代してから祭祀の適地を求めることになったのであった。・・・(2)へ続く


夏の大三角形と石棺の蓋

2023-07-07 20:14:28 | 邪馬台国関連
テレビのどの番組だったか忘れたが、例の吉野ケ里遺跡の中の日吉神社跡地で発掘された石棺の蓋に多数のばってん(✖)が刻まれていた謎について、天文学者の見識が出されたという。

天文学者によると、ばってん(✖)の線刻は無数にあるが、よく見ると大きな✖が三角形を作っており、その位置的な形態を考えるとどうも星座では有名な「夏の大三角形」ではないか――という。

夏の大三角形とは天の川を挟む織姫星(ベガ)と彦星(アルタイル)そしてもう一つの頂点となるデネブという3つの1等星によって作られている。

しかし「夏の大三角形」以外のその他の線刻については、口を閉ざしていた。もちろん他の無数の線刻は「天の川の星々だ」と開き直れるが、それはそれでかなり乱暴な見方だろう。

そもそも星を線刻のばってん(✖)だけで表すというのも、芸がなさすぎる。重要な星のシンボルなら五角形は難しいにしても、丸や二重丸に刻むのがより具象的だ。

それよりやはりこれら線刻の✖は抽象性を表現したものだろう。例えば「悪霊を寄せ付けない」というような精神性を持った表現なら死者への祈りの表現としてふさわしいのではないか。

しかしそれにしても大量の✖である。葬られた死者はよほど悪霊に狙われやすい人物だったのか。

もっと現実的に考えると、この石棺の被葬者は石棺の大きさからして当時(弥生時代後期=2世紀代)の吉野ケ里における女王的な存在で、敵対勢力によって殺害された悲劇の巫女王だったのかもしれない。

そのため敵対勢力から大切な巫女王の亡骸を奪われまいとして、石棺の石の蓋にあのように多数の線刻の✖を刻んだのだろうか。

だが亡骸らしき痕跡は副葬品と共に皆無だったというから、そもそも亡骸はそこには葬られなかった? それとも副葬品もろとも奪われてしまった?

いや一度は石棺におさめたのだが、敵から荒らされるのを恐れて別の所に改葬したのか?

ミステリーは際限なく続く。

ところで今朝の新聞では、石の蓋は4枚に割れていたが、実は2枚の石であったという。1枚は約100キロ、もう1枚は割れる前の重さが200キロはあったともいう。

蓋石の石材の山地も特定されたようだ。報道によると、佐賀県と長崎県にまたがる多良岳の玄武岩であったという。

多良岳は吉野ケ里からは40キロも西方の山で、陸路ではなく海路船で運ばれたそうである。

当時の吉野ケ里を治めていた勢力が、遠く40キロも離れた多良山地を支配していた別の勢力と親しい関係にあったことが推測でき、かつ有明海北部の水運も勢力下にあったか、もしくは親しい関係にあったことも推察される。

ただし、今しがた触れた日吉神社跡地の被葬者の「巫女王」は決して邪馬台国女王ではなく、邪馬台国女王の連盟下にあった国の一つを治めていた巫女王に過ぎないと私は考える。

私が比定する邪馬台国は福岡県八女市を中心とする一帯で、2世紀から3世紀の半ばまでそこを中心にした女王国連盟が吉野ケ里を含む佐賀県域と長崎県域に所在したと考えている。

佐賀県域と長崎県域は当時「肥の国」(肥前)であった。

古事記の国生み神話では筑紫(九州島)を構成する4つの国々(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち「肥国」は別名を「建日向日豊久士比泥別(建日に向かい、日の豊かにして、奇日の根分け)」と言ったとある。

この別名を解釈すると、肥国とは「熊曽国に向かい合っており、日(霊力)が豊かであり、奇日(クシヒ)の分派である国」ということで、筑後の八女の地政学的な状況を表している。最期の「奇日(クシヒ)」は「大王(おおきみ)」と言い換えられる名称である。

いずれにしても弥生時代後期の九州には、八女邪馬台国の女王連盟(筑後と肥前)とその南に狗奴国(熊曽国の一部)があり、さらに南にはのちの古日向(薩摩・大隅・日向=ほぼ現在の鹿児島県と宮崎県の領域)である投馬国があった。そして女王連盟の北には北部九州の大部分を勢力範囲とし、女王国をも監視下に置いていた糸島五十王国(崇神王権=大倭)があった。(※ただし豊国こと豊前豊後は卑弥呼亡き後に亡命的移住を果たした宗女台与(トヨ)に因む国である。)

さらに時代が進んだ卑弥呼亡き後のトヨの時代の280年代に、糸島五十王国(崇神王権)を中心とする「大倭(タイワ)」が、半島における大陸王朝「晋」の侵攻が九州北部に及ぶのを見越して畿内への「東征」を敢行した。これを私は「崇神東征」と名付けている。

290年代の前半には東征が果たされ、約150年前に南九州の投馬国から移住的な「東遷」によって樹立された橿原王権を打倒した。その時の橿原王権最後の王と女王(もしくは一族の巫女王)が「武埴安(タケハニヤス)・吾田媛(アタヒメ)」のコンビであった。

進入した崇神王権が北部九州の倭人連合国家「大倭(タイワ)」であるがゆえに、入部した畿内の奈良桜井の土地の名が佳字化されたのが「大和」に他ならず、また「大和」が「タイワ」ではなく「やまと」と呼ばれるのは、邪馬台国の「ヤマタイ」の原義である「アマツヒツギ」の漢音化による転訛「ヤマタイ」に因んでいる。

またこれは再三述べてきているが、崇神王権が北部九州という他所からの侵入者である証拠が崇神紀の5年~6年に記されている国内の疲弊や反乱の記事であり、決定的なのはそれまで畿内大和地方に代々居住してきた自生の王権であるならば、大和大国魂(ヤマトオオクニタマ)という土地神を皇女のヌナキイリヒメが祭れなかったということはあり得ず、この記事は崇神王権が大和自生の王権ではなかった最大の証拠である。

ただ、崇神天皇の次代の垂仁天皇の時代に皇女ヤマトヒメが天照大神の神霊を「鏡に移して(写して)祭る」ための場所を、現在の伊勢に求めたがゆえに、今日の伊勢神宮の創建及び祭祀につながった点は大いに評価してよい。それまでの南九州由来の橿原王権では成し得なかったことである。